書くことに"激しさ"を求める
なんか書きたいんだよな。
今の心情はこの一言につきる。ポツポツと投稿が空いて、ここ一週間で3投稿しかしていない。それでも十分なように思えるが、ほぼ毎日投稿していた身としては、どこか物足りない。というよりも、習慣にしていたことがポロポロと剥がれてきて「あれ? 今日なんかしたんだっけ?」と、過ぎ去る一日でしかないと感じてしまう。
永田希『再読だけが創造的な読書術』では、トリスタン・ガルシアの『激しい生』を引用し、私たちは日々の生活の中で"激しさ"に駆り立てられていると書いている。"激しさ"とは、自分の感情が動くような体験のことだ。この激しさによって社会は経済成長し、生活が豊かになる。その反面、私たちが病むことにもつながる。それを読書に当てはめると、初体験信仰にあたると指摘する。
再読が初読に対してどこか億劫なのは、初読時の鮮烈なはずの、信仰対象とされるべき印象が薄れていることを認めることを無意識に避けているからなのではないか
確かにそうだ。一度読んだ本は展開がぼんやりとでも覚えていることが多く、新鮮さは薄れている。それに、途中を自分の中で補完して読み飛ばすこともする。
この、どこか新しさを感じられない体験は、書くことにおいても似ているのではないか? と思う。
というのも、書いているうちに、「あれ? 前にも書いたかも?」とか、「あー、思考が同じだ」とか、「行き着く先が同じだ」とかと、結局のところ同じところにたどり着いてしまって面白さを感じられない。
私は、書くことに新しさを求めている。書く前には想像もしなかったことを求めている。それはまさにガルシアの言う"激しさ"だろう。
日記が続かない理由もおそらくここにある。代わり映えのない日常を記録する意味があるのか。同じことを書くためにわざわざ手を動かさなければならないのか。まるで漢字練習するように、同じにしか思えないことを何度も何度も書く。これは意味があるんだろうか? と。
こうやって考えてみると、日記が続かないのは新しさを求めているからではないだろうか。一日に彩りを与えるような経験をしたい。何か自分の見方が変わったようなエピソードを記したい。日常に非日常を求めて、普段はしないようなことに取り組み、それを記録する。それはまるでリリース当初のInstagramのような、キラキラした日常を見せることを日記に求めている。日記をつけるのは、日常を記録したいからではなく、新しいことをしたいから。
そう考えると、日記をやめるのは、新しいことができなかったとき。なにかに挑戦しても何も変わらないと絶望したとき。日記はある意味で残酷で、これまでの日々が積み重なった、直視せざるを得ない私の現実である。
と、ずるずるマイナスな方向に進んでしまったが、納得できる部分も多い。私は日記を書く上で、「なにもなかった日にも書くのが日記である」という格言を大切にしている。
これは本の再読で言うところの新鮮味の無さを受け止めることでもあり、「これが私の日常である」と自分の心を自分に戻すことでもあると思う。"激しさ"に動かされているうちは心が背伸びして、今の自分から脱するように働くが、日記は自分の立ち位置を確認する行為だと思う。
...
本当はこんなことを書くつもりではなかった。「なんか書きたくなるんだよなぁ」という心情を書いて終わるはずだった。でも、『再読だけが創造的な読書術』を引用してから、思いもよらないことを書いてしまった。書いている内容は現実を見ろということだが、私の心はここに在らずで、激しさに突き動かされている。
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