「優しい人」になるために、自分をゴミ箱にしていた
noteを始めて1ヶ月くらいの頃、私はこんな記事を書いた。
「マウンティングは雨と同じ、泥跳ねみたいなもの。気にしなくていい、受け流せばいいと対処する前に、雨に濡れた自分や泥跳ねで冷たくなった足元を、まず労わっていい」
その記事では、マウンティングをしてくる人にこう質問したら、もうされなくなったという実体験を綴った。
「それって、どういうルールなんですか?」
「勝ち負けは誰が決めるんですか?」
「誰が参加してるんですか? 私はいつ参加したことになってるんですか?」
「どうすれば終わりますか?」
あれから半年。過去の記事を読み返しながら、私は考えていた。
「どうして私は、あんなにマウンティングが嫌だったんだろう」
「大切にしなくていい人」という分類
きっとそれは、私が「マウンティングをしてもいい相手」「意地悪をしてもいい相手」に選ばれたことが嫌だったのだと思う。
見下されているような、私の気持ちなんて想像しなくてもいいと思われているような。人として見られていないというか、「大切にしなくてもいい人」に分類されたことが悲しかったのだ。
私にとって、私自身は世界に一つしかない、いびつで不格好でも大切な「器」だ。
なのに相手には、感情や言葉のゴミを捨てていい「ゴミ箱」だと思われたのが嫌だった。
だから知りたくなった。
どういう人がゴミ箱にされてしまうのか。どうすれば私という器を、みんなと同じように大切に扱ってもらえるのか。
それを知るには、私のことをゴミ箱だと思っている人に「どうしてゴミ箱に見えたのか」を聞くしかない。
「一つある」と、そこはゴミ箱になる
昔、地域の子供会のクリスマス会でのこと。
「ゴミは段ボールに入れて。燃えるゴミと燃えないゴミを混ぜないで。段ボールはまだ予備があるから、分別だけはきちんとして」
いつも怒る怖いおじさんがそう説明した。
けれど、誰か一人が間違えたのか、わざとなのか。燃えるゴミの中にプラスチックが混ざっているのを見た瞬間、後から来た人たちも「混ぜてもいいんだ」と思ったのか、ゴミの分別はどんどんめちゃくちゃになっていった。
また、こんな話を聞いたことがある。
ある人が自転車を駐輪所に停めて、少しの間その場を離れた。籠の中には、自分で持ち帰ろうとした空のペットボトルが入っていた。用事を済ませて戻ってくると、籠の中には見知らぬゴミが山ほど入っていたという。
そこには他にもたくさんの自転車が停まっていただろう。なのに、たまたま「持ち帰るためのゴミ」が入っていたその自転車だけが、道行く人に「ここはゴミ箱だ」と誤認されてしまったのだ。
本来なら、マナーが良いと褒められるはずの行動が、勝手にゴミ箱扱いにされる。
「仏様」という呪縛
「波風を立てたくない」
「断って相手に嫌な思いをさせたくない」
「みんなが気持ちよく過ごせるなら、私の気持ちなんてなかったことにして、何でもないように過ごそう」
目の前で嫌なことを言われても、笑っていよう。気にしていない振りをしよう。
そうやって過ごすうちに、自分の本当の気持ちすら分からなくなっていった。
いつしか周りからは、「のらは仏様のように優しくて、自分のことより他人の幸せを考えられる人だよね」と言われるようになった。
そして、その評価を失うのが怖くなった。
いつの間にか、「自分に優しくしないこと」が「他人から優しいと評価される方法」にすり替わっていた。
私は、私自身の心という器を、見たくない感情や現実を押し込める「ゴミ箱」にしていたのかもしれない。
私が私をゴミ箱として扱っていたから、周りからもゴミ箱に見えた。一人がゴミを捨てれば、それを見た誰かも「ここはゴミ箱なんだ」と認識してしまう。
それは、攻撃ではなく「親切な案内板」
「これはゴミ箱ではありません。私の大切な器です」
そう伝えることは、波風を立てる行為なのだろうか。
私は、それは「親切な案内板」なのだと思う。
誰かが間違えて、誰かにとって大切なものにゴミを捨ててしまわないように。「ここはゴミ捨て場ではありませんよ」と教えてあげる。それは、自分のためだけでなく、相手が「加害者」にならないための親切でもあるはずだ。
境界線を引くことは、攻撃ではない。
「歯に海苔がついているよ」と教えるのは、攻撃だろうか。
それと同じくらい、ごく自然で、お互いのための親切であってもいいのだと思う。
