おもいでのアルバム
“いつのことだか 思いだしてごらん
あんなこと こんなこと あったでしょう
うれしかったこと おもしろかったこと
いつになっても わすれない”
幼稚園の卒園式で『おもいでのアルバム』を歌ったとき、不思議な感覚になった。今でもこの曲を聴くと、胸が締め付けられる。この感情は一体なんなのだろう。
12才のわたしは、北野武監督の『あの夏、いちばん静かな海。』という映画を観た。おそらく今までで一番繰り返し観た映画だと思う。
聾唖者の主人公が、ある日折れたサーフボードをゴミ捨て場で拾い、その日からサーフィンに夢中になり、来る日も来る日も海に向かう。だが嵐の日に海に飲み込まれ、帰らぬ人となる。
あっけない程に死は突然やって来る恐ろしいまでに静かな映画だった。映画のラストで恋人が彼の形見のサーフボードを海に流すシーンのあとに、生前の彼が生きた証ともとれる彼を含めた彼と関わったすべての人間たちとの輝いていた日々が、記念写真さながら観客の我々を見つめて笑って立っている。そのカットの羅列に眩暈がするくらい心が動揺して、なにがなんだかわからないほど感動させられた。この感動の正体が長らく自分には分からなかった。それが、この間の朝、すとんと落ちてきた。
人は様々なものを失う。大切な存在を失うこともそうだし、最終的には、自分も死んでしまう。でも「喪失」ばかりではない。
皆、この星に様々な経験をしにきている。どんな「生」にも、喜怒哀楽という感情の煌めきがあり、それを味わい切って、もとにいたところに帰るのだろう。
『あの夏、いちばん静かな海。』のラストシーンを観た経験は、自分が死んだあと自分の一生を走馬灯のように見ることを、あらかじめ擬似体験するようなことだったのかも知れない。
北野武は、インタビューで、この映画のラストに用意された記念写真のようなショットの羅列について、グリコのおまけのようなものだと語っている。彼特有の照れ隠しのような発言でありながらも、おまけが欲しくてお菓子を買い求める子どもの心理というものが、人間の生きることへの潜在的な意識であることを端的に表しているようにも思える。
人は、ただ生きて死ぬ。究極、そこに意味はない。それでも、意味とは違った、もっと愛おしい何かを、日々追い求め、出会おうとしているのだろう。
