【第35話】リョウ34歳、フリーランス「自由だけど、孤独で不安でしょうがない」
八月上旬の夜風は、昼間の凶暴な暑さを孕みながらも、時折、アスファルトの熱を帯びた生温かい匂いを運んでくる。街は夏祭りの余韻や休暇前の開放的な喧騒に包まれ、誰もが「次」の予定へと楽しげに足を向けているように見えた。
34歳のリョウは、夜の街の路地裏で、スマートフォンの画面をぼんやりと見つめていた。
画面には、大学時代の同級生が「係長昇進」を報告するSNSの投稿が流れている。誇らしげな笑顔と、彼を囲む同僚たち。
フリーランスのデザイナーとして独立して2年。リョウが手に入れたのは、満員電車からの解放と、好きな場所で働ける「自由」だった。しかし、30代半ばに差し掛かった今、その自由は、出口のない「暗い平原」のように彼を不安にさせていた。
「自由っていうのは……こんなに足元が覚束ないものだったっかなぁ」
フリーランスには定年がない。だが、後ろ盾もない。自分が風邪をひけば仕事は止まり、流行から取り残されれば、音もなく市場から消えていく。組織という守られた檻の中にいる友人たちが、眩しくて、そして恐ろしかった。
じっとりと汗ばむ体を冷まそうと歩き出したリョウの目に、煤けた赤提灯と「やきとり」の文字が飛び込んできた。昭和の残り香をそのまま閉じ込めたようなその店構えに、リョウは吸い寄せられるように暖簾をくくった。
「……いらっしゃい」
カウンターの奥で、炭火を操る一人の男がいた。店主の寅吉だ。短く刈り込まれた白髪にハンチング帽と、深いしわが刻まれたその顔は、長年火と向き合ってきた男特有の、静かな凄みを湛えていた。
「あの、一人です。いいですか?」
「遠慮なく座りな。……兄ちゃん。冷え切ったツラしてやがるな」
「……わかりますか。とりあえず、冷酒と、レバー、ネギマをタレで二本ずつ。それとササミを塩でお願いします」
リョウは重たい溜息とともに椅子に腰を下ろした。寅吉は無言で冷えた純米酒をグラスに注ぎ、目の前に置いた。リョウは手持ち無沙汰になり、また無意識にスマートフォンを取り出して画面を覗いた。

「兄ちゃん、さっきから溜息ばかりついてるが、何か落とし物でもしたか? 誰もが浮き足立つ八月だってのに、お前さんだけ真冬に取り残されてるみたいだぜ」
寅吉が、焼き台の炭を引き上げながらぶっきらぼうに声をかけた。
「……落とし物、ですか。そうかもしれません。2年前、勢いで手に入れたはずの『自由』が、いつの間にかどこかへ消えちまって。代わりに手元に残ったのは、正体のわからない不安だけなんです」
「自由、ねぇ。最近の若え奴はみんなそれを欲しがるが、手に入れた途端に持て余す。お前さん、一人で商売してんのか?」
「はい。デザイナーをやってます。周りは会社で役職がついたり、チームを任されたりしてるのに、僕は未だに一人きり。明日、誰からもメールが来なかったら、僕の居場所はどこにもなくなる……。そんなことばかり考えて、不安になるんです」
リョウの話しを聞きながら、寅吉は炭の配置を微調整し、一本の串に狙いを定めた。
「ふん、メール一本で消えるような場所なら、最初から無いのと同じだ。だがな、兄ちゃん。お前さんがそうやってガタガタ震えてるのは、血の巡りが悪いせいもあるんじゃねえか?」
寅吉はそう言うと、手際よく焼き上げた最初の一皿をリョウの前に差し出した。
「はいよ、レバーだ。こいつを食って、まずは血の巡りを良くしな」

差し出されたレバーは、絶妙な火加減で内側に熱を閉じ込めていた。一口頬張ると、濃厚な甘みが口いっぱいに広がる。しかし、その熱さが、リョウの胸の奥に溜まっていた「鉛のような不安」を少しだけ溶かしていった。
「……大将、僕は今年で34になります。独立して2年、ずっと一人で戦ってきました。でも最近、自分がどこに向かっているのか、何のために仕事をしているのかわからなくなるんです」
寅吉は手を止めず、団扇を静かに動かしながらリョウの言葉を待った。
「フリーランスは自由だ、なんて言われますけど、現実はただの孤独です。誰からも必要とされなくなる日が明日来るかもしれない。僕がいなくなっても、世界は何も変わらない。そう思うと、夜、一人で作業していると息が苦しくなることがあるんです。僕は、正解を選んだんでしょうか」
34歳という、若手から中堅へと移り変わる狭間の年齢。リョウが吐露したのは、かつて憧れた「自由」の裏側に潜む、鋭い牙のような孤独だった。
寅吉は、真っ赤に燃える炭を、じっと見つめていた。そして、次に焼き上がったネギマを皿に置くと、低い、重みのある声で口を開いた。
「兄ちゃん。お前さんは、自由ってのを『楽園』か何かと勘違いしてねえか。誰にも文句を言われず、好きなようにやる。それが自由だって?」
「……そう、願っていました」
「へっ。そりゃあ甘いぜ。自由ってのはな、『誰のせいにもできねえ』って地獄のことだよ。会社にいりゃあ、上司が悪い、景気が悪いって逃げ道がある。だがな、独りで立ってるお前さんには、逃げる場所なんてどこにもねえ。全部、自分の火加減一つで決まるんだ」
寅吉はネギマの串を指差し、言葉を続けた。
「いいか、この『ネギマ』を見てみな。鶏肉とネギ。別々の場所で生きてきたもんが、一本の串に貫かれて、こうして熱い火の上で一緒に汗をかいてる。こいつらは、串に刺される痛みを受け入れて、初めて一つの『旨さ』になるんだ。兄ちゃん、お前さんは、孤独が怖いんじゃねえ。自分を貫く『覚悟の串』が、まだ自分の魂に刺さってねえんだよ」
寅吉は、香ばしい煙を纏った焼き立てのネギマを団扇で軽くあおぐと、皿へと乗せリョウの前に差し出した。

「自分を貫く、串……」
「そうだ。組織の串に刺してもらうのは楽だ。だがよ、自分で自分を貫くって決めたんなら、その孤独は『自由の代償』じゃねえ。『自由の証』なんだよ。はぐれ者で結構、独りきりで上等。その震える足で立ってるってことが、どれだけ尊いことか、お前さんはわかっちゃいねえ」
寅吉は再び団扇を力強く煽った。火の粉が舞い、店内の熱気が一気に上がる。
「孤独を埋めるために誰かに縋るんじゃねえ。孤独を抱えたまま、火に向え。34だろ? まだまだ生焼けだ。ここからどう焼き上げるか、お前さんの腕の見せどころじゃねえか」
寅吉が煽る団扇から放たれた熱風が、リョウの頬を叩く。夏の夜の熱気の向こう側で、寅吉の眼光はさらに鋭さを増していた。
「兄ちゃん、お前さんは『自分が世界から忘れられる』なんて言ったが、自意識過剰もいいところだ。この広い街で、誰かに見つけられ、覚えられ、わざわざ仕事を頼まれる。それがどれほど奇跡的なことか、考えたことがあるか?」
「……奇跡、ですか」
リョウは言葉を失い、冷酒のお猪口を握りしめたまま、寅吉の言葉を一文字も漏らさぬように聞き入った。

「そうだ。看板もねぇ、組織の後ろ盾もねぇお前さんという人間にだ、客がわざわざ金を払うってのはな、お前さんの腕と、これまでの生き方を信じてるからだ。メールが来ねえって怯える前に、これまで途切れずに仕事が続いた自分の足跡をちったぁ信じてやりな。お前さんが一人で戦ってきた2年間はよ、砂上の楼閣なんかじゃねえ。血の通った、お前さんだけの『信用』って財産だ」
寅吉のぶっきらぼうだが確信に満ちた言葉が、リョウの足元に冷たく広がっていた暗闇を、じんわりと照らしていく。リョウの胸の奥で、何かが静かに熱を帯び始めた。
寅吉は三本目の串、今度は「ささみ」を網に乗せた。
「いいか、焼き鳥もデザインも同じだ。職人が自分の仕事を信じてねえもんは、客の心には響かねえ。お前さんが『孤独だ、不安だ』と怯えながら描いた線には、その怯えがそのまま乗りやがる。そんな弱気なもん、誰が金を払って買いたいと思う?」
「……大将、僕はただ、自分を肯定してくれる何かが欲しかったのかもしれません。フリーランスとして、誰にも頼らずにやっていけるだけの『強さ』の証明が」
「強さの証明だぁ? そんなもん、一生手に入らねえよ。俺だってそうだ。この道何十年やってたって、明日、客が一人も来ねえんじゃねえかって、毎晩震えながら火を興してる。だがな、その『震え』こそが、仕事を腐らせねえためのスパイスなんだよ。不安じゃねえ職人なんて、ただの機械だぜ」
寅吉は、真っ白くふっくらと焼き上がった「ささみ」をリョウに手渡した。その上には、鮮やかな緑色のわさびが乗っている。
「食ってみな。こいつは繊細だ。少しでも火を通しすぎればパサつくし、放っておけば冷めて固くなる。お前さんの『自由』も、これと同じだ。真夏の夕立みたいに、移ろいやすい。一瞬の油断もできねえ。だからこそ、面白いんじゃねえか」
リョウはささみを口に運んだ。しっとりとした肉の甘みと、鼻を抜けるわさびの刺激。そのツンとした痛みに、不覚にも涙がこぼれそうになった。自分がいかに「安全な場所」から、誰かに認められることばかりを願っていたかを思い知らされた。

「……大将。僕、自分の孤独を、ただの不幸だと思い込んでいました。でも、一人で机に向かう時間の寂しさこそが、僕が自分として生きている証だったんですね」
「おう、やっと気づいたか。八月はな、誰もが眩しい太陽の下で浮かれ騒ぐ季節だ。だがよ、そんなお祭り騒ぎの影で、じっと一人で牙を研いでる奴だっている。お前さんは、その一歩を2年前にすでに踏み出したんだ。周りが今さら慌ててる中で、お前さんはすでに荒野に立ってる。誇りに思えよ」
寅吉は不敵な笑みを浮かべ、タレの入った壺をかき混ぜた。
「フリーランスの自由ってのはな、『独りで死ぬ自由』じゃねえ。『独りでどこまでも飛べる自由』だ。翼を広げる前に、落ちる心配してどうする。もし落ちたら、その時また、この煤けたカウンターに来りゃあいい。泥だらけになったお前さんに、とびきり熱い焼き鳥を焼いてやるよ」
「大将……そうですね。落ちたら、またここに来て、大将の説教と焼き鳥で温まり直せばいい。そう思ったら、なんだか急に、目の前の霧が晴れた気がします。僕には、帰ってこられるこの場所があるんだから」
「へっ、都合のいい避難所にすんじゃねえよ。だがよ、死にそうなツラして戻ってきたら、いつだって美味ぇ酒と、お前さんを貫くための新しい『串』を用意して待っててやる。だから、安心して外で大暴れしてきな。看板背負ってねぇはぐれ者が、どこまでデカい仕事ができるか、俺に見せてみろ」
寅吉の、ぶっきらぼうな優しさが、冷えた酒のようにリョウの五臓六腑に染み渡っていく。誰にも頼れないはずの荒野の真ん中に、決して揺るがない心の灯台を見つけたような、圧倒的な安心感がリョウを包み込んだ。
リョウは立ち上がり、深く頭を下げた。胸の奥にいた「正体不明の不安」は、いつの間にか、明日への「静かな闘志」に変わっていた。
「大将、ありがとうございます。……僕、もう一度、荒野に戻ります。次は、もっといい『火加減』で仕事してみます」
「へっ、威勢が良くなったな。……おい、忘れ物だぞ」
寅吉が指差したのは、リョウがカウンターに置いていたスマートフォンだった。
「そんな四角い箱の中に、お前の未来は書いてねえ。未来ってのはな、自分の手で掴むもんだ」
リョウはスマートフォンを力強く掴み、鞄にしまった。 店を出ると、夜風はぬるく湿っていたが、リョウの胸には冷酒の爽快感と心地よい熱が同居していた。路地裏を抜けるリョウの背中は、暖簾をくぐった時よりも、ずっと大きく、真っ直ぐに見えた。
数日後。リョウのデスクには、新しいプロジェクトの真っ白なラフが広がっていた。孤独な部屋、静かな夜。しかし今の彼には、その静寂が、自分だけの「熱」をぶつけるための最高のキャンバスに感じられていた。
寅吉の店には、今夜も迷える客が訪れるだろう。そして、頑固な主人の扇ぐ団扇が、誰かの心に消えかかった火種を、再び灯し続ける。 令和の八月。自由という名の荒野に、一人の男が深く、力強い一歩を刻み込んだ。


【おまけ】孤独を焼いて、力に変えろ
……おい、そこであんたも、スマホの画面越しに溜息ついてんじゃねえか?
自由だの、自分らしさだの。聞こえはいいが、いざ手に入れてみりゃ、どこまで行っても自分一人。誰も守ってくれねえ、誰も正解を教えてくれねえ。暗闇の中で独り、生焼けの不安を抱えて震えてる……。
だがな、その『震え』は、あんたが自分の足で立とうともがいてる証拠だ。 誰かが用意したレールの上を歩いてるだけじゃ、そんな寒気は感じねえ。 孤独ってのは寂しさじゃねえんだ。あんたが『あんた自身』を貫き通そうとする時に流れる、熱い汗みたいなもんよ。
八月は誰もが眩しさに目を奪われる季節だが、そんな時こそ独りでじっと自分を焼き上げる奴への、俺なりのエールだ。 周りの奴らが派手に打ち上がる花火を眺めて楽しんでる間によ、地味に、だけど確実に自分の火を熾し続けてるあんたを、俺は絶対に笑わねえ。
何の後ろ盾がなかろうがよ、あんたが今まで一歩一歩踏み締めて走ってきたその道のりは、誰にも奪えねえあんただけの『信用』って財産だ。誰も褒めてくれねえ夜があっても、自分の足跡だけは裏切らねえからよ。落ちる心配なんてすんじゃねえぞ。もし派手にズッコけたら、その泥だらけのツラを引っ提げて、いつでもうちの暖簾を潜りな。とびきり熱い美味ぇやつを焼いて、冷てぇ酒用意して待っててやるからよ。
焦げちまっても構わねえ。まずは自分の火を信じて、思いっきり煽ってみな。 あんたの人生の火加減を決められるのは、あんたの手にある団扇だけなんだからよ。
さぁ、いつまでも四角い箱(スマホ)見つめてねぇで、今夜はもう寝ちまいな。明日からまた、あんただけの荒野で、極上の火加減を見せてみろ。
じゃあな、あばよ!
「🏮🏮🏮これを読んで少しでも心が動いたなら、その感想を一言でいい。あんたの言葉を聞かせてくれ。待ってるぜ・・・🍶」

次回【第36話】サオリ28歳、事務職「お盆明けの虚無――帰省のあとに訪れる底なしの喪失感」

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おぅ、今夜の話が心に沁みたなら、焼き鳥一本分(190円)ほどお捻りを置いていってくれねえか。あんたのその心意気が、次の旨い話を焼き上げるための『炭代』にさせてもらうぜ。よろしくな!