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学歴レースからの脱落者として「学歴」について考える

つくづく、私たちは「学歴」の話が好きですね。

ただその話題にふれるだけで、なにかしらの熱狂が起こるトピックです。それほど学歴というものが、私たちにとっての共通体験であり、関心事なのだと分かります。

ひるがえって私自身のことを申しますと、私には人様に自慢できるような学歴がありません
学歴レースへの参加経験こそあるものの、途中で引きこもりになり脱落してしまったからで、だから私は「学歴レースからの落伍者」を自認しています。

最終的に、いちおう四年制の大学を出てはいるのですが、それは知名度もない美術大学でしたので、世間的ステータスとしては限りなく「無」に近いものです。
(※主観的には、大学時代は人生を変えた素晴らしい契機の時代ではありました。同校出身者や関係者の方はお気を悪くされませんように。)

本稿では、そんな学歴レース脱落者としての私が、「学歴の意味と、それを取りまく力学」について、思索を巡らせてまいります。






学歴レース体験をふり返る


私は広島の出身です。
両親は、地元では良い大学とされるところの出身でした。
かれらの親、つまり私の祖父母は昭和一桁世代で、「学歴がなくて苦労した」人達でしたので、その反動の結果として、わが子に学歴を持たせたがったのだと言います。

そういうわけで私は、“学歴レースにうまく乗れた“両親のもとに生まれたゆえに、ある程度「よい学歴」を期待されていました。

気がつくと、当然のように中学受験を目指すコースに入っていました。当時の私自身の実感としても、公立小学校の授業内容はあまりにも簡単だと感じていましたので、「自分の可能性を試せるらしいから、いいか」という程度の認識で、なんとなく受験勉強に勤しみました。

進んだ先は、中高一貫の進学校でした。
しかしその結果は、後に引きこもりとなり、高校へは内部進学したものの、最終的には退学することになりました。

この学校はいわゆる詰め込み教育で、中学生のうちに、公立高校でいう文理選択くらいまでの内容を終わらせるカリキュラムをこなさねばなりません。
さらに、将来の国公立大学への可能性を見据えるために、5教科7科目での入試に対応できうるオールマイティさが求められました。

その環境にあって、私は科目ごとの得意・不得意が極端なタイプでしたので、教師側から「底上げ」のための介入が強く、不得意科目によって存在価値をジャッジされ続ける状況が、とても苦痛でした。この軋轢が、ひきこもりとなる要因のひとつでもありました。

数年後、ひきこもりから脱した私に、両親は四年制大学に行くように望みました。「高校中退」よりも「腐っても四大卒」が安全なルートだという判断だったのでしょう。

高校を中退しているため、当時は「大学入学資格検定」というものにパスしなければ、大学入試への参加資格が得られませんでした。とはいえ、そこで必要とされたのは、引きこもり前に学んだ内容で網羅されるレベルでした。
詰め込み教育の、思わぬ利点。怪我の功名というやつです。



学歴レースの「無言の要求」と「無自覚な隷属」


さて、ここまでざっと自分の体験を振り返って見たのですが、みなさんはこれを読まれて、どう感じられるでしょうか。ご自身の学生体験に重なるところがあったでしょうか。あるいは、まるで別世界のことのように感じられた方もいらっしゃるかもしれません。

ひとつ言えるのは、進学校というのは、「学歴レースに公私ともに深く没入させようとする力学」を持っているということです。
学校側は、最終的に有名・難関大学への進学実績を作るのが使命ですから、「ある程度以上のレベルの志望校を、なるべく多くターゲット圏内にできる人員」を養成しようとします。適性が偏っている生徒は、彼らにとっては不安因子ですから、矯正するべき対象となるのです。

「進学実績を作ることが使命」という点で言えば、進学塾とも似ているように思えますが、実際にはかなり違いがあります。
たとえば地元の公立学校に行きながら進学塾に行っているのであれば、「学校」と「塾」が別々の価値観で駆動しているコミュニティになりますが、進学校の場合は、学歴レースという価値観が、単一の日常そのものになってしまうのです。

また、塾であれば「相性が悪ければ別の塾へ移る」という判断もありえますが、進学校の場合、転校を考えるには「中学受験や学費にかけたサンクコスト」「内部進学という特権の放棄」という問題がついて回るため、とても敷居が高いのです。

そのため、適応できなかった子供には、非常につらい状況となります。
あたかも、大人が「仕事」という単一の世界にコミットするあまりに心を病んでしまうかのようです。同じ現象が子どもたちに起きやすい環境なのです。

大人であれば、そういった力学を察知して遠ざけたり、避けて通れるかもしれませんが、高校生や中学生、ましてや中学受験をめざす小学生の子供たちに、その判断をしろというのはあまりにも酷です。

しかも、この「学歴レースというイデオロギー」への入信というのは、事前のオリエンテーションもなく、その価値観へ身を捧げることを、暗黙のうちに強く求めてくるのです。



そうまでして欲しい「学歴」とは何か


このような考えをしていると、「学歴レースはイデオロギーだ。人間を改造しようとする社会は良くない」と結論を急いでしまいそうになります。でもいったん、客観的に考えてみましょう。

たとえば、「子供を進学校へ入れる」ことや、「少しでもハイレベルとされる大学を目指させる」ことは、世間的に悪とはみなされません。
むしろ、親が子供のことを深く思うがゆえの、愛情とか善意からくるものだと評価されるでしょう。親ガチャ論なら当たりとされる要素かもしれません。

では、そうまでして「学歴を手に入れることがよしとされる」のはなぜなのか。そもそも、ここでいう「学歴とは何なのか」について考えることが必要です。

本来的な意味を考えると、大学に入るということは、学問を修める目的なのですから、偏差値やネームバリューに惑わされることなく、学びたいジャンルや、教えを請いたい先生のいる大学を目指せば良いだけのことです。
しかし実際には、人々の関心は、その大学の偏差値やネームバリューの方に偏っています。人は「学問をどのくらい修めたか」にはあまり関心がなく、「ステータス」の方に強く惹かれるからです。

では、学歴をステータスとして見る意味はと言えば、それが社会における身分階級として機能すること、そして学閥という名の互助関係に浴せることにあります。

私は社会人となって以来、様々な人々と関わる中で、学歴がいかに名刺代わりに作用するか、学歴が人を見る際のフィルター、属性づけとして利用されるかを見てきました。
私たちは他人のことを理解するために、多かれ少なかれ、様々な属性を用いるわけですが、その中で大きなファクターとして機能するのが、学歴だというわけです。年齢、性別、人種、顔貌、服装や髪型などと同様に、相手がどのような人間かを測定するために、学歴が使われているのです。

つまり、社会における学歴の作用というのは、実際的には「人物評定のための要素」だと言うことが出来ます。



人は学歴によって何を評定するか


そもそも学歴社会の成り立ちとしてよく言われる説は、明治維新以降に日本が国民国家となるためにデザインされた、「新しい身分制度説」です。
門閥という封建的な身分制度を廃した代わりに、試験制度による学歴社会へと移行したのだというものです。これはおおよそ、肌感に合う理屈だと思います。
この説に乗っかれば、学歴社会は能力主義のようなふりをした、新たな身分階級だということができます。

東大や旧帝大を頂点とし、有名大や難関大を重宝し、偏差値なるもので格付けし、その下位の層をFランなどと呼んで蔑むような言説が機能していること自体が、それを裏付けています。
これは最近始まったことではなく、少なくとも日清・日露戦争後の日本は、このような新しい身分制度、すなわち学歴エリートによる強固な官僚機構によって前進してきた歴史がありました。そして、第二次大戦後もこの基本構造は維持されています。

そして、基本的には定説通り、労働力および兵士としての適性が重視されていることも分かります。
「兵士」になるために育てられた人材であれば、「企業戦士」に転用しやすいのは当たり前ですね。

以上のことをふまえれば、企業や官庁の採用担当者から見れば、学歴のもつ意味は、「一種の品質保証」だとする解釈が可能です。
ためしに品質保証書の体裁にしてみたら、次のようになることでしょう。

Aさんの品質保証書

・基本性能の保証

学校教育で科目化されている分野にかぎっては基礎理解しており、それらを記憶、蓄積できることを保証します。

・従順性の保証
他人の決めた枠組みに従順に適応し、組織論理に自分をあわせることを厭わない性質であることを保証します。

・汎用性の保証
突出した苦手分野がない、あるいは受験にさほど不利にならない程度の均質さを持っており、多くのジャンルに対応できるっぽいことを保証します。

・"育ち"の保証
門閥制の代わりとして、「育ちの良さ」を保証します。
育った家庭の社会階層、文化資本、経済状況、マナー、地道さ、忍耐強さなどを総称して「育ち」がよい部類であることを保証します。

このように、学歴には能力以外にも、人格や性質に「だいたいの見当」をつけるための機能が求められています。
私たちは、封建制社会の頃には「家柄」や「親の職業」で品定めされていたことを(少なくとも建前上は)廃止する代わりに、「学歴」に多くのことをまとめて求めているのです。

学歴レースを適切に勝ち抜けたということは、それ相応の基本性能や、リスク・リターンの戦術的視野を持っていることを保証します。
そして、そういうことを可能にする家庭環境で育っている可能性が高い、と信じられているのです。



学歴によって何が得られるか


学歴によって、世間的にさまざまな評価を得られることが分かりましたが、はたして人からの見られ方が変わるだけなのでしょうか。その人自身に実際的なメリットはもたらされるのでしょうか。

私の考えでは、平和な社会における最強の武器である「権威」が手に入るのです。

有名大学や偏差値が高い大学に行くべきだとする価値観は、すでに世の中に広く浸透しています。つまりそのイデオロギーに染まっている人が、すでにたくさんいる状況がお膳立てされています。
この環境下において、高学歴の人は、それをチラつかせるだけで権威をふるうことができます。

権威とは、実際的な「力」を使わなくても、他人に信頼や屈服をさせることのできる、見えない影響力のことを指します。

ここでいう実際的な「力」とは、暴力はもちろんですし、金にものを言わせたり、契約関係で束縛したりといった、「他人を動かすことを目的とした力」のことを指します。

権威をもつ人は、実際的な力に訴えるまでもなく、自分が上位であると「分からせ」たり、言っていることが正しそうだと「思わせ」たりすることができます。

この権威というのは、私たちが思っている以上に強く、便利です。
なぜなら、権威で他人を動かすのに比べ、実際的な力の行使によって他人を動かすというのは、露骨で、邪道で、下策、だからです。

たとえ法的にセーフであったとしても、力によって他人を動かすことは諸刃の剣です。
社会規範的に悪とみなされやすく、悪い評判を呼びます。
そして、結果的に相手を従わせたとしても、不満や恨みをあたえ、後々へのリスクを残してしまうのです。
その点、権威で人を動かせば、自分も相手も、さも当然のように、荒立てることなく物事を運ぶことが出来ます。

さらに厄介なことに、学歴は身分階級の代替であるがゆえに、同族意識もついてまわります。
東大や慶應義塾をはじめとする学閥の意識はもちろん存在しますし、「同じMARCHのよしみ」とか「同じ私立文系」みたいな、ちょっと奇妙な枠組みですら、同族意識を抱くかもしれません。

こういった同族意識を、コネだと言い換えてしまうのは簡単ですが、実際にはもうちょっと複雑です。
権威と同族意識には、おたがいを強化しあうシナジーがありますから、恐ろしい威力をもたらし、猛威をふるいます。
すなわち、エリートの誕生です。



エリートたちの視野狭窄


権威と同族意識。この二つを手に入れたエリートは、自動的にかなりの有利を持てることがお分かり頂けたと思います。しかし、このエリートという同族意識は、同時に彼らをそれ以外の多数から隔離してもいるのです。

たとえば、高学歴者の多くは、上場企業官公庁などへ就職します。日本の経済を語る時、彼らの視野にあるのはその世界でしかありません。

日本の経済状況を気にする人は、経団連と政府の動向を気にします。

現役世代の賃金が上がらないことを気にする人は、春闘の結果に注目します。

景気が良いか悪いかを判断するための指標は、日経平均株価です。

あいやしばらく、ちょっとお待ちを。
経団連に加盟している企業は、純資産額1億円以上の大企業です。
春闘で認識される企業別労働組合が影響できるのは、各産業の大手有名企業です。
日系平均株価指数は、日経新聞がセレクトした上場企業225社のみを対象としています。

しかしながら、日本人の大多数は、そのような指標には載らない中小企業に勤めたり、自営業をしているのです。
何かを考えようとするとき、自動的にこのような指標を参照してしまうことで、彼らの観測範囲にはそもそも、自分たちと同じ評価制度を通過してきた人種しか入らないようになっているのです。

インテリとされる方が「社会の分断」を憂慮している様はよく見かけます。
しかし、私たちがそれに傾聴するかどうかは、その方のいう「社会」がどの範囲を指しているのかを、まずは確認してからでないと、対話のスタートラインにも立てません。



学歴レースからの脱落者として生きること


以上のように、年月を経た私の目から見て、学歴には様々な効用や、それにまつわる力学が自動的についてまわることが分かります。

10代の自分をふり返るに、学歴レースの渦中にあって、ワケもわからず混乱し、自尊心を傷つけられ、結果ひきこもったことは、まあ当然の因果だと感じます。

当時の親や教師やまわりの大人たちが、それでも私を学歴レースから脱落させないように務めたことにも、一応の納得がいきます。エリート構造のどこかしらに、ただ所属することができさえすれば、大きなメリットに浴することができる。彼らはそう信じていたのでしょうから。

しかし一方で、彼らが本稿で分析したような解像度の理解をもって、私に学歴を勧めていたのか?と言えば、おそらく答えはNOでしょう。
なぜなら、当時の私に「それでも頑張れという理由」を、まともに説明してくれた大人はいなかったからです。
それなりに上手に学歴レースに乗って、それに依存できた立場から見ると、他の道はあまりにも五里霧中かのように見えてしまったのでしょう。

結果として、アリバイ的に獲得した四大卒の肩書は、私の人生においてメリットをもたらしていません。
私が前職で一定の立場に昇進できたプロセスにおいては、学歴を武器にしたことは、一度もありませんでした。あれはただ、親が「大卒の息子」という安心を買っただけのことだったのです。

10代のころに負った自尊心の傷は癒えたわけではなく、しかも仕事を通じて古傷が開き、結局は前職からもリタイアせねばならないほどに追い詰められた。これも一面の真実です。
そう思うと、子どものころの自分に、憐れみすらおぼえます。

そして今、このように批評や思想、著述活動をするにあたって、私は独学した知見を使って、日々考えています。
しかし、あまり学歴がないというハンディキャップは、その著述内容に説得力を与える材料が少ない、ということでもあります。
私がもし有名大学を卒業していたならば、ペンネームで活動するにしたって、きっと出身大学は明かすことでしょう。

不惑を迎えた私にとって、学歴はコンプレックスやルサンチマンの対象ですらなく、「あの世界で生きていくのは無理だったから、仕方ない」「当時の環境的に、仕方ない」という諦念でしかありません。
ただ虚しさと、当時の自分に「そんなに傷つくことはないぞ」と言ってあげたい思いだけがあるのです。



次回:親として、いかに学歴レースに対峙するか


以上のように、私の中での学歴をめぐる感情には、よかれ悪しかれ、決着がつきました。

しかし、人生はまだ続きます
私はふたたび、あの学歴レースに対峙しなければなりません

今度は親として、「わが子の教育」にどのように向き合うべきかを迫られているのです。
次回はこのことについて、思索をめぐらせてまいります。

<つづく>


関連書籍など

高学歴の親が子供にあたえる恐れのあるリスクについての新書。わが子に言うことを聞かせることより、信頼したい方へ。

エリート主義がもたらす無自覚な道徳的破綻についての理解を深めるために。

私などよりも、はるかに強烈な高学歴志向の世界観を面白く垣間見れる一冊。

高学歴だが発達特性により、求められているパフォーマンスを上げられなかった人々への取材。

出身校によって相手の人格を推量し、人間関係の形成方法などをティピカルに考えようとするおもしろ暴論。おすすめはしませんが、このような考えをする人がいることの勉強にはなります。


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