選択式小説『まだ、名前で呼べない』第13話
第13話 うたた寝して
館内は人がいるのに静かで、そのせいか隣で眠るハルのすぅすぅという小さな寝息が、蓮の耳元までしっかり届いた。
蓮は「松し……」まで言いかけて、そこで止めた。
(残業続きだから、疲れたのか……)
秋の新作ラッシュのため、広報グループと企画部は合同で何度も打ち合わせをし、それぞれの商品のパッケージから販売開始日、宣伝などを行って、ようやく一息ついた時だった。
広報グループにとって、ハルはもう大事な戦力だ。疲れているなら休ませてやりたいと思う。
蓮は一つため息をつくと、本を持ちなおして読み始めた。けれど、やはり隣で眠るハルが気になり、文字を追っても頭に入ってこない。
蓮はまたため息をついた。
(……隣で松下さんが寝ているだけで、本に集中できないとは)
誰かが近くにいる――そういった生活をしていなかったせいか、妙に気にしてしまう。
とはいえ、手を出すなど馬鹿なことはしない。彼女は大事な仲間であり戦力だ。
くすぐったい気持ちを抑えながら、本に集中しようと心掛けるが、どうしても意識がハルの方に行ってしまう。
(いけないな。しかし……いつ目が覚めるのか?)
蓮はハルの頭を見ながら、一年前を思い出していた。
六月にハルと同じように緊張した面持ちで広報グループで挨拶した若い新入社員。美大で学んだというのを自慢していた女性社員は、独学で学んだ他の社員を見下している感じがあった。
そんな彼女とグループメンバーの間に入って、蓮は何度も話し合った。
美大で学んだ技術も素晴らしいが、他の社員も独学で会社に貢献している。そのことは嘘ではなく、菫をはじめ今の面々は本を買い、ネットの記事を読み、家でも勉強して今があるのだ。
さんざん彼女らの間に入って仲裁を試みたことか。
間に入って話を聞いているうちに、彼女は勘違いした。
「蓮さんがそう言うなら」
「蓮さんの言うことなら」
そんな言葉が増え、気付けば「蓮さん」と呼ばれるようになっていた。
しかも、自分の思う通りに行かなかった彼女は、去年の今頃に急に辞めてしまった。
自分が上手く立ち回れなかったせいだと、蓮はつい自分を責めてしまう。
だからこそ、職場の人間との距離には人一倍気を付けている。
それなのに――。
(……どうして松下さんだけは、こんなに気になるんだ)
答えが出ないことに少しだけ苛つきながらも、体を揺らさないように心がける。本のページは捲られないまま、蓮は思考の渦に巻き込まれていく。
とはいえ、隣で寝ているハルに感化されたのか、蓮にも睡魔が襲い来る。
(いけない、このまま寝てしまったら……)
そうして、本を開いたまま首がカクンと下に動いたとき、その振動によってハルがピクリと反応した。
***
気づいたのは突然だった。
意識が浮上したのと同時に、左ほおがあたたかいことに気づいて、その正体がなんなのかを探り……蓮の肩だと知ったハルは、慌てて離れた。
そして。
「すっすみません!」
図書館という場所を考えず、かなりの声量で蓮に向かって謝罪した。
ハルが恐る恐る視線を向けると、彼は人差し指を口に持っていき。
「しっ、静かに。図書館ですから」
「す、すみません」
小声でやり取りをする二人。
幸いなことに、周囲から咎めるような視線はなかった。
それでもばつが悪く感じ、ハルは小声で「今日はこれを全部借りていきます」と蓮に向かっていった。
「そうですか。俺もこの本一冊にします」
「じゃあ、借りに行きますか?」
「そうですね」
「なら……お詫びにコーヒーを奢らせてください。ちょっと早いけど、お昼の時間なので」
「いえ、そこまでは」
「私の、気が収まらないので。すみませんが、付き合ってください」
ハルはそう言うと、蓮が少しだけ表情が強張った。
「小宮さん?」
「いえ、なんでもありません。ですが、松下さんが納得されるなら」
「ありがとうございます」
ふわりと笑うハルに、蓮はわずかに目を細めた。
「小宮さん?」
「なんですか?」
「ちょっと様子がいつもと違うので……私、うたた寝している間に変な寝言を言ったりしてませんでしか?」
「いえ、寝言は聞こえませんでしたよ」
「本当に?」
「ええ」
ハルは蓮の様子がいつもと少し違うことが気になり、自分が何かやらかしたせいだと思い、念のため聞いたけれど、どうやら違うらしい。
ハルの疑問を否定する蓮の言葉に、誤魔化しは感じられなかった。
それ以上聞くのはやめて、二人して本を借りるためにカウンターに向かった。
***
蓮が案内したのは、ショッピングモールの一角にあるレトロな喫茶店だった。
赤レンガの壁に蔦が絡まり、どこか懐かしい雰囲気をまとっている。木枠の窓越しには琥珀色の照明がやさしく店内を照らしていた。
「ここは落ち着いて読書をするのに最適なんです」
「確かにそんな感じですね。ショッピングモールなのに、このお店、全然気づかなかったです」
「そうですか。初めてなら良かったです」
「はい、とっても素敵。今度は私がいいところを紹介しますね」
そう言いながら店内へ入ると、照明はほどよく落とされ、眩しさを感じない。低めのつい立てが各テーブルをゆるやかに仕切り、店内では読書を楽しむ客の姿も目に入った。
カウンターの奥にいたマスターが、蓮とハルを見て「お好きな席へどうぞ」と言ったので、窓際の席を選んだ。
「いらっしゃいませ。今ならランチセットをご用意できます」
マスターはそう言って、お冷とおしぼり、メニュー表を置いた。
「ありがとうございます」と言うと、マスターは一礼して去っていく。
「ここはマスター特製のブレンドコーヒーがおすすめです。飲みやすさを考えて淹れられているようで」
「そうなんですね。じゃあ、それにしてみます。何か食べますか?」
「そうですね。時間的に何か頼みましょう」
「小宮さんはいつも何を頼んでますか?」
「いつもはサンドウィッチを。本が読みやすいので」
蓮らしい答えだった。
「ですが、今日は読書ではないので、ランチセットのナポリタンにしてみます」
「ナポリタンですか。私はどうしようかな……」
ナポリタンも美味しそうだけれど、意外と口の周りについて汚してしまう。
蓮には見せたくないと思ってしまった。
「松下さんは決まりましたか?」
「えと、グラタンにしようかと思って。ランチセットですし」
「熱いので気を付けてください」
「やだ、小宮さんったらお父さんみたいです」
「……お父さん」
蓮が眉をひそめたので、ハルは慌てて「ものの例えです」と付け足した。
「小宮さんは、いつも細かいところまで見てくれているので……つい」
「そうですか」
「はい。よく見てくれているんだなって。だから、ちょっと羽目を外しても安心できるっていうか……この前の飲み会も送ってくれましたし。あのとき、すごく嬉しかったです」
ハルははにかんだ笑みを浮かべた。
蓮はそんなつもりではなかったと言えなくなった。代わりに、こそばゆい気持ちになる。
「では、それで頼みましょう」
「はい」
蓮はそう言うと、手を挙げてマスターを呼んだ。
そして、ナポリタンとブレンドコーヒーのセット、グラタンとアイスコーヒーをそれぞれ頼む。
マスターは頷くと、「しばらくお待ちください」と言って、カウンターに戻っていった。
「楽しみです。ただ、グラタンが熱いのでアイスコーヒーにしたのが残念ですけど」
「それなら、また来ますか? この店は落ち着いていて、何度も来たくなるんです」
「そうですね。今度はサンドウィッチで本を読みながらもいいかも」
「ええ」
ほどなくして、先にナポリタンが運ばれてきた。
蓮は遠慮して手を付けなかったが、ハルが「グラタンの方が時間がかかるから」という一言で、少しずつ食べ始めた。
三分の一ほど減った時に、ハルのグラタンが届く。
ハルは「いただきます」と言って、熱々のグラタンにスプーンを入れた。
口の中にグラタンを入れると、熱さに「あつっ」と声が漏れる。なんとか咀嚼して飲み込んで、水を一口飲んだ。
「……熱いけど、美味しいです」
「そうですか」
「はい。小宮さんのナポリタンも美味しそうです」
「ええ、美味しいです。昔から、変わってない」
「結構通ってるんですか?」
「そうですね。図書館へ来た日だけじゃなく、本屋へ寄った帰りにも来ます」
「常連さんですね」
「そう言われると、そうですね」
ハルはクスッと笑って蓮を見た。そのとき、窓の外を歩いてくる人と視線が合い、次の言葉に詰まった。
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今回の選択は…
喫茶店でお昼を食べていた蓮とハル。そして、ハルが見た人物は…?
A. 大学時代のハルの元カレ
B. ハルのお姉さん、アキ
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