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幸福の色は、毒の色──アニエス・ヴァルダ『幸福』論と色彩哲学


アニエス・ヴァルダの『幸福(Le Bonheur, 1965)』は、映画史における“色彩の極北”のひとつだと思う。
これほどまでに、色によって語り、色によって欺く映画を、私は他に知らない。


冒頭、モーツァルト《クラリネット五重奏曲》のやわらかな旋律にのせて、咲き誇る向日葵と家族の戯れが映し出される。それはあまりにも幸福で、あまりにも美しい──その瞬間から、私はこの映画の“罠”に落ちていた。

ヴァルダのフレーミングは、まるで絵画のようだ。
登場人物の衣服の色、背景の壁の色、光の温度までが緻密に設計されている。
濃い青の服と淡いライトブルーの壁。紫の中には、ひと匙のピンク。
それまで赤を基調としていたカットが、物語の進行に合わせて青中心へと転じていく。


それらは単なる装飾ではなく、物語の進行とともに変化する“感情の色相”であり、絵画を映画の時間に置き換えたような設計である。ゴッホが絵筆で試みたことを、ヴァルダはフィルムという時間芸術の上でやってのけたのだ。


しかし、この華やかな色彩の下には、冷たく残酷な現実が潜んでいる。
夫は妻を愛しながら、別の女性も愛す。その「二重の愛」は彼にとって自然で幸福な営みかもしれないが、無意識の加害性を孕み、妻にとって致命的な痛みとなる。

──そしてある日、妻は湖へ姿を消す。

『幸福』とはいったい何だろうか。
妻の不在ののちも、物語はあっけなく“幸福”を取り戻してゆく。
あたかも幸福とは、誰が担うかを取り替えられる“役割”であるかのように。

この「代替可能な幸福」の構造は、いまやマッチングアプリの中で日常的に再演されている。
まるでヴァルダが、幸福の条件を選別する現代の恋愛システムを、半世紀も前に予見していたかのように。


──妻を愛しながら別の女性も愛することは、果たして幸福なのか。


──自分が幸福でも、相手が不幸なら、それを幸福と呼べるのか。


──妻がいなくなっても当たり前のように日常が続くこと、それは果たして幸福なのか。



代替可能な幸福。それこそが、この映画の恐ろしさであり、現代社会の寓話でもある。
幸福とは何か、愛するとはどういうことかを問いながら、ヴァルダは観客の倫理を鮮やかに裏切る。

色彩は甘美で、映像は完璧に美しい。
けれど、その美しさのなかには、確かに毒が潜んでいる。

映画の終盤、秋の紅葉と戯れる家族。
すべてが再び整えられたかのように見える。
だが、その色は、もう初めの“幸福”とは違う。


ヴァルダは私たちに静かに問う。
──この色を、まだ「幸福」と呼べますか、と。






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