【第33話】ナナミ27歳、看護師「燃え尽き症候群で人のために働くことに疲れてしまった」
令和8年、7月。夜に入ってもなお、アスファルトからは昼間の熱気が容赦なく立ち上り、行き交う人々はハンカチで額の汗を拭いながら足早に駅へと向かっていた。テレビから熱中症警戒アラートのニュースが連日流れる季節だが、看護師として働くナナミにとっては、ただ「忙殺」という二文字が加速するだけの季節でしかない。
彼女の1日は、スマートフォンの無機質なアラーム音で始まる。かつては「誰かの役に立ちたい」という純粋な希望を抱いて白衣に袖を通していた彼女も、27歳になり、現場の中核を担う中堅看護師として、重い責任がのしかかる日々を送っていた。
慢性的な人手不足、押し寄せるルーチンワーク、そして何より、命の現場という極限状態での絶え間ない感情の摩耗。ナナミを襲っていたのは、いわゆる「燃え尽き症候群(バーンアウト)」だった。
「……もう、動きたくない」
天井を見つめ、彼女は呟く。患者からの感謝の言葉さえ、今の彼女には重荷に感じられた。優しく接すれば接するほど、自分の中の何かが削り取られていく感覚。他人の痛みには敏感なのに、自分の心が悲鳴を上げていることには気づかないふりをしてきた報いだった。
その日の夜、ナナミは逃げるように病院を後にした。勤務後の朦朧とした意識の中で、街のネオンがひどく眩しく、刺々しく感じられる。街は再開発で綺麗になり、人々は最新のデバイスを手に足早に通り過ぎていく。しかし、その輝きの中に、ナナミの居場所はどこにもないように思えた。
「人のために働くって、何だろう」
彼女は自分の手が、消毒液の匂いと共にひどく荒れていることに気づく。この手で多くの人を救ってきたはずなのに、自分自身を救う術を彼女は知らなかった。
気づけば、彼女は街の喧騒|《けんそう》を外れ、線路の高架下へと足を向けていた。そこには、時代の流れから取り残されたような一角に、赤提灯が揺れている。寅吉の屋台だ。
「へい、らっしゃい」
寅吉の低い声が、ガード下の振動と共にナナミの鼓膜に届く。短くなった炭を継ぎ足す寅吉の背中は、5年前、彼女が看護学校を卒業して仕事にも少しだけ慣れてきたころに友人と訪れて以来である。その頃から何一つ変わっていないように見えた。
「……寅さん。あぁ、よかった……まだここで、お店やっててくれたんだね」
「おー、久しぶりに見る顔じゃねえか。死ぬまで店を畳むつもりはねえよ。えーっとナナミだったっけ、随分とくたびれたツラしてるなぁ。まずは焼酎か? それとも、喉を焼くような冷てえビールか」
「とりあえず、ビールお願いします」
「あいよ」
トトト、と小気味よい音を立ててコップが満たされる。ナナミはそれを一気に半分ほど煽り、小さく息を吐いた。
「ぷはぁ……。相変わらず、ここのビールは冷えてるね」
「酒の冷たさと炭の熱さだけが、うちの売りだからな。最近、仕事の調子はどうだ?立派にやってんのか」
寅吉の何気ない問いかけに、ナナミのグラスを持つ手がわずかに止まった。
「……まあ、それなりに。毎日、戦場みたいだよ。点滴打って、処置して、ナースコールに追いかけられて。気がついたら外が暗くなってる、そんな毎日」
「そうか。お前さんが白衣着て走り回ってる姿、なんとなく想像つくぜ。真面目すぎるくらいだったもんな、昔から」
寅吉がうちわをパタパタと動かすと、香ばしい煙がふわりと流れてくる。その懐かしい匂いと、変わらない寅吉のぶっきらぼうな優しさに触れた瞬間、ナナミの中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ始めた。

「……寅さん。私、もう無理かもしれない」
ビールを流し込んだナナミの瞳に熱いものが溜まっていく。それは頬を伝ってこぼれ落ちることはなかった。ただ、溢れそうなほどに潤み、炭火の光を乱反射させている。それは悲しみというより、張り詰めていた糸がプツリと切れたような、乾いた涙だった。
「患者さんの顔を見るのが怖いの。笑顔で『ありがとう』って言われるたびに、自分が嘘をついているみたいで。本当はもう、一歩も歩きたくない。誰の悩みも聞きたくない。私、冷たい人間になっちゃったのかな」
ナナミの告白を、寅吉は炭火を熾しながら黙って聞いていた。パチパチとはぜる炭の音が、会話の空白を埋めていく。
「ナナミ、お前は冷たくなったんじゃねえ。器が空っぽになっただけだ。お前はこれまで、自分の器に入っていた『情熱』っていう酒を、他人のコップに注ぎすぎてきたんだよ。自分の分を残しておくのを忘れるくらいにな」
寅吉はそう言うと、手際よく串を打ち始めた。選んだのは、定番の「ねぎま」と、地味ながらも滋味深い「しいたけ」だった。
寅吉はまず、鶏もも肉とネギが交互に刺さった「ねぎま」を網に乗せた。
「いいか、ナナミ。この炭火を見てな」
寅吉は団扇でゆっくりと風を送る。じゅうじゅうと脂の落ちる音が、ガード下に響く。
「火はな、勢いよく燃えりゃいいってもんじゃない。強すぎれば肉は焦げ、炭はすぐに灰になる。長く、じっくりと焼き続けるには、適度な火加減と、時折火を休ませる場所が必要なんだ。お前は、自分をキャンプファイヤーみたいに燃やしすぎたんだよ」
寅吉は、こんがりと焼き色のついた「ねぎま」の皿を、ナナミに手渡した。

「この『ねぎま』を見てみろ。肉の旨味を、隣のネギが受け止めて、全体のバランスを取ってる。お前はこれまで、ネギのいない『肉だけの串』を、強火で焼き続けてきたようなもんだ。自分を支える余裕も持たずに他人のために燃えるのは、プロの仕事じゃねえ。ただの自虐だ」
ナナミは差し出された串を手に取る。香ばしい匂いが、凍りついていた鼻腔をくすぐった。
「お前が救おうとしている連中は、お前が灰になることを望んじゃいねえ。お前が穏やかな炭火でいてくれることを、心のどこかで願ってるはずだぜ。……まずはこのねぎまを食え。誰のためでもねえ、お前自身の身体のためにだ」
ナナミが恐る恐る口に運ぶと、柔らかな肉の弾力とネギの甘みが、乾いた喉に優しく染み渡っていった。
「……おいしい。私、しっかりと味がするものを食べたの、いつぶりだろう」
瞳に溜まっていた熱いものが、さらに潤みを増す。寅吉は次に、どっしりと肉厚な「しいたけ」を裏返した。
炭火の熱を受け、しいたけの傘の裏側には、じんわりと透明な汗のような雫が浮き上がってくる。
「いいか、ナナミ。この雫を見てな。これはな、無理やり絞り出したもんじゃねえ。内側から温まって、こいつ自身が持ってる旨味が溢れ出してきた証拠だ」
寅吉は、その雫をこぼさないように慎重に皿に並べ、ナナミに渡した。

「お前が今、その瞳に溜めてるもんも、これと同じだ。悲しいから出てるんじゃねえ。お前という人間が、一生懸命に熱を持って生きてきたから、中から溢れてきちまったんだよ。それを『冷たい人間になった』なんて、自分を責める道具にするんじゃねえよ」
ナナミは、しいたけを一口噛み締めた。口の中に広がるのは、滋味深い山の香りと、驚くほど濃密なエキスの味。それは、派手さはないが、疲弊した身体の隅々まで染み渡るような優しさだった。
「……私、ずっと、自分が泣いちゃいけないと思ってた。看護師なんだから、私よりも辛い患者さんの前で、弱音なんて吐いちゃいけないって」
「馬鹿野郎。泣かねえ人間が、どうやって他人の痛みを分かってやれるんだよ」
寅吉はぶっきらぼうに言いながら、団扇で炭を扇いだ。
「いいか、ナナミ。白衣を脱げば、お前もただの二十代の小娘だ。神様じゃねえんだから、他人の苦しみを全部背負いきれるわけがねえ。お前が一人で抱え込んでパンクしたら、それこそ患者は路頭に迷うぜ。自分を助けられねえ奴に、本当の意味で他人は救えねえんだ」
「……自分を、助ける?」
「そうだ。しんどい時は『しんどい』って言え。飯がまずい時は『まずい』って言え。自分の心の声を無視し続けるのが、一番の不摂生だぞ」
ナナミはしいたけの雫を飲み込むように頷いた。そして溜まっていた瞳の潤みが、ついに一滴、頬を伝った。それは悲しみの涙ではなく、ようやく自分を許すことができた「解放」のしるしだった。
「さて、仕上げだ」
寅吉が最後に焼き台に乗せたのは、丸々と大きく、ツヤのあるタレを纏った「つくね」だった。
「つくねってのはな、バラバラのひき肉を、卵や繋ぎで一つにまとめ直して作るんだ。お前の今の心も、このひき肉みたいにバラバラかもしれねえ。だがな、一度バラバラになったからこそ、前よりもずっと深くて、柔らかい『新しい自分』に結び直すことができるんだぜ」
じっくりとタレを重ね塗りされ、炭火で黄金色に輝くつくね。寅吉はそれをナナミに手渡しながら、力強い声で言った。
「ナナミ。明日から、少しだけ火加減を落としてみな。患者のために100度で燃えるんじゃなく、まずは自分を温めるために60度でいい。お前がぬくぬくと温まってりゃ、その余熱だけで救われる客……いや、患者は必ずいる。それが本当の『寄り添う』ってことじゃねえのか」
ナナミはつくねを大きく一口食べた。甘辛いタレと、軟骨のコリコリとした食感。それは、不器用ながらも明日へ踏み出そうとする彼女の背中を、優しく叩いてくれるような味がした。

「……ふふ、おいしい。ねえ寅さん、この軟骨、なんだか私の頑固なところみたい」
ナナミが少しだけ照れたように笑うと、寅吉は鼻で小さく笑った。
「軟骨がなきゃ、つくねはただの柔らかい肉団子だ。お前のその『頑固さ』があるから、5年もその過酷な現場で踏ん張ってこれたんだろ。バラバラになりそうな心を繋ぎ止めてるのは、案外その折れねえ芯の部分だったりするんだぜ」
「……寅さんって、本当になんでもポジティブに変えちゃうんだね。私の短所だと思ってたところまで、必要なパーツだって言ってくれる」
「短所も長所も、串の打ち方次第だ。要は、どう焼き上げるかってことよ」
ナナミは、静かに寅吉の方を見た。
「寅さんには、なんでもお見通しなんだね。……私、ずっと、弱音を吐いたら負けだと思ってた。でも、こうやって炭火の前で誰かに話を聞いてもらって、美味しいものを食べるだけで、明日もまた白衣を着れる気がするから不思議」
「負けとか勝ちとか、そんなもんは後回しにしろ。お前ら看護師は、他人の命を背負ってる。だがな、一番大切にしなきゃならねえのは、その命を支えてる『お前自身の命』だ。お前が倒れたら、それこそ元も子もねえだろ。たまには自分を『患者』にして、たっぷり甘やかしてやれ」
ナナミは深く頷いた。
「自分を『患者』にする、か……。うん、明日は帰りに、ずっと食べたかった苺のタルト、買って帰ることにする。自分のための処方箋」
「おう、それがいい。薬局じゃ売ってねえ、最高の薬だ」
寅吉は満足げに頷くと、ナナミの空になったビールの瓶を片付け始めた。
「寅さん、ありがとう。なんだか、心の霧が少し晴れたみたい。……また、器が空っぽになりそうになったら、ここに来てもいい?」
「ああ。うちは年中無休じゃねえが、お前が道を迷った時に見えるように、この赤提灯だけは灯しといてやるよ。次はもう少し、肉のついたツラして来いよ」
「はい!」
ナナミは短く、しかし力のこもった声で答え、がっしりと椅子を引いて立ち上がった。屋台を後にするナナミの足取りは、来た時よりもずっと確かだった。
寅吉は、ナナミの去っていく後ろ姿を、赤提灯の下で静かに見送った。
ガード下を出ると、外気には少しだけ湿り気を帯びた、夏の夜の匂いが混じった風が吹いていた。令和8年、7月。うだるような暑さが落ち着くまでには、まだ少し時間がかかるだろう。だが、ナナミの心の中には、自分を温めるための小さな、しかし消えることのない炭火が灯っていた。
彼女はスマートフォンを取り出すと、明日のアラームを少しだけゆとりのある時間に設定し直した。自分を愛するための「60度の火加減」で、彼女の新しい1日が、まもなく始まろうとしていた。


【おまけ】寅吉のアドバイス「自分を愛するための火加減」
「へい、お疲れさん。……あいつの顔、見たか? 27歳。一生懸命に他人のために尽くして、気づいたら自分の中の火が消えかかってる。そんな奴は、今の世の中、掃いて捨てるほどいる。
あんたも心当たりはねえか? 誰かの期待に応えなきゃいけねえ、弱音を吐いちゃ負けだ……。そうやって自分を『キャンプファイヤー』みたいに勢いよく燃やし続けてりゃ、いつか薪が尽きて灰になっちまうのは当たり前だ。
いいか、覚えといてくれ。 焼き鳥も人生も、『ちょうどいい火加減』が一番難しいが、一番大切なんだ。
他人のコップを満たす前に、まずは自分の器を酒でいっぱいにしな。自分が温まってなきゃ、隣の誰かを温めることなんてできねえ。 たまには仕事を『白衣』ごと脱ぎ捨てて、自分を一番の『患者』にしてやるんだ。あんたの身体や心が欲しがってる『処方箋』は、薬局じゃなく、案外ケーキ屋のショーケースや、静かな夜風の中に転がってるもんさ。
もし今、あんたが『もう一歩も動けねえ』って天井を見上げてるなら、それは心が『火を休ませろ』って言ってる合図だ。 無理に笑わなくていい。溜まった涙は、あんたが熱を持って生きてきた証拠の『エキス』だ。
明日は少しだけアラームを遅くして、自分をたっぷり甘やかしてやりな。 あんたが60度のぬくもりで笑ってりゃ、それだけで救われる誰かが必ずいる。
ま、どうしても自分じゃ火加減が分からなくなったら、またここへ来い。 あんたの心がじわじわ温まるまで、じっくり串を焼いて待ってるぜ。
「🏮🏮🏮これを読んで少しでも心が動いたなら、その感想を一言でいい。あんたの言葉を聞かせてくれ。待ってるぜ・・・🍶」

次回【第34話】アキ55歳、コンビニ夜勤「タイミー先で女子大生に救われた夜」

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おぅ、今夜の話が心に沁みたなら、焼き鳥一本分(190円)ほどお捻りを置いていってくれねえか。あんたのその心意気が、次の旨い話を焼き上げるための『炭代』にさせてもらうぜ。よろしくな!