東京大空襲 喜美子は16歳だった
はじめに
祖母・喜美子はまさに口から先に生まれてきたような人で、僕が物心ついた頃から、放っておけば延々とどうでもいいことを喋っていた。
なので子供の頃から聞かされていた「東京大空襲の日、たくさんの爆弾が空から降ってきて、川に浮かんだいかだにしがみついて命拾いをした」という話も、不遜にも
「またなんか言ってらあ」
くらいにしか思わなかった。
しかしその「なんか言ってら」程度にしか思っていなかったことが、実は非常に重要な体験記だったと気付いたのは、いつのことだったか?
昨年に戦後80年を迎えた現在、当時のことをはっきりと思い出せる人がどれほどいるだろうか。
当時16歳だった祖母も現在96歳。相変わらず口は達者であるが年々身体にガタが来ている。多感な時期に東京大空襲という歴史的にも重大な出来事を体験した人がいる、ということを記録するべく、昨年の11月に2時間ほど当人に話を聞いてみた。
聞き手役になるのは初めての上に、録音したものをほぼそのまま文字起こししただけのものだが、これがなにかの切っ掛けになれば幸いです。
生まれも育ちも東京下町
うちは高橋5丁目(深川区・現江東区)にいて、あそこが一番長かったの。16歳までいたでしょ。戦争まで。そこから小川テント(小川テント株式会社、当時は小川工業株式会社)まで通ったのよ。それで空襲でしょ。みんな焼け野原になって。あたしだけ置いてかれて、みんな引き上げて、石川県にいったから。だから父ちゃんも心配したでしょ。焼け跡になって、連絡も来ないから、今日も来ないなあって。
生まれもあたしは浅草なの。浅草の光月町(現台東区千束・入谷)。いろんなところ転々として。親のところにいられないから、軍需工場行ったの、まだ終戦にならないから。
昔は6年で義務教育終わりだから、中学は今の高校よね。6年で卒業して、その後2年間高等小学校に行って、就職してもう(工場に)入るの。
卒業と就職
卒業したのが昭和19年でしょ。その後小川テントに行って、それであくる年が20年。1年間働いて、3月10日に焼き出されちゃって。みんな縁故あるならどこでも行ってくださいっていわれて。
下町は橋が多いのよ。あたし高橋小学校出たの。昔は大富小学校だったの。5,6年生になって高橋って橋ができて、高橋小学校になったの。
その前に三ッ目通りって大通りがあるの。その目の前に実科工業学校があったの。今は墨田工業高校になってるけどね。その裏にいたの、焼けるまで。
小学校1年生の時に高橋4丁目にいて、その後高橋5丁目の長屋みたいなところに越して、向かって右側に小名木川があるの。
あたしは高橋に16歳までいたの。そこから小川テントに1年間通って。昭和20年の2月末に父ちゃんたちはみんな田舎いっちゃったから、あたし寮に入ったの。それで空襲が3月10日に来たから。
昭和20年3月10日、東京大空襲の日
それで寮にいたから、みんな逃げろ!って逃げ惑って、学校に入ったんだけど、副工場長さんが「目やられるから出ろ!」って言って。熱風でやられちゃうのよね。
それで学校から出て逃げて、後ろの方に出たら清澄庭園が見えたの。それで仙台堀川に飛び込んだのよね。あたし門前仲町の方行ってたら焼け死んでたのよ。
門前仲町行っても火の海、後ろも右も火の海、左にちょこっと橋の手前が空いてたの。三方囲まれて、ふって前見たら川にいかだが浮いてたの。それがなかったらあたし死んじゃってたわよ。いかだもそんなに大きくなかったわよ。人が乗ってたのか乗ってなかったのかもわからない。
それで明け方敵機が帰って、明け方明るくなったでしょ。そしたら引き潮になっちゃって、いかだが動かなくなっちゃったの。それで見たら通りに出るはしごがあったのよ。そのはしごに乗って、誰に連れて行かれたかわからないけれど、小川テントまで行ったの。小川テントは空襲で焼けちゃったけど。
焼け野原を歩く
川から上がって、誰かに連れられて小川テントの月島工場に行ったの。清澄庭園の方から歩いてったのね。車も電車もないし。それで工場のテントの間に2泊か3泊して、中にいた人が「ここにいてもしょうがないから、行き先の住所を書いてください」って行って、石川県の住所を書いたの。母ちゃんの実家。
そのあと子どもの勘ね、高橋小学校に行ったらいるんじゃないかって思ったらおじさんがいて。おばさんは胸やられて、子供は2人空襲で死んじゃったんだって。で、おばさんが苦しんでるからだめだって。それでおじさんが「喜美子ね、こんなところにいてもしょうがないから、田舎に帰れ」って。
それで役場行って罹災証明もらって、電車がタダなの。電車混むのよ。みんな田舎に帰るから。昔は夜行なの。上野から13時間かけて行って、途中七尾線に乗り換えるのよね。それで父ちゃんの実家に帰ったの。
今ほら、こういう時代で年寄りも喋っちゃうでしょ?話ししちゃうでしょ?みんなね、もう(胸のうちに)しまっちゃってるの。話できないのよ。悲惨よ。だってほうぼう燃えてるんだもの。本所深川だけだもの、焼き出されたの。
だから下町なんか写真撮って、これは燃えそうだからって焼夷弾を落とすの。火だから。油でしょ?焼夷弾って。だからあたしもね、寮から出てきてどこか入ったんだけど、突きあたって出ていかれなくなったから戻ろうと思ったら、焼夷弾が眼の前に落ちて、それまたいで出てきたんだから。
それでほうぼう歩いたでしょ。逃げるように駆け出して。みんな荷物持って駆け出して。でもそれに火がついちゃうからだめなの。悲惨よ。
家族との再開、そして終戦
本所深川。深川の下町を狙ったのよね。だから都内でも下町が一番ひどいの。
だから(石川県の)父ちゃんは(疎開先に)行った途端に言うのよ。「喜美子が来た!喜美子が来た!東京は10万人死んだよ!」って。
戦後80年っていうけど、みんな怖いから話さないの。だから戦地行って帰ってきた人はひどいのよ。最初は「軍神だ軍神だ」って柱も建てて、今後は悪口言ってその柱抜かれちゃった人もいるのよ。
軍需工場だから、憲兵だなんだで(石川県に)帰れなかったの。戦地の食事炊事の、マントを作ってたの。傷病師の人の。若い人いないと困るでしょ。みんな兵隊に取られちゃったから。
それでみんな戦地で餓死したりマラリアになったり、それでも終戦しないでしょ。それで原爆2発落とされて初めて目が覚めたんだから。
石川県にも(新聞が)貼ってあるとこありましたよ。それ見てさあ、ああ、これはなんなんだろうなあ、あたしも空襲にあったけどさあ……。悲惨よ、戦争だから悲惨よ。
おわりに
「悲惨」という言葉が何度も出てきた。焼夷弾によって街を焼かれ、火の海の中をさまよい、川へ飛び込み偶然浮かんでいたいかだにしがみついて命からがら助かった。これが「悲惨」以外のなんだというのか。
祖母は戦後祖父と結婚し、戦後のバタバタもありとても苦労した人で、今でもその頃の恨みつらみを延々と話しているが、それができるのもいかだにしがみついて生き延びたからだ。
現在祖母は僕の父と親子二人で暮らしている。くだらない会話ばかりし、時に煙たがられ、時にバカにされたりもする。けれどあの時仙台堀川にいかだが浮いていなかったら、バカバカしい話もできなかったのだ。
「惜しい人を亡くしたなあ」と言われるよりも「またバカなこと言ってらあ」と僕は言われたいし、そういう人が生きていける世の中になってほしい。
「いのちだいじに」という言葉とともに、最後に加川良の曲を引用させて頂き、この文章を締めたいと思う。
死んで神様と言われるよりも
生きてバカだと言われましょうヨネ
きれいごと ならべられた時も
この命をすてないようにネ
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい
