企業の持つ原罪性について
キリスト教に「原罪」という言葉があることはご存知ですね。
人間は、生まれながらに罪を背負っている、というのがこの「原罪」の意味ですが、もともとは旧約聖書の創世記において、アダムとエバが「善悪の知識の木の実」を食べてしまった、という物語に由来しています。
この物語はしばしば、「神の命令に背いたから罰せられた」という道徳的な教訓として理解されがちですが、ことはそれほど単純ではありません。
重要なのは、人間が「善と悪の区別を知らなかったわけではない」という点です。むしろ、人間は「それがしてはならないことだ」と分かっていながら、なお手を伸ばしてしまった。その結果として世界に入り込んだのが、悪意というよりも、善を知りながら善を行えないという、人間存在の根源的な弱さでした。
原罪とは、人間が本質的に邪悪であるという宣告ではなく、善を志向しながら、必ずそこから逸れてしまうという、この避けがたいねじれの状態を指している、と理解することができます。
一方で、この「原罪」と混同されがちな言葉に「性悪説」というものがあります。「性悪説」と「性善説」の二項対立は、古代中国における二人の思想家、すなわち
孟子の性善説
荀子の性悪説
による「人間の本性は善か、悪か」という論争によって、思想史の表舞台に引きずり出しました。ちなみに、孟子と荀子の議論において重要なのは、ここで問われている「本性」が、
神との関係
存在論的堕落
救済の可能性
などではなく、
教育・制度・政治はいかにあるべきか
という、きわめて実践的・社会設計的な問いと直結している点です。
なぜ、西洋において、このような二分法がないのかというと、理由は単純で、人間はそもそも神によって「善なるもの」として生み出された、と考えるからです。したがって、そもそも「人間の性質とはどのようなものか」という問い自体にすでに決着がついているのです。
原罪とは「弱さ」
西欧においては、関心は異なる方向へと向かいます。それはつまり、
なぜ人は善を知っていながら、善を行えないのか
なぜ正しいと分かっているのに、別の行動を選んでしまうのか
この問いに対する答えが「原罪」です。
ここでは、
善/悪の属性よりも
自由・意志・関係性の歪み
が中心テーマになります。
神学的に言えば:アウグスティヌスの立場
この問題を決定的に整理したのがアウグスティヌスでした。
彼は人間をこう捉えました。
人間は善として創造された(=性悪ではない)
しかし堕罪以後、
善を「知る」ことはできる
しかし善を「行い続ける力」は損なわれている
これを彼は「意志の病(voluntas infirmata)」と表現しました。
つまり原罪とは、
道徳的な悪意ではなく、
自己中心へと傾いてしまう“意志の歪み”
なのです。
つまり、人間には
善を志向する力はある
しかし同時に、
善を裏切ってしまう傾向(自己中心性・傲慢・無関心)を免れない
という、一種の「ねじれ」を「原罪」という言葉で表しているのです。言葉を変えれば、
罪は「邪悪さ」というより、「弱さ」によって生まれる
という言い方の方が自然かも知れません。
シモーヌ・ヴェイユの「重力」とは何か
この「善を目指しているのに、そこから逸れていってしまう弱さ」のことを、思想家のシモーヌ・ヴェイユは「重力」と表現しました。
シモーヌ・ヴェイユにとって「重力」とは「虚栄」「利己」「欺瞞」「怠惰」といったものを一つひとつ列挙した概念ではありません。それらをすべて貫く、
人間を下へ下へと落下させるように働く不可抗力の力
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