【第37話】タツオ70歳、無職「ロマンス詐欺、退職金すべてを失った男」
8月の終わり、まとわりつくような生温い夜風が路地裏を抜ける夜。都会の片隅にぽつんと灯る赤提灯の暖簾をくぐり、一人の老人がよろめくように入ってきた。
年は七十。きちんとした身なりをしているが、その肩は見るからに落ち込み、まるで全身の骨組みが抜けてしまったかのように頼りない。
「いらっしゃい……って、おや、タツオさんじゃねぇか」
店主の寅吉は、炭火の上の焼き鳥を団扇であおる手を止め、じっと男の顔を見据えた。町内の工場で定年まで真面目に勤め上げ、つい半年ほど前に、長年連れ添った妻を病気で見送ったばかりの男だ。

普段のタツオは、どんなに寂しくとも背筋を伸ばし、静かに日本酒を傾ける頑固だが誇り高い男だった。だが、今日の様子は尋常ではない。顔面は土気色で、目は焦点が合っていなかった。
「……大将、酒をくれ。なんでもいい、一番強ぇやつを頼む」
ガラガラと掠れた声でそう言うと、タツオはカウンターの椅子に崩れ落ちるように座った。 寅吉は無言でうなずくと、グラスになみなみと焼酎を注ぎ、彼の前にそっと置いた。
「どうしたんだ、そんな青い顔して。何かあったのか」
「……終わったよ。俺の人生、なにもかも、全部な」
タツオは震える手でグラスをつかみ、一気に喉へと流し込んだ。そして、カーッと熱くなった胸を押さえながら、乾いた笑いを漏らした。 その目にはまだ涙を流すほどの力もなく、ただ虚ろな光を浮かべたまま、真っ直ぐにカウンターの木目を見つめて肩を落とした。

「なぁ、大将……人間ってのはな、こんなにも簡単に、一瞬ですべてを失っちまうもんなのかな。築き上げてきた四十年の真面目な人生が、まるでお湯に溶けた砂糖みたいに、跡形もなく消ちまったんだ……」
乾いたその声には、怒りすら通り越した深い絶望と、あまりの自責の念に押し潰されそうな気配が漂っていた。寅吉はすぐには言葉を返さず、目の前で静かに燃える炭火の位置を火箸でそっと直した。
タツオが語り始めたのは、定年退職後の孤独と、魔が差した……いや、あまりにも巧妙に仕組まれた「罠」の出来事だった。
妻を亡くし、子供たちはそれぞれの家庭を持って遠方に暮らしている。家には自分一人。話し相手もいなければ、朝起きてから夜寝るまで、テレビの音だけが響く日々。そんな底知れぬ孤独の中で、タツオはスマートフォンの画面を触るようになった。
ある日、SNSで見知らぬ女性からメッセージが届いた。 名前は「リサ」。プロフィール写真には、上品で優しげな、五十台半ばの美しい日本人女性が写っていた。海外でインテリアデザイナーをしているという。
『はじめまして。リサと申します。今海外で生活しているのですが、最近日本が恋しくて少し寂しくなってしまい……、お友達になってくれる人を探しています。もしよければ話し相手になっていただけないですか?』
最初は、詐欺だのなんだのと疑う警戒心もあった。だが、日々の他愛のないやり取りは、孤独なタツオの乾ききった心に染み入るように優しかった。毎朝『おはよう、今日も体に気をつけてね』とメッセージが届き、夜遅くまで仕事の愚痴や人生観を語り合った。
リサは、タツオのこれまでの人生の苦労を『すごいですね』『尊敬します』と、誰よりも認めて褒めてくれた。妻が亡くなって以来、誰からも必要とされていないと感じていたタツオにとって、その画面の向こうの温もりは、暗闇に差し込む一筋の光のようだった。
「朝起きてスマホを確認するのが、毎日の生きがいだったんだよ。誰もいない静まり返った家の中で、画面の向こうから『お疲れ様、タツオさん』って言ってくれる文字を見るだけで、生きている実感が湧いた。定年してからずっと感じていた、あの冷たい孤独感がスッと消えていくようだった……」
タツオは両手で顔を覆い、掠れた声でぽつりぽつりと当時の記憶を紡ぎ出していく。その声音には、騙されたことへの悔しさだけでなく、偽りだったと分かってなお、当時の温もりを求めてしまう老人の哀しみが痛いほどに滲んでいた。
「俺は……本気で信じてたんだよ。この歳になって、まさかこんな運命の出会いがあるなんて思っちまった。俺のことをこんなにも理解してくれる人間が、この世にいるんだって……嬉しかったんだよ」
タツオはグラスを強く握りしめ、自分のこめかみを拳で叩いた。
「バカだろ、俺は。本当に、救いようのないドジで間抜けな老いぼれだ……」
偽りの恋人となって数ヶ月が過ぎた頃、話は少しずつお金のことに移っていった。
『将来、日本で一緒に暮らすための資金を作りたい』
『確実にもうかる暗号資産の投資があるの。私を信じて、一緒に未来を作りましょう』
リサはそう言って、専用の投資アプリのリンクを送ってきた。最初は少額だった。数万円を入れると、画面上ではみるみるうちに利益が増え、実際に手元に出金することもできた。疑いは完全に確信に変わり、『この人のために、自分の残りの人生を捧げよう』とタツオは本気で思い込んだ。
魔が差したのではない。心が弱っているところに、優しさと希望という名の麻薬を流し込まれたのだ。
タツオは、長年勤め上げた会社から支給された退職金を、そのアプリにつぎ込んだ。数百万円という大金が、ボタン一つで画面の数字に変わっていく。リサは『愛してるわ、タツオさん。もうすぐ日本に帰る準備をするね』と甘い言葉を囁き続けた。
「欲をかいたわけじゃねぇんだ……ただ、リサとふたりで、穏やかな老後を過ごしたかっただけなんだよ。退職金があれば、旅行にも行けるし、妻の仏壇にももっと良いお供えができるって、心のどこかで焦っていたのかもしれねぇ。俺の馬鹿な寂しさが、あいつに付け入る隙を与えちまったんだ」
タツオの肩が大きく震え、グラスの底に残っていた氷がカランと音を立てて傾いだ。
そして、ある日。 突然、その投資アプリが開かなくなった。リサの連絡先にも繋がらなくなり、SNSのアカウントもきれいさっぱり消え去っていた。
「気がついたときには、アプリの残高はゼロの数字が刻まれていた。退職金も、老後の蓄えも、消えていた……。警察に行ったって、『取り戻すのは難しいですね』って言われるだけだ。俺は……これからどうやって生きていけばいいんだ?何より、妻との思い出が詰まったこの家を手放さなきゃならないかもしれないんだ……」
タツオは頭を抱え、カウンターに突っ伏した。赤提灯の狭い店内に、老人の絞り出すような、絶望に満ちた嗚咽だけが響き渡っていた。
赤提灯の暖簾を揺らす8月の終わりの夜風は、どこか湿っていて、タツオの冷えきった心には何の救いにもならなかった。カウンターに突っ伏したまま動かないタツオの背中を、寅吉は黙って見つめていた。
「……タツオさん」
低く、けれど芯のある寅吉の声が店内に響く。
「金が消えたか。退職金が、老後の蓄えが、吹き飛んだか」
「……あぁ」
タツオは顔を上げず、掠れた声でうめいた。
「もうおしまいだ。俺は人生の負け犬だ。妻に顔向けもできねぇし、この歳で路頭に迷うなんてな……死んで詫びたいくらいだ、大将」
「死ぬ?」
その瞬間、寅吉の声音が変わった。ふざけた様子は一切なく、職人が包丁を研ぐときのような、鋭い緊張感が店内に走った。
「ふざけちゃいけねぇよ、タツオさん。あんた、今自分の口で何て言った。『妻との思い出が詰まったこの家を手放さなきゃならない』って言ったよな、……それがどうしたってんだ。金がなけりゃ、家だって維持できねぇんだよ!家を手放すのがそんなに辛いのか。財産を失ったことが、そんなに痛いのか」
寅吉は手元の焼き鳥の串をトンとまな板に置き、タツオの目をじっと見据えると、腕組みをしてカウンターに体重を預けた。
「よく聞きな、タツオさん。あんたが失ったのは、数字の並んだ預金残高だ。たしかにそれはデカい、人生の基盤だったかもしれねぇ。だけどな、本当に一番大事なものを、あんたはまだ見失っちゃいねぇはずだ」
「……一番大事なもの?」
タツオはゆっくりと顔を上げ、赤提灯の光に照らされた寅吉の頑固な顔を見つめた。
「そうだ。あんたが真面目に働き、汗水垂らして家族を支え、あの家で奥さんと一緒に笑って過ごした四十年の記憶と歴史だ。通帳の数字がゼロになろうが、スマホの画面から詐欺師が消え失せようが、あんたが積み上げてきたその足跡まで消えるわけじゃねぇんだよ」
寅吉のその言葉は、タツオの胸の奥底に突き刺さった。詐欺に遭った悔しさ、自分を責める惨めさ、そして妻を失った孤独。そのすべてを一人で抱え込んでパンクしていたタツオの心に、寅吉の真っ直ぐな言葉が染み込んでいく。
「……俺は、バカだった。本当に、救いようのない」
タツオの喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。先ほどまでは涙すら出なかったその目に、熱いものがこみ上げてくる。シワの刻まれた頬を伝い、大粒の涙がポロリとカウンターの木目に落ちた。それは後悔の涙であり、同時に、張り詰めていた糸がプツリと切れた安堵の涙でもあった。
「泣きてぇときは、思いっきり泣けばいいさ」
寅吉は優しくそう言うと、冷蔵庫から取り出したご飯を温めて塩をまぶし、手際よく大きなおむすびを握り始めた。そして、タツオにそっと渡した。

「うちは焼き鳥屋だがね、今日は特別だ。食えよ、タツオさん」
「……ありがとう、喉を通るかわらねぇが……」
「いいから食え……。人間、どんなに絶望していようと、温かい米を胃に入れれば、少しだけ生きる力が湧いてくるもんだ。飯を食うってのはな、明日を生きるための最初の第一歩なんだからよ……」
タツオは震える手でその塩むすびを受け取った。湯気の立つそれを一口かじると、絶妙な塩気と米の甘みが、乾ききった体にじわっと広がっていく。涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、タツオは夢中でそれを頬張った。美味い。涙と一緒に食べたその塩むすびは、これまでの人生で一番、温かくて味がした。

塩むすびを平らげ、胃の腑を落ち着かせたタツオは、両手で湯飲みを包み込みながら、ぽつりと言葉を零した。
「……なぁ、大将。不思議だな。数分前まで、もうこの世から消えてしまいたいって、本気でそう思ってたんだ。なにもかも失って、独りぼっちで、明日を迎えるのが怖くてさ……」
寅吉はカウンターの向こうで濡れ布巾を絞りながら、静かに相槌を打った。
「人間、腹が減って心細いときはな、世界中の闇が全部自分に覆いかぶさってきたような気になるもんだ……。だがね、底まで落ちたら、あとは這い上がるしかねぇんだよ」
「這い上がる、か……」
タツオはふっと苦笑いを浮かべ、自分の手のひらをじっと見つめた。
「定年してから、ずっと『これからの余生をどうやって静かに暮らそうか』って、そんなことばかり考えていた。守るものばかり気にして、新しい一歩を踏み出すのが怖かったんだ。……だから、甘い言葉に乗せられて、相手に足元をすくわれたんだろうな……」
「過去を取り戻すことはできねぇがな、明日からの時間をどう使うかは、いつだって自分次第だ。タツオさん、あんたにはまだ、長年真面目に働き通した誇りと、奥さんと一緒に歩んできた四十年の思い出がある。それはな、どんな詐欺師も、一円たりとも奪い取ることはできねぇ宝物だぜ……」
タツオの胸の奥で、カチリと何かがしっかりと噛み合った。妻が生前、よく淹れてくれたお茶の香りが、ふと蘇るような気がした。妻ならきっと、『あなた、何をメソメソしてるの。しっかりしなさいよ』と、いつもの強い笑みで背中を叩いてくれたに違いない。
「……そうだな。俺はまだ、生きている。ここで腐っちまったら、あの世で女房に顔向けできねぇよ」
タツオは顔を上げ、カウンターの向こうの寅吉に向かって、心からの笑みを向けた。
「大将、ごちそうさま。なんだか、憑き物が落ちたみたいだ。明日から、またハローワークに通って、できることから始めてみるよ」
「おう、それでいい。仕事が決まったら、また報告に来い。今度は自慢の焼き鳥をご馳走してやるよ……」
8月の終わりの夜風は相変わらず生温かったが、赤提灯の灯りの下から歩き出すタツオの背中は、店に入ってきたときのような頼りなさは消え、確かな重みと誇りを取り戻していた。
遠くで聞こえる夜の静けさを感じながら、寅吉は静かに暖簾を整え、店じまいの準備へと戻るのだった。


【おまけ】寅吉のひとり言 〜数字じゃ買えねぇ宝物〜
世間じゃよく「備えあれば憂|《うれ》いなし」なんて言うがね、人生ってのは、いくらきっちり生きてきた人間であっても、ふとした拍子に足元をすくわれることがある。
定年を迎えて、長年連れ添った伴侶を失って、ぽっかりと空いた心の隙間。そこに「優しさ」や「未来」なんて綺麗な言葉の皮を被せた罠が忍び込んでくるんだから、世知辛い世の中ったらないよな。
すべてを失ったって絶望して、自分の積み上げてきた人生まで否定したくなる夜もあるだろうよ。だけどな、通帳の数字がゼロになろうが、画面の向こうの嘘っぱちが消え失せようが、あんたが汗水垂らして働き、大切な人と笑い合って生きてきた「四十年の歴史」まで消えるわけじゃねぇんだ。
失ったものばかり数えて下を向く必要なんて微塵もねぇ。 人間、腹の底から温かいもんを食って、もう一度明日へ向かって踏み出す気になりゃあ、人生の幕はそこからいくらでも新しく描き直せる。
なぁ、そうだろ? どんなに世間が冷たくたって、あんたの歩いてきた足跡は、誰にも奪えねぇ世界で一番確かな宝物なんだからよ。
「🏮🏮🏮これを読んで少しでも心が動いたなら、その感想を一言でいい。あんたの言葉を聞かせてくれ。待ってるぜ・・・🍶」

次回【第38話】ショウイチ37歳、バス運転手「老後2,000万円問題。死ぬまで働けってことかよ……」

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おぅ、今夜の話が心に沁みたなら、焼き鳥一本分(190円)ほどお捻りを置いていってくれねえか。あんたのその心意気が、次の旨い話を焼き上げるための『炭代』にさせてもらうぜ。よろしくな!