作品について|祈りの触媒と、光の外側
私の作品について、
こんな効果、影響があるかもしれない、という
希望だったり、思いについてまとめておく。
常にこんなことを考えて作っている、
というほどではないけど、
自分の指針であったり、
作品のラベルだったりする。
Philosophy |祈りを必要だと思う理由。
私は、祈りが、現代において自己を見つめ直すための有効な手段のひとつだと考えている。
SNSやAIの台頭により、私たちは、自己の輪郭を失いやすくする三つの状況に直面している。
ひとつは、常時接続された世界で絶えず情報にさらされ、自分と向き合う時間を失っていくこと。
もうひとつは、無数の個人の主張が重なって
生まれる「こうあるべき」という空気に、
知らず知らず迎合してしまうこと。
そして、AIを含む最適化アルゴリズムの
提示する答えと、自身の意見との境界が、
いつの間にか曖昧になること。
こうした環境の中で、私たちは、
社会の中で優勢になった意見を、
無意識に「正しいこと」として受け入れていく。
社会と自己の境界が薄くなるにつれ、自分という主体の輪郭も見失われていく。私は、その輪郭とは、自身の意思決定を形づくる論理と、論理同士の接続の集積であると考えている。
何を正しいとし、何を退け、何を選ぶのか。
その判断の背後には、経験や価値観から編まれた、自分なりの論理がある。
この自己の輪郭の喪失に抵抗する手段として、
「祈り」は重要な役割を果たす。
私は、祈りを、
「曖昧な存在に自己の運命を委ねること」
ではなく、
「その行為を通じて、自己との対話を重ねること」と定義する。
自己との対話とは、
感情を眺めることに留まらない。
自分が当然のものとして受け入れている論理を
一度疑い、それらが何と結びつき、
どのように自分の判断を形づくっているのかを
見つめ直すことを意味している。
この意味において、現代の祈りは、
輪郭を失いつつある自己と語り合い、
その輪郭を取り戻そうとする抵抗の行為となる。
それは、救いや希望の象徴ではない。
自己を侵食する社会の中で、
それでも自分の声を聴き続けようとする
営みである。
Statement |こんな作用があったらなという話。
私の作品が目指すのは、
その「祈り」の触媒である。
触媒は、反応の行き先を決めるものではない。
反応そのものを、外から与えるものでもない。
そこにすでにあるもの同士が反応するための
条件に、わずかに関わるだけだ。
だから私は、作品によって
答えを渡したいのではない。
鑑賞者の内側にある感情や論理に
微かな揺らぎを与え、
その継ぎ目を見つめ直すための
静寂を呼び起こしたい。
作品は、その抵抗を始めるための、
無音の一拍目でありたい。
人が社会の流れの中で一度立ち止まり、
他者の期待や情報の渦から離れる。
そして、自分を形づくっている論理を、
当然のものとしてではなく、
あらためて見つめ直す。
もちろん、作品がすべての人に、
そのように作用するとは思っていない。
ただ、誰かの内側でそうした反応が起こる、
そのきっかけとなる小さな条件として、
私は作品をつくりたい。
Aesthetics |こんな雰囲気を目指しているという話。
私は、死生、平静、孤独、変容、曖昧さ、矛盾、解放、そして科学の詩的解釈に惹かれている。
そこには、一般に忌避されるものや、不合理として切り捨てられるもの、ひとつの意味に回収しにくいものも含まれている。
しかし私は、その不合理さや影、説明しきれない揺らぎの中に、美と観察の価値を見ている。
押しつけられた正しさの外側にこぼれ落ちた感情や解釈に、私は触れようとする。
私の作品に、ときに暗さがあるのはそのためだ。
それは、死や苦しみを賛美するためではない。
「こうあるべき」という光の偏りをゆるめるための、小さな弁である。
不穏なものに安心を。
光の中に闇を。
