未処理在庫にも明日はある
幸福は、入口で色分けされていた。
金色の人はエスカレーターで上へ行く。
灰色の私たちは、地下搬入口から台車を押した。
東京湾に近い展示ホールは、朝から薄い鉄の匂いがした。
「ライフデザインEXPO 2030」と大きく書かれたゲートの下で、私は来場者の手首にリストバンドを巻いていた。金色はプレミアム、銀色は一般、青は学生。私たちスタッフは灰色で、目立たないようによく考えられた色だった。
私の胸には、プラスチックの名札が揺れていた。
H-037。
派遣会社から渡されたとき、番号がホテルの部屋みたいだと思った。けれど、ホテルなんてここ数年泊まっていない。遠くへ行くときは夜行バスだし、泊まるなら友人宅の床かカプセルホテルの上段だ。
「三階の幸福資産セミナー、満席でーす」
インカムから誰かの声が割れて聞こえた。
幸福資産。
声に出すと、よく冷えたゼリーみたいな言葉だった。すべる。つかめない。けれど、売れる。
会場には、結婚相談、投資、移住、睡眠改善、卵子凍結、AIキャリア診断、孤独保険まで並んでいた。どのブースにも、同じ種類の笑顔が貼られている。白い歯。整った家族。窓の大きい部屋。犬まで光っている。
昼前、私は休憩用のパーテーションの裏で、コンビニのおにぎりを食べた。海苔がしけっていて、手についた米粒を親指で取った。
スマホは画面の右上に赤い数字を出していた。
残り十三パーセント。
ひびの入った画面で、昨夜途中まで見た映画の続きを開く。月額千円ちょっとで、知らない国の知らない夫婦が二時間かけて別れていく。私の食費より安く、他人の人生がいくらでも流れてくる。
隣で警備の村上さんが、紙コップのコーヒーをすすっていた。六十を過ぎているはずなのに、背筋だけは若い。
「吉野さん、それ映画?」
「はい。離婚する話です」
「金払ってまで?」
「見放題なので、離婚もお得です」
村上さんは吹き出しそうになって、コーヒーをこぼした。
「最近の人はすごいね。俺なんか、孫に送る文章をAIに直してもらうだけで、魔法だと思ってる」
「無料の魔法ですから」
「無料の魔法で、俺の孫は昨日、宿題を終わらせた。俺は三十年、漢字で苦労したのに」
村上さんはスマホを出して、孫から届いたという動画を見せてくれた。小学生の女の子が、画面に向かって英語で自己紹介している。後ろで洗濯物が揺れていた。
「金持ちじゃなくても、先生がポケットにいる時代だな」
村上さんはそう言って、少しだけ誇らしそうに笑った。
私は米粒のついた指を見た。
ポケットに先生がいても、家賃は払ってくれない。結婚相談所の入会金も、親の入院費も、欠けた奥歯の治療代も。魔法はたしかにある。けれど魔法は、銀行の残高欄だけは空欄にしたがる。
それでも私は、映画の再生ボタンを押した。
画面の中で、別れ話を終えた女が窓を開ける。風の音が、展示ホールの空調と重なった。
※
午後二時、メインステージの誘導係に回された。
「未婚時代をどう生きるか」というパネルが始まる。タイトルはやわらかいが、登壇者のひとりはさっき控室でこう言っていた。
「未婚は市場の未処理在庫ですからね。言い方は調整しますけど」
その言い方を調整するために、広告代理店は高い金を取るのだろう。
客席はほぼ満席だった。前方の金色の手首が、照明を受けてちらちら光る。後方には銀色と青色が固まっていて、立ち見の人たちが首を伸ばしていた。私は通路の端に立ち、非常口の位置を確認するふりをした。
二人目の登壇者が出てきたとき、私は一歩だけ後ろに下がった。
狭山遼。
大学の同級生で、二十七歳のときに一度だけ、結婚の話をした相手だった。正確に言えば、彼が「一緒になった方が合理的だ」と言い、私が笑ってごまかした。合理的なプロポーズは、雨の日のビニール傘みたいだった。便利で、でも、持って帰りたくならなかった。
遼は今、マッチングアプリの役員になっていた。紺のスーツがよく似合っている。昔は古着のシャツにカレーの染みをつけて講義に来ていたのに、今日の彼は、染みという概念を会社ごと買収したような顔をしていた。
司会が明るい声を出した。
「狭山さん、現代の結婚格差について、率直にどう見ていますか」
遼は水をひと口飲んだ。
「残酷ですが、選ばれる人と選ばれない人の差は広がっています。年収、居住地、見た目、会話能力。恋愛は自由になったぶん、弱者に厳しくなりました」
客席が小さくざわつく。
「ただ、データは救いにもなります。自分の市場価値を知れば、戦い方を変えられる」
市場価値。
私は名札の角を親指でなぞった。H-037の黒い印字が、こすれて少し薄くなっている。
講演後、控室へ水を運ぶと、遼が私に気づいた。
「吉野?」
声が昔のままだったので、私は少し困惑した。
「お久しぶりです。市場の未処理在庫です」
遼は一瞬だけ顔をこわばらせ、それから苦笑した。
「聞こえてたか」
「調整前のほうが正直でいいと思います」
控室には、切ったフルーツと小さなサンドイッチが並んでいた。私は水のペットボトルをテーブルに置いた。遼の左手には指輪があった。細く、静かに高そうだった。
「今、何してるの」
「見ての通りです」
「いや、普段」
「いろいろです。イベント、入力、短期の事務。便利な言葉で言うと、柔軟な働き方」
遼は笑わなかった。
「結婚は?」
「ステージで聞く?」
「悪い」
「してない。しなかった。できなかった。どれでも記事になるなら使って」
遼は口を閉じた。昔、彼は沈黙が苦手だった。沈黙が来ると、いつも数字を出した。映画の興行収入、家賃の相場、貯金の目標額。今日もそうするのかと思ったら、彼は私の名札を見た。
「H-037か」
「スタッフ番号まで覚えるの?」
「いや」
そこで、ステージ側から大きな音がした。マイクが落ちた音だった。
スタッフが走る。インカムが一斉に鳴った。
「次の基調講演、投影データが違う。誰か止めて」
私は控室を出た。
※
メインスクリーンには、巨大なグラフが映っていた。
「幸福予測モデル 実証サンプル」
本来は、企業向けの非公開セッションで使う資料だったらしい。年収帯、婚姻状況、居住形態、健康診断、趣味、睡眠、孤独感。色のついた棒が、ていねいに人間を削っていく。
司会者が笑顔を貼りつけたまま固まっている。
次のスライドに切り替わった。
H-037
年収 216万円
未婚
賃貸単身
親族介護歴あり
婚姻予測 12%
幸福予測 37/100
客席から、低い声が漏れた。
「あれ、実在データ?」
「匿名ならいいんじゃない」
「三十七点って、きつ」
私は胸の名札を見た。
H-037。
末尾の三十七は、幸福予測の点数と同じだった。番号をふった人も、点数をつけた人も、たぶんそこは見ていない。人を測る仕組みは、自分の偶然にはいつも無頓着だ。
ホテルの部屋ではなかった。採点済みの私だった。
派遣登録のときに答えたアンケートを思い出した。睡眠時間は。将来に希望は。結婚願望は。自由記述欄に、私はたしか「映画館に行きたい」と書いた。大きなスクリーンで映画を見ることを、どうしてか贅沢な夢の欄に入れてしまった。
司会者が袖を見る。社員が走り回る。誰かが「画面落として」と叫ぶ。けれど巨大な三十七点は、しぶとく光っていた。
遼がステージ脇に立っていた。こちらを見ている。顔色が悪い。
私は、非常口の前から動いた。
階段を三段上がる。司会者の横を通る。足が震えていたので、演台に手を置いた。マイクはまだ生きている。
「H-037です」
客席が、急に静かになった。
自分の声が天井に当たり、少し遅れて返ってくる。
「三十七点の者です。本日は、幸福の実例として勝手に展示されています」
前方の金色の手首が、いくつか口元に上がった。笑いを隠すしぐさは、笑うよりずっとよく見える。
「安心してください。感染しません」
少しだけ笑いが起きた。司会者が私の肘をつかもうとしたが、私は半歩ずれた。
「年収は本当です。未婚も本当です。親の介護で仕事を減らしたのも本当。奥歯が欠けたままなのは、たぶん入力し忘れました」
今度は笑いが止まった。
「でも、このモデルは昨日の夜を知らない。私は昨日、千円ちょっとの配信で映画を一本見ました。無料のAIに、区役所へ出す書類の書き方を聞きました。YouTubeで肩こりのストレッチを覚えて、三分だけ効きました。三分でも効いたんです」
私は客席の後ろを見た。青い学生バンドの子が、スマホをこちらに向けている。
「それで幸福です、と言いたいわけじゃありません。貧乏は痛いです。選べない日は、本当にある。家賃の引き落とし日は、どんな思想よりも強い」
遼が目を伏せた。
「でも、私を三十七点にした人に、ひとつだけ聞きたい」
画面の白い光が、客席の顔を平らに照らしていた。
「私は何点になったら、映画の途中で笑っていいんですか」
誰も答えなかった。
沈黙は、数字より正直だった。
私はマイクを台に置いた。拍手は起きなかった。拍手がほしくて上がったわけではなかったから、それでよかった。通路へ戻ると、村上さんが非常口のドアを開けてくれた。
「吉野さん」
「クビですかね」
「たぶん」
「ですよね」
村上さんはポケットから、使いかけのモバイルバッテリーを出した。
「十三パーセントじゃ、帰りに切れるだろ」
私はそれを受け取った。重かった。人から渡される電気にも、温度があるのだと思った。
※
夜、派遣会社から電話が来た。
出る前から内容はわかっていた。私は駅前の歩道橋の上で、しばらくスマホを鳴らしっぱなしにした。下を流れる車のライトが、黒い川みたいに曲がっていく。
電話を切ると、仕事は予定通り消えていた。
SNSでは、私の動画が少しだけ回っていた。コメント欄には、応援と嘲笑と説教が、同じ皿に盛られていた。
「努力不足」
「わかる」
「結婚したらいいのに」
「声がいい」
「三十七点女、強い」
「こういう人ほど税金に頼る」
私は笑った。笑うと、欠けた奥歯に夜の空気が触れた。
遼からメッセージが来た。
〈本当にすまなかった。会社として対応する。君に仕事を紹介できるかもしれない〉
私は返事を書きかけて、消した。
別に彼を憎んでいるわけではない。あのステージも、彼一人が作ったものではない。数字が好きな人たちが、数字を欲しがる人たちのために、数字で人を包んだだけだ。包まれた側は、ときどき窒息する。
スマホの充電は四十一パーセントまで戻っていた。
私はAIの画面を開いた。無料版だからなのか、時間帯によっては少し待たされる。入力欄に指を置き、考える。
退職届の文面ではない。
謝罪文でもない。
反論でもない。
〈来月から、どうありたいかを一緒に考えて〉
送信すると、すぐに返事が出た。まず生活費を整理しましょう、とまじめな文章が並ぶ。笑えるほど普通だった。普通で、助かった。
私はメモアプリを開き、三つだけ書いた。
歯医者の予約。
図書館の映像編集講座。
土曜日、映画館。
映画館、のところで指が止まる。
誰と行くかは空欄にした。ひとりでもいいし、誰かを誘ってもいい。結婚の欄みたいに、空いていること自体を欠陥にしなくてもいい。
歩道橋の端で、さっき外した灰色の名札を見た。H-037の文字は、夜でも読めた。
私はそれを捨てなかった。
財布の中に入れる。映画の半券が増えたら、その隣に置いてやろうと思った。三十七点の証拠品ではなく、採点された場所から歩いて出た日の切符として。
下り階段の先に、駅の明かりがあった。
私はスマホで土曜の上映時間を調べた。キャンペーンでいちばん安くなっている朝の回は、まだ空席が多い。
座席表の真ん中より少し後ろを選ぶ。
その席だけが、誰の点数にも塗られていなかった。
