【第32話】ケンジ45歳、飲食店店長「七夕の夜。忘れかけていた妻との絆…」
七月七日。東京の空は、分厚い雲に覆われていた。湿り気を帯びた熱気がアスファルトから立ち上り、ガード下の空気はまるで温いスープのように濁っている。都会のネオンは眩しすぎて、天の川なんてどこにも見えやしない。ただ、通り過ぎる電車の轟音だけが、祭りのあとの静寂をかき消すように響いていた。
やきとりの赤提灯は、そんな喧騒の中で、古びた灯火のように揺れている。
「へい、らっしゃい。……おう、ケンジじゃねぇか。今日は一段と、魂が抜けたようなツラしてやがんな」
店主の寅吉は、使い込まれた団扇をゆっくりと動かしながら、暖簾をもぐってきた男を迎え入れた。
ケンジ、45歳。都内を中心に展開する大手居酒屋チェーンの店長だ。かつては「自分の店を持ちたい」という純粋な夢を抱き、包丁一本で勝負する料理人を目指していた。だが、40代に入り、現実に追い越された。今の彼の仕事は、料理を作ることではない。売上の数字を追い、シフトの穴埋めに奔走し、本部の顔色を伺いながら、時給数百円の違いで一喜一憂するバイトたちをなだめすかすことだ。
ケンジは重いバッグを足元に置くと、崩れ落ちるようにカウンターに座った。

「……寅さん、ビール。……大ジョッキで、死ぬほど冷えてるやつを」
「あいよ。お前さんのその熱、これで冷やしな」
寅吉が手際よく注いだビールが、ケンジの前に置かれた。彼はそれを、まるで喉の奥の焦燥感を洗い流すかのように一気に煽(あお)った。ジョッキの半分を飲み干し、ようやく一つ、深く重いため息が漏れた。
「……なんだ。今日は本部に絞られたか? それともバイトのバック(無断欠勤)か?」
「……両方ですよ。エリアマネージャーからは『人件費を削れ』と言われ、現場からは『人が足りない』と泣きつかれる。結局、俺が朝から晩までホールとキッチンを往復する羽目になる。……寅さん、俺、何やってるんですかね。客の笑い顔を作る商売のはずなのに、俺自身が一度も笑ってない」
ケンジは、カウンターの隅に置かれた小さな竹笹に目をやった。そこには、誰が書いたのか、古びた短冊がいくつか揺れている。
「……今日、七夕だったんですね。店にも笹は飾りましたよ。でも、短冊に『売上目標達成』なんて書き込んでる自分を見て、ヘドが出そうになりました」
「ハッ、そりゃあ夢がねぇな。だが、今の世の中、星に願って飯が食えるなら苦労はねぇ。お前さんみたいな真面目な奴が、馬鹿正直に現実と殴り合ってるのは、嫌いじゃねぇぜ」
寅吉は、炭火の上に「ねぎま」と「レバー」を並べた。滴る脂が炭を叩き、香ばしい煙がケンジの鼻先を掠(かす)める。

「……寅さん、俺の妻のユミ……覚えてますか? 数年前、一度だけここに連れてきた」
「ああ、あの笑うと目が細くなる、気立ての良さそうなお嬢ちゃんだろ。しっかり捕まえてねぇと逃げられちまうぞ、なんて言ったっけな」
「……その言葉、今になって刺さってますよ」
ケンジは、手元のジョッキをじっと見つめた。
「ユミとは、一応同じ家で暮らしています。でも、生活は完全にすれ違いです。俺が深夜二時に帰宅すると、彼女はもう寝ている。俺が昼前に起きる頃には、彼女はもう仕事に行っている。テーブルの上には、彼女が作った朝食の残りと、一言二言のメモ書きがあるだけ。……俺たち、織姫と彦星よりひどいですよ。同じ屋根の下にいるのに、一ヶ月に一度、まともに顔を合わせて会話する時間すらない」
「……」
「昔は違った。飲食の修行はきつかったけど、夜中に二人で安いワインを開けて、将来の店の話を語り明かしたもんです。ユミは『ケンジの料理が一番好きだから、私は絶対ホールをやるね』って、あんなに楽しそうに笑ってたのに。……今の俺が彼女に届けてるのは、疲れ切った寝顔と、仕事の愚痴を飲み込んだ後の酒臭い息だけです」
寅吉は、無言で焼き鳥を返した。団扇の風に乗って、炭の熱がケンジの頬に伝わる。
「……さっき、帰り道に駅前を通ったら、若いカップルが七夕の飾りを見上げて笑ってました。それを見た瞬間、胸の奥がギュッとしたんです。俺、ユミがどんな表情で毎日を過ごしてるのか、もう思い出せないんですよ」
ケンジの声が、微かに震えていた。
「絆なんて、一度結べば一生安泰だと思ってた。でも、メンテナンスを忘れた機械みたいに、俺たちの関係はボロボロに磨耗して、もうすぐ止まってしまうんじゃないかって……。今日、久しぶりに早く上がれたのに、家に帰るのが怖くてここに来ちまった。ユミの顔を見るのが、怖いんです」
寅吉は、焼き上がった「ねぎま」を、ケンジに渡した。

「いいか、ケンジ。お前さんは店長として、客の満足度だの、サービスの質だのを必死に管理してるはずだ。だが、一番大切な『常連客』……つまりユミさんの心のケアを、全くといいほどサボってやがる」
「……サボってるつもりは……」
「つもりはなくても、結果が全てだ。飲食店も夫婦も同じよ。そこに『温もり』がなくなれば、客は離れる。お前さんの仕事は、客に飯を食わせることじゃねぇ。客を『笑顔で帰す』ことだろ? だったら、お前さんの人生における最大の責任者は、ユミさんを笑顔にすることじゃねぇのか?」
寅吉の濁った声が、ガード下の喧騒を突き抜けて、ケンジの鼓動に直接響いた。
「七夕ってのはな、年に一度しか会えねぇ二人が、その十五分、三十分のために一年間を耐え抜く物語だ。お前さんは毎日家に帰ってるが、心は一度も再会してねぇんじゃねぇのか? 一つの屋根の下にいるからって、甘えてんじゃねぇよ」
ケンジは、ねぎまを手に取った。熱い脂が口の中に広がり、鶏の旨味が疲れた身体に染み渡っていく。噛み締めるたびに、自分が何を切り捨ててきたのか、その「冷たさ」が浮き彫りになっていくようだった。

「……再会……」
「そうだ。今夜は七夕だろ。お前さん、仕事の顔を脱ぎ捨てて、一人の男として、ユミさんに『再会』しに行く度胸はあるかい?」
ケンジのスマートフォンが、テーブルの上で短く震えた。本部からの業務連絡だ。明日の食材原価の見直しについての催促。
ケンジは、その画面をじっと見つめた。いつもなら、すぐに「承知いたしました。」と返信するところだ。だが、今の彼の目には、その文字がひどく空虚に映った。
「寅さん。俺……今、決めました」
ケンジはスマートフォンをバッグの奥深くに押し込むと、最後の一口のビールを飲み干した。
「今から、真っ直ぐ帰ります。ユミが寝ていても、起こしてでも。……いや、起こす勇気はないかもしれないけど、でも、彼女のために今の俺ができることを、探してみます」
「ほう、いい面構えになってきたじゃねぇか」
寅吉がニヤリと笑い、焼き網の端でじっくりと焼いていた「あるもの」を掴んだ。
「だが、手ぶらで帰るのも能がねぇ。……これ、持っていきな」
寅吉が差し出したのは、竹皮で丁寧に包まれた小さな包みだった。中からは、炭火の残り香と、甘辛いタレの香ばしい匂いが微かに漏れている。
「……これ、さっきの余りですか?」
「馬鹿言え。お前さんとユミさんのための、特製だ。冷めても旨ぇように、少しだけ焼き方を変えてある。それと……」
寅吉は、カウンターの隅にある笹から、何も書かれていない真っさらな黄色い短冊を一枚引き抜き、無骨な手でケンジに握らせた。
「今の言葉じゃねぇ、お前さんの『本当の願い』を書いて、そいつと一緒に届けな。言葉ってのはな、喉を通り過ぎると消えちまうが、書いたもんは一生残る。……さぁ、行け。夜が明けちまう前に、織姫に会いに行くんだな」
「……寅さん。ありがとうございます。……お勘定、置いていきます」
ケンジは、千円札と数枚の小銭をカウンターに置くと、竹皮の包みを宝物のように胸に抱え、雨が降り出した夜の街へと駆け出した。
ガード下を抜けると、雨足は少しずつ強まっていた。ビニール傘を叩く雨音と、遠くで鳴り響くパトカーのサイレン。都会の夜は、寂しさと喧騒が入り混じっている。ケンジは、スーツの裾が濡れるのも構わず、自宅のあるアパートへの道を急いだ。
(俺は、何を怖がっていたんだろう……)
走りながら、ケンジは自問自答していた。 ユミの冷めた顔を見るのが怖かった。自分の不甲斐なさを突きつけられるのが怖かった。だから、仕事という鎧を着て、深夜まで外に逃げていた。だが、本当に守るべきものは、店の人件費でも売上目標でもなく、たった一人の女性の笑顔だったはずだ。
アパートの前に着いたとき、三階の角部屋……自分たちの部屋の窓からは、小さな明かりが漏れていた。ユミは、まだ起きているのだろうか。それとも、電気を消し忘れて寝てしまったのだろうか。
ケンジは、震える手で鍵を開け、そっとドアを押し開けた。
「……ただいま」
返事はない。玄関には、ユミの履き慣れたパンプスが揃えて置いてある。 リビングに入ると、ソファの横に置かれた小さな花瓶に、細い竹の枝が一本だけ刺さっているのが見えた。
それは、ユミがどこかで買ってきたのか、あるいは道端で見つけたものなのか。そこには、一枚だけ桃色の短冊が揺れていた。
ケンジは、吸い寄せられるようにその短冊に手を伸ばした。
『また、二人でゆっくりご飯が食べられますように。 ユミ』
その短い、あまりにもささやかな願いを目にした瞬間、ケンジの胸の奥で何かが決壊した。
彼女が欲しかったのは、贅沢なプレゼントでも、豪華なレストランでもなかった。ただ、一日の終わりに、向かい合って温かい飯を食い、今日の出来事を笑い合う。そんな、当たり前の「時間」だったのだ。自分はその当たり前を、仕事という免罪符で、この数年間奪い続けてきた。
ケンジは、ダイニングテーブルの椅子を静かに引き、寅吉から受け取った竹皮の包みを開いた。 そして、バッグからペンを取り出し、握りしめていた黄色の短冊に、震える手で文字を書き込んだ。
「……何、してるの?」
背後から、眠そうな、それでいて少し驚いたような声がした。 振り返ると、ユミが、目をこすりながら立っていた。
「……ユミ。起こしちゃったか」
「ううん。……おかえり、ケンジ。今日は早いんだね」
ユミは、責めるような言葉を一切口にしなかった。ただ、いつものように穏やかに、少しだけ寂しそうな笑顔でそこに立っていた。その笑顔を見るのが、今のケンジには何よりも辛く、そして愛おしかった。
「……ユミ。これ、寅さんのところの焼き鳥。……お腹、空いてないか?」
「寅さんの……? 懐かしいね。……うん、少しだけ食べようかな」
ケンジは、台所から皿と箸を取り出し、焼き鳥を丁寧に並べた。レンジで温め直すと、狭いキッチンに、あのガード下と同じ、懐かしくも温かい匂いが立ち込めた。
深夜二時。二人は、数ヶ月ぶりにダイニングテーブルに座った。
「……おいしい」
ユミが、ねぎまを一口食べて、本当に嬉しそうに目を細めた。

「よかった。寅さんが、ユミのためにって焼いてくれたんだ」
「私のために……? 嬉しいな。……ねぇ、ケンジ。どうしたの? 今日、なんだか雰囲気が違うよ」
ケンジは、箸を置き、ユミの目を真っ直ぐに見つめた。
「ユミ。……ごめん。今まで、ずっと、お前を一人にさせて」
「……ケンジ?」
「俺、店を回すことに必死で、お前と過ごす時間を、お前の願いを、ずっと後回しにしてきた。……さっき、あの短冊を見たんだ。……俺、情けなくて。お前にあんな願い事を書かせるまで、気づけなくて」
ケンジの声は、次第に熱を帯びていった。
「もう一度、やり直させてくれ。店長としての俺じゃなく、お前の夫としての俺に戻る時間を、ちゃんと作るから。……一足飛びには無理かもしれない。でも、来週の休みは、絶対に何があっても休む。二人で、どこか美味しいものを食べに行こう」
ユミは、驚いたように目を見開いた後、ゆっくりと視線を落とした。彼女の目から、一筋の涙が頬を伝い、焼き鳥の皿に落ちた。
「……ずるいよ、ケンジ。そんなこと、急に言うんだもん」
「……ああ、ずるい夫でごめん」
「……でも、嬉しい。……私、ずっと待ってたんだよ。焼き鳥の匂いじゃなくて、ケンジが『帰ってきた』って思える瞬間を」
二人は、冷えたビールで小さく乾杯した。 七夕の夜。外は相変わらずの雨で、空には星一つ見えない。けれど、この狭いアパートの食卓には、何年分もの沈黙を溶かすような、温かな光が灯っていた。
ケンジは、自分が書いた黄色の短冊を、ユミの桃色の短冊の隣に結びつけた。
そこには、ただ一行。 『ユミと一緒に、笑って生きていく。』
翌朝、ケンジはいつもより一時間早く家を出た。 ユミは、玄関まで見送りに来てくれた。
「いってらっしゃい、ケンジ。無理しないでね」
「ああ、いってきます。……夜、できるだけ早く帰るよ」
駅へ向かう道すがら、ケンジは空を見上げた。雨は上がり、雲の切れ間から、夏の強い日差しが差し込み始めていた。
スマートフォンの通知が鳴る。本部からの、昨夜のメールの催促だ。 ケンジは一瞬だけ立ち止まったが、迷うことなく返信を打ち込んだ。
『了解いたしました。……ですが、本日の業務終了後は私用につき、連絡がつきにくくなります。よろしくお願いいたします』
彼は、自分の中に眠っていた「料理人」としての、そして「一人の男」としてのプライドが、少しずつ熱を取り戻していくのを感じていた。
ガード下では、今日も寅吉が炭火を熾しているだろう。 あの無骨な店主が教えてくれたのは、焼き鳥の味だけではない。人生において、何が本当の「最高級品」なのか。それを忘れないための、火の粉のような言葉だった。
ケンジの足取りは、昨日までのそれとは全く違っていた。 都会の喧騒の中に消えていく彼の背中は、もう迷いもなく、確かな未来へと向かって伸びていた。


【おまけ】~本当の『再会』とは~
……まだそこにいたのか。ケンジの背中、最後はシャキッとしてただろ?
「七夕」なんて言うと、一年に一度、星空を見上げてロマンチックな願い事をする日だなんて思われがちだが……あっしに言わせりゃ、そんなのはおまけみたいなもんだ。
本当に大切なのは、星を眺めることじゃねぇ。自分のすぐ隣にいる人間の瞳の中に映る自分を、ちゃんと見つめ直すことなんだよ。
仕事が忙しい、責任がある、時間がない……。 現代(いま)を生きるお前さんたちは、いつの間にか「鎧」を脱ぐのを忘れちまってる。ケンジにとっての居酒屋チェーンの制服も、お前さんたちが毎日着てるスーツや役割も、自分を守るための鎧のはずが、いつの間にか大切な誰かを遠ざける壁になっちまうことがある。
いいか。仕事は、お前さんが倒れても代わりを見つけてくる。だがな、お前さんの隣にいる人間にとって、お前さんの代わりはこの世のどこにもいねぇんだ。
「当たり前の時間を、当たり前に分かち合う」
これが、どんな高級なプレゼントよりも、どんなドラマチックな演出よりも、一番心に効く特効薬なのさ。
もし、お前さんのスマホが仕事の通知で震えっぱなしなら、今夜くらいはそいつをバッグの底に沈めて、真っ直ぐ帰りな。 そして、大切な誰かと、温けぇ飯でも食いながら話してやりな。 「旨いな」とか「今日は疲れたな」とか、そんなありふれた言葉でいい。
心は、一度繋いだら一生解けない魔法じゃねぇ。 毎日、少しずつ手入れをして、結び直していかなきゃいけねぇもんなんだ。
今夜、お前さんの窓から星は見えねぇかもしれない。 だが、温かい食卓があれば、そこには天の川より綺麗な光が灯るはずだぜ。
さぁ、夜風が冷える前に帰りな。 お前さんの明日が、今日よりも少しだけ「優しい」ものになることを祈ってるぜ。
……じゃあな。おやすみよ。
「🏮🏮🏮これを読んで少しでも心が動いたなら、その感想を一言でいい。あんたの言葉を聞かせてくれ。待ってるぜ・・・🍶」

次回【第33話】ナナミ27歳、看護師「燃え尽き症候群で人のために働くことに疲れてしまった」

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おぅ、今夜の話が心に沁みたなら、焼き鳥一本分(190円)ほどお捻りを置いていってくれねえか。あんたのその心意気が、次の旨い話を焼き上げるための『炭代』にさせてもらうぜ。よろしくな!