理解すること、支持すること、そして応答すること
先日、長年、看護学生への講義や対話を続けているRYOJIさんの書いた1万2千字に及ぶnote記事を、ようやく最後まで読み終えた。
ゲイ(同性)から好きになられたり、交際を求められたとき、どうすればいいのか。
一見すると、かなり限定された問いに見える。
けれど彼は、そこから性的自己決定権、他者への偏見、自分と他者との境界、性暴力、被害と加害、安全とは何か、そして次の世代に何を残していくのかというところまで、話を広げていった。
記事を読みながら、私は何度も立ち止まった。
「ここまで考えるのか」と思った。
そして読み終えた後、こんなメッセージを送った。
講師として語りかけるような書きぶりで、読者のさまざまな疑問や意見、不安や嫌悪まで想定しながら、それらに感情ではなく理性と知性で応答していくのは、かなり胆力の要ることだったと思います。
本当にお疲れ様でした。
これが無料で読めるなんて、おかしいなと思った。
また俺も、この記事を読み返しながら、より多くの大人たちに気づきを促せるように、応答していけたらと思っています。
あんな長いものをありがとうございます。
もっと読みやすく書かなきゃね。あと、あの文量でも書けてない要素があるよね……
グルーミングでも人は「俺たち友達じゃん」「何もしないから」と言うので、少なくとも「ゲイは安全」とは書けない。リスクは誰にでもある。
その時に性的同意があったとしても、結果として性的搾取として扱われるとか最悪だなと思いながら、すごくよくある話だよね…
そんなメッセージのラリーを何度かした後に、私は次のメッセージを送った。
俺さっき、りょーさんはあの記事で“感情ではなく理性と知性で…”と書いたけど、違うよね
感情もちゃんと「ある」ものとして書けるところは書いてて、感情も材料にしてるんだよね。
彼は、感情を排除しているわけではない。
怒りも、悲しみも、嫌悪も、恐怖も、疲労も、ちゃんとそこにある。
むしろ、それらを「あるもの」として扱いながら、そこからさらに考えている。
物事の表面だけではなく、わき起こる感情だけではなく、その背後にある構造を見ようとする力。だからこそ、いろいろなものが溢れてくるのだろう。
怒りも、問いも、違和感も、願いも。
それはたぶん、私と出会う前からそうだったのだと思う。
一方の私は、彼の話すことや考えていることを全部理解できるわけではない。
すべてに賛同するわけでもない。
彼の話を聞いて、「そこは俺とは違うな」と感じることもある。
それでも、私たちは対話を続けることができている。
私はこれまで、人との関係の中で「理解すること」や「支持すること」を大切にしてきた。
でも、今回の(まあ今回だけではないのだが)彼とのやり取りを通して、それだけではないのではないかと思うようになった。
「理解すること」と「支持すること」の他に、「応答すること」があるのではないか。
全てを理解できなくても、全部には賛同できなくても、想像しきれなくても。
それでも。
相手の言葉を聴いて、自分の中で何かが動いたなら、「私はこう感じた」 「ここは分からなかった」 「ここについて、もう少し教えてほしい」 「私にはこう見えた」と返すことはできる。
それは、心を開いて言葉を渡してくれた相手への、ひとつの敬意でもあると思う。
そういったやり取りを重ねるなかで、そこから別の連想や疑問が浮かんでくることもある。
また、それを私も言葉にしてみる。
この営みは、「答え」に向かって一直線に進んでいるわけではない。むしろ、枝分かれしながら話が続いていく感覚。
私は、誰かにとっての完璧な「理解者」でありたいわけではない。
理解できている、なんておこがましい。
けれど、「応答者」ではありたいと思っている。
相手の言葉や想いを私の中に通して、私自身の言葉として返すこと。
時にはちぐはぐになっていたり、相交えない価値観もあるだろう。
それでも、聴くことはやめない。
そして、私自身の言葉もまた、相手に受け取ってもらう。そんなやり取りが続いていくこと自体が、とても尊いことなのだと思う。
人は、誰かのことを完全に理解することなんてできない。
生きてきた環境も、経験も、傷ついたことも、持っている知識も違う。
だから、「分かってから話す。返す」ことを目指してしまうと、いつまで経っても話せない人がいる。
私にとって「応答する」ということは、相手を変えるための行為でもないのだと思う。
相手を論破したり、説得するためでもない。
正しい答えを返すためでもない。
まずは、「あなたの言葉は、私のところまで届いたよ」と伝えること。
そして、「届いたものを、私は私なりに考えて、こう返すよ」と差し出すこと。
その繰り返しなのかもしれない。
RYOJIさんの記事の後半には、こんな一節があった。
そのような語り合いをする目的は、当然ですが、決してやり込め合うことではなくて、昔から異性愛/同性愛問わず私たち皆が経験してきたことを、どうしたら互いの尊重ができるのか、自分の心身を、他者の心身も、守って行けるのかという学びに高めて、次代につなぐところにあるべきだ、と私は思います。差別も抑圧も、いじめも性暴力も、あった。それをただ事実と後世に残し、君たちはどうするかと問い、こう生きられるよと示して行く。そのためだったら、私たちはこのとてもキツい課題に取り組めるんじゃないかな。そうだと言ってもらえるんじゃないかと、思うのです。
私には何ができるだろう。
至らなくても、未熟でも、それでもまずは自分事として考えて、応答することはできる。
また誰かの言葉を聴くことができる。
そのなかで、分からないことを、調べたり、問うことはできる。
「自分には分からないから」と切り捨てずに受け取ることはできる。
そして、自分の中で考えたことを、自分の言葉として返すことはできる。
