春なのに、軽い出来事がひとつもない
4月、厄の在庫一掃セールでもやってる?
今年の春は、妙に手触りが悪い。桜が咲いたとか、暖かくなったとか、そういう季節の更新通知みたいなものが、全部すり抜けていく。気づいたら4月も後半で、しかもまだ終わる気配がない。このまま何事もなかった顔で5月に入ろうとしているの、さすがに図々しすぎる。
ゴールデンウィークの予定は、あっさり崩れた。お義父さんの体調不良で、夫はひとりで帰省。こちらは留守番。事情としては真っ当すぎて文句の持っていきどころがないのが、逆にしんどい。「仕方ない」で全部片付くやつほど、じわじわとボディーブローの如く効く。連休って、本来は少し浮かれるためのものだったはずなのに、今年はただの空白期間として渡された。使い道のない時間は、自由じゃなくて重さになる。
その前の月に起きたことは、少し種類が違う重さだった。知人が、自ら命を絶った。その過程があまりに苛烈で、聞いたあとしばらく言葉が出てこなかった。少し距離のある直接の関係ではないからこそ、どこかで「自分には触れない現実だ」と思っていた部分があったのかもしれない。でも、現実はそういう線引きを平気で踏み越えてくる。
どう受け止めればいいのか、正直よくわからない。ただ、ひとつだけ確かなのは、そこにあったはずの時間や生活が、突然断ち切られたという事実で、それは誰かの中に長く残り続けるということだ。軽々しく言葉にすると嘘になるし、黙っていると置いていかれる気もする。その中途半端な位置に、自分も引っかかっている。
自分の生活も、別の方向で不安定だった。仕事に怪しい雲行きがあって、最悪の事態を迎える前に離れる判断をした。結果、半月という限られた時間の中で転職活動。短期決戦にもほどがある。血眼で求人を探し、会社についてリサーチし、問い合わせをし見学し、履歴書を書いて、面接に行く。その過程の中で、「生活を維持する」という当たり前のことが、妙に綱渡りみたいに感じられた。
そして今月。自宅マンションで、特殊清掃が入った現場に居合わせた。これがいちばん現実感の輪郭を歪ませた出来事かもしれない。見慣れた場所のはずなのに、そこだけ空気が違う。同じ建物の中で、誰かの生活が終わり、その痕跡が処理されていく。日常のすぐ隣にある出来事なのに、普段は意識しないで済んでいるだけなんだと、嫌でも理解させられる。
ここまで重なると、「さすがに偏りすぎでは」と思う。別に何かをした覚えもないのに、出来事だけが一方的に積み上がっていく。運が悪い、で片付けるにはあまりに理不尽すぎるし、意味を見出すには現実的すぎる。ただ、それでも日常が、生活が続いているという事実だけがある。
不思議なのは、こういう連続の中にいると、感情がうまく追いつかなくなることだと思う。本来なら立ち止まるべきところで、そのまま次の出来事に押し流される。悲しむにも順番待ちが必要みたいな状態になる。それでも日常は止まらないし、止めるわけにもいかない。
だからせめて、書いて並べてみる。出来事の輪郭を、自分の言葉でなぞる。そうしないと、重苦しい空気にのまれて沈んでいく気がするから。
ゴールデンウィークは、予定のない時間をそのまま引き受けるしかない。何も起きないことを確認するための時間。たぶんそれが、今の自分にとってはいちばん必要なんだと思う。
4月、そろそろ在庫は出し切ったはずだと信じたい。
