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善の対義語は悪ではないーーアングリマーラ経を読む

1|追いつけない

その男は、恐れられていた。

『中部経典』86「アングリマーラ経」に登場するアングリマーラは、旅人を襲っては殺し、その指を切り取って首飾りにしていたという。人々は道を避け、国王さえも彼を討伐しようとしていた。誰の目にも、疑いようのない「悪人」だった。

ある日、仏陀はその森へ、一人で歩いて入っていく。

彼を見つけたアングリマーラは、剣を手に追いかける。ところが、どれだけ走っても、ただ歩いているだけの仏陀に追いつくことができない。経典はこれを、仏陀の神通力によるものだと記している。これまで誰からも逃げられたことのなかった男が、追いつけない。

やがて彼は立ち止まり、叫ぶ。

「止まれ、沙門」

仏陀は、こう答える。

「私は止まっている。アングリマーラよ、お前こそ止まれ」

歩いているのは仏陀の方だ。止まっているのはアングリマーラの方だ。その言葉は、彼の目に映る現実と真正面から食い違う。彼は戸惑い、その意味を問う。仏陀は答える。すべての生き物への暴力を捨てたことこそが「止まる」ことなのだ、と。

アングリマーラはその場で剣を投げ捨て、出家を願い出る。

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なぜ、その一言はそこまでの力を持ったのでしょうか。
経典自身は、その内側の機微までは語っていません。ただ、追いつけないという経験そのものが、彼のこれまでの前提——力の強い者が、望むものを手にする——をすでに崩していたのだろうとは思います。その上で、目の前にいる者の揺るぎない静けさが、彼自身の中の荒れた心とあまりにも対照的でした。その対比の中で、彼は自分がずっと何かを追いかけ続け、一度も追いついたことがなかったのだと、初めて見えたのかもしれません。

もっとも、これは一つの想像にすぎません。経典はそこから先を語ってはいないのです。


2|「悪人」という言葉のほうを、疑ってみる

ここで、一つ確認しておきたいことがあります。仏陀は、アングリマーラに向かって「お前は悪人だ」とは、一度も言っていません。彼が口にしたのは、「私は止まっている、お前こそ止まれ」という、その瞬間の行為と方向についての言葉だけでした。人格を裁く言葉ではなく、今どちらを向いているか、を問う言葉なのです。

この話を初めて聞いたとき、多くの人はこう思うのではないでしょうか。悪人が、一瞬にして善人になった、と。

けれど、この言い方には、すでに一つの前提が忍び込んでいます。「悪人」と「善人」という、二つの固定した容れ物がまずあって、アングリマーラはその一方から他方へ移動した——という前提です。

原始仏教は、この前提そのものを共有していません。そこで使われているのは、まったく違う手触りを持つ一組の言葉——kusala(善巧)と akusala(不善巧)です。


3|kusalaとakusala——道徳ではなく技術のことば

kusala(善巧)は、もともと「熟練した」「巧みな」という意味を持つ語です。腕のいい職人、正確な射手、手際のよい医者——そうした人の行為を形容することばが、そのまま心の在り方を語る語彙として転用されています。akusala(不善巧)はその否定形で、「未熟な」「拙い」という意味を核に持ちます。

ただし、これは単に「技術的にうまいかどうか」という話ではありません。仏教の文脈で kusala は、kusala dhamma(善なる法)、kusala kamma(善なる行為)というように用いられ、苦を減らし、解脱へと向かう心や行為を指す、倫理的にも重みを持つ概念として機能しています。それでも「善悪」という対とは、やはり手触りが違います。「善悪」は、行為の外側に立つ審判者——神であれ、社会であれ、良心という名の内なる法廷であれ——が下す判定を前提にしやすいものです。行為がある規則に従っているか、違反しているか、という問いです。一方 kusala/akusala が問うているのは、その行為・その心が、苦しみを減らす方向に働いているか、苦しみを強める方向に働いているか、という向きです。善悪が「正しいか間違っているか」を問うのに対し、kusala/akusala は「その行為は、どこへ向かっているか」を問います。

アングリマーラが剣を振るっていたときの心と、剣を投げ捨てたときの心は、同じ「彼」の中に生じた、別の状態です。前者はakusalaの方向にあり、後者にはkusalaへの転換が現れています。しかし、そのどちらも、「アングリマーラという人間の本質」を語ってはいません。


4|貪・瞋・痴という三つの根

では、何が行為を不善巧にするのでしょうか。パーリ仏教の伝統は、これを三つの根(mūla)に求めます。lobha(貪、渇望・執着)、dosa(瞋、嫌悪・怒り)、moha(痴、無知・迷妄)です。この三つのいずれかを根として生じる心や行為は不善巧(akusala)とされ、逆に alobha(不貪)、adosa(不瞋)、amoha(不痴、つまり智慧)を根とする心や行為は善巧とされます。

ここで興味深いのは、この三つの根が、いずれも「悪」という実体を持つ力ではなく、心の状態——それも条件によって生じては消える、一時的な状態として記述されている点です。貪りは常にそこにあるわけではありません。怒りも、無知でさえも、条件がそろえば立ち上がり、条件が変われば消えていきます。

アングリマーラを長く動かしていたものが、貪だったのか、瞋だったのか、あるいは深い迷妄だったのか、経典はそこまで詳しく語りません。ただ、ここで大切なのは、その原因を特定することよりも、原因の性質そのものを見誤らないことです。彼を殺人へと駆り立てていたものが何であれ、それは彼という人間に刻み込まれた不変の性質ではなく、条件がそろえば立ち上がり、条件が変われば消えていく、一時的な状態だったはずです——森の中で、その条件が一つ、大きく動いたのでしょう。


5|業と罪——過去の行為は消えるのか

出家したあとのアングリマーラには、続きがあります。托鉢に出た彼は、人々から石を投げられ、罵られ、傷を負います。かつて自分が奪った命の重さを考えれば、当然の報いだと感じるのは自然なことだと思えます。

けれど、ここで起きていることを、西洋的な「罪」の枠組みで読むと、見誤ります。罪とは、超越的な法——神の掟であれ、絶対的な道徳律であれ——への違反であり、それゆえに罰や赦しという語彙とセットで語られます。行為の善悪は、その法に照らして「裁かれる」ものです。

業(kamma、行為)と、その結果として生じるヴィパーカ(vipāka、結果)という枠組みは、これとは異なる論理で動いています。石を投げられたのは、彼が誰かに赦しを乞い損ねたからではありません。かつての行為が、貪・瞋・痴を根に持つ行為として、苦の結果につながる因をすでに蒔いていたからです。もっとも、その結果がいつ、どのような形で成熟するかは単純な一対一の対応ではなく、他の条件とも絡み合う過程であり、業論はそこまで単純ではありません。それでも裁く者はどこにもいません。仏陀は、その痛みを、過去の業の結果として耐え忍ぶようにとだけ語っています。あるのは、種を蒔けば、その種にふさわしいものが育つという、ごく即物的な過程だけです。

アングリマーラが変わったことと、過去の行為の結果を免れることは、同じではありません。行為者は、自分自身の心の傾向そのものに対して向き合っています。裁きを免れる道はなくても、赦しを乞う相手もいません。あるのはただ、次にどう行為するか、という選択だけです。

もっとも、これは「西洋は罪、仏教は因果」という大きすぎる図式に単純化されうる比較でもあります。西洋の思想にも、罪を外部の裁判官による一方的な罰としてだけ捉えない系譜はありますし、仏教にも戒律や責任という語彙は存在します。ここではあくまで、一つの典型的な違いとして述べています。


6|律が実際に問うているもの——「罪人」ではなく「何をしたか」

ここで、一つの疑問が浮かぶかもしれません。仏陀は、サンガという共同体を作るにあたり、誰を迎え入れ、誰を迎え入れないかを定めています。ならば、あれほどの人数を手にかけた男が、そもそも出家を許されること自体、おかしいのではないでしょうか。実際、私自身も仏陀はサンガを作った際に「罪人は入れない」という条件を定めた、と記憶していました。

律蔵を実際に見てみると、出家が絶対に認められない——たとえ出家しても無効とされ、発覚次第追放される——とされる者のカテゴリーが、明確に列挙されています。母を殺した者。父を殺した者。阿羅漢を殺した者。仏陀を傷つけ流血させた者。サンガの和合を破った者。比丘尼を犯した者。動物(人間ならざる者)。そして、いくつかの特殊な事情を持つ者です。

ここで気づくのは、この一覧が「罪人」あるいは「殺人を犯した者」という括りにはなっていないことです。除外されているのは犯罪や罪一般ではなく、母・父・阿羅漢という特定の対象への加害と、サンガの根幹に関わるごく限られた行為だけです。アングリマーラの罪は、その、いずれにも該当しません。

つまり律もまた、「罪人だから入れない」という発想では作られていません。まして「悪人だから入れない」という、行為者の性質そのものを問う発想でもありません。少なくとも律の除外規定は、抽象的なカテゴリーではなく、具体的に列挙された行為や条件によって出家資格を定めています。行為者という固定した実体があらかじめあって、そこから「入れるべきでない者」が漏れ出てくるのではありません。条件——ここでは、その人が過去に犯した特定の行為——が満たされているかどうか、それだけのことです。

アングリマーラの出家をこの枠組みで見るなら、それは慈悲による特別な例外というより、律の規定そのものが、最初から人を固定したカテゴリーではなく、行為の一覧として扱っていたことの結果だったと言えるのではないでしょうか。


7|どこへ向かっているか、という問いだけが残る

アングリマーラの物語を、「悪人が善人になった」という物語として語ってしまうと、実はこの話のいちばん大事な部分を取りこぼしてしまいます。

そこにあったのは、心と行為の方向が変わるということでした。それまで彼を動かしていたものは、殺害へと向かう心でした。しかし、その心の流れは固定された本質ではありませんでした。条件が変われば、別の心が生じ、別の行為を選ぶこともできます。

だからといって、過去の行為がなかったことになるわけではありません。過去に何をしたかという事実は残ります。しかし、その人が次の瞬間に何をするかは、また別の問題です。

「悪人」というラベルは、過去の行為を現在と未来にまで延長してしまいます。けれど仏教が見ているのは、固定された人物像ではなく、条件によって生じ、変化していく心と行為の流れなのではないでしょうか。

これは行為を軽く見ることとは違います。むしろ逆で、結果への責任はよりまっすぐに引き受けられることになります。ただしその責任は、「自分は悪人だったのだ」という自己非難の物語を書くことではなく、「この瞬間、心に何が働いていたか」を、次の瞬間にはまた別のものが働きうる、という前提のもとで、静かに見つめ直すことに向けられているのです。

善悪の物差しで自分や他人を測るとき、わたしたちは知らぬ間に、動かない判定を下そうとしています。あの人は善い、あの人は悪い、自分は善いほうでいたい——そうした判定は、一度下されると、なかなか書き換えられません。

けれど心が実際に扱っているのは、判定ではなく、絶えず生滅する条件の連なりでしかありません。

森の中で立ち止まったのは、アングリマーラだけではなかったのかもしれません。問われているのは「善か悪か」ではなく、ただ、この一瞬の心が、どこへ向かっているか、それだけなのだろうと思います。


参照:MN 86(Aṅgulimāla Sutta)、Vinaya Piṭaka, Mahākhandhaka

このエッセイはRUMIKOの個人的な考察です。

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