なんでもない日記:夕暮れのベンチとのどのひりつき
旅行に行くと、だいたいそれが終わった後に私は体調を崩す。
今回、久しぶりにディズニーランドへ行ったのだけれども、ご多分に模れず、帰ってきた翌日からしっかりと体調を崩した。
お酒を浴びるほど飲んだわけでも、夜通し遊びまくったわけでもない。
アトラクションの列に並び、パレードを眺め、モバイルオーダーでポテトと飲み物を買った。いたって普通の、よくある楽しい休日を過ごしただけのはずだった。
それなのに、なぜ私の体はこうも分かりやすく悲鳴を上げてしまうのだろうか。
30分の空白と、流し込んだペットボトルの水
楽しさのピークが少しずつ落ち着き、園内に夕暮れの色が広がり始めたころ、エントランスの近くにあるベンチに腰を下ろし、ぼんやりと座っていた。
時間にして、およそ30分。
あのときは、ただ「少し休憩しよう」くらいにしか思っていなかった。しかし、思い返してみれば、あのときすでに私の体は静かにシャットダウンの準備を始めていたのだ。
異変がはっきりとした形になって現れたのは、帰りの電車の中だった。
電車の座席に揺られていると、のどの奥に明らかな違和感を覚えた。ひりひりとした不快な感覚。
持っていたペットボトルの水を何度も口に含み、のどを潤してみたけれど、その乾きのような痛みは一向に消えてくれなかった。
楽しさのオブラートに包まれた無数の判断
なぜ、派手な不摂生もしていないのに、疲労が溜まってしまうのか。
当日の動きを細かく分解してみて、ハッとした。そこには、楽しさというオブラートに包まれた、無数の「小さな緊張」があったのだ。
アプリの画面を何度も確認し、待ち時間を見極め、次の行動を頭の中で組み立てる。
混雑する人混みをすり抜けながら、同行者の様子を気にかけ、自分自身のテンションも引き上げていく。
これらはすべて前向きな行動だが、脳と体にとっては確実に負荷だった。
心が躍っているときは、アドレナリンのせいで疲れを全く感じない。
足の痛みも、のどの違和感も、すべて楽しさの霧の向こう側に隠れてしまう。
安全圏の玄関を開けて、張り詰めた糸が緩む
体調を崩すタイミングは、いつも決まって「完全に安心したとき」だ。
自宅の玄関を開け、荷物を床に下ろし、慣れ親しんだ自分の部屋の匂いを嗅いだ瞬間。そこで、一日中ピンと張り詰めていた糸が、ぷつんと音を立てて緩む。
防衛モードに入っていた免疫システムが、急に休息モードに切り替わるような感覚。
そう考えると、この旅のあとの体調不良は、私の心と体が「ここはもう100%安全な場所だ」と認識した証拠なのだろう。
今回は、過去の苦い経験から、あらかじめ旅行の直後に空白の時間を確保していた。
もし、翌朝から予定が詰まっていたら、ボロボロの体を引きずって動かなければならず、楽しかった思い出さえも辛い記憶に上書きされていたかもしれない。
世の中には、旅行の翌日から笑顔で出かけていくタフな人もいる。けれど、私の器は私のサイズにしかならない。
人混みの中で受け取る情報量や、きらびやかな世界から受ける刺激に対する感度が、私は少し過敏なのだと思う。
その感受性の対価として、この体調不良を受け入れ、それを見越した休みを用意する。
あなたは楽しい時間のあと、自分の体にどんな風に「安心」を許していますか。
