生活保護を受けていたら、それ以上「助けて」と言っていったらダメですか?
よし。内容は変えず、ゆう式の「呼吸」で改行だけ整える。
一文ごとにバラバラにはしない。意味のまとまりを残して、スマホで「すっ」と読める形にする。
こんばんは。ゆうです。
このnoteでは、毒親の虐待から生き延びた私が、双極性障害や解離性障害などの後遺症や、生活保護などの制度と向き合い、それでも「生きづらさからの回復」を積み重ねる日々を記録しています。
前回、ほしいものリストを公開することについての記事を書きました。
たくさんの反響を頂き、嬉しかったです!
▼今回はこの続きです。
もし、生活保護などの支援を受けているのに、それでも苦しくて、命を絶ちたくなってしまうくらい追い詰められている方に、届いてほしいです。
そして、そうでない方にも、幼少期の虐待が、成人後も長年に渡って与える後遺症の大きさを知るきっかけにしてもらえたら、嬉しいです。
「もう十分、助けてもらっている」
今年で、双極性障害と闘病して、7年目となりました。
そして、生活保護を受けて、5年目です。
生活保護は、健康で文化的な最低限度の生活を保障するための制度です。
もっと大変な人もいる。
必死に働いているのに、生活が楽にならない人もいる。
だから、私自身、
「もう十分、助けてもらっているじゃないか」
と思ってしまうことは、しょっちゅうです。
だから、Amazonのほしいものリストを公開することには、正直かなり迷いがありました。
「生活保護を受けているのに、さらに人から物をもらうの?」
「図々しい」
「恥を知らないのか」
そう思われるかもしれない。
批判されるかもしれない。
それでも、私は公開してみることにしました。
理由は、単純に「欲しいものがあるから」だけではありません。
生死に関わるほど、もっと深い意味がありました。
壊れたバケツに水が注がれてきた5年間
虐待の後遺症で、
精神疾患を抱えながら、
生活保護を受けて闘病する。
そのことを考えるとき、私は以前から、
「壊れたバケツに、水を注いでいるようなものなのではないか」
と思うことがあります。
心の傷などの、虐待の後遺症が、壊れたバケツ。
そして、注がれる水が、衣食住が保障される、生活保護。
これまで、私は、5年という月日をかけて、途方もない水が注がれてきました。
それなのに、生きていることが辛いです。
甘えていると言われるかもしれません。
しかも、医療費は無料です。
精神科も受診し、薬をもらって、毎日服用しています。
最近では、訪問看護を受ける手続きも始めました。
だから、
「もう十分だろ」
そう思われてしまうかもしれません。
しかし、生活が保障されていることと、生きたいと思えることは、別なのです。
虐待の後遺症そのものや、心の苦しさまでなくなるわけではありません。
特に、うつ状態になると、
「治療の先が見えない。」
「もう限界だ」
「一生寛解しないかもしれない」
「生活保護のまま死を迎えるのか」
そう絶望するときの方が多いのです。
バケツの穴は、外からは見えない
日本では、災害が起きたとき、多くの人が当たり前のように寄付をします。
困っている誰かを助けたい。
そんな気持ちは、きっと多くの人の中にあるのだと思います。
でも、それが生活保護を受けている人への支援となると、途端にハードルが高くなったり、複雑な感情が生まれたりする。
なぜなんだろう。
私は日々、精神障害と向き合う中で、
「目に見えない災害の中にいるようだ」
と感じることがあります。
災害なら、被害が目に見える。
だから、支援の必要性も比較的伝わりやすい。
でも、心や脳の病気によって生活が難しくなっている状態は、外からは見えにくい。
だから、
「生活保護なのに、欲しいものを人に買ってもらうの?」
「心が苦しいのなら、カウンセリングを受けたらいいのでは?」
そんなふうに思われることがあるのかもしれません。
そして、そう思われるのが怖いからこそ、世間に向けて「助けて」と言うことも難しくなるのではないかと感じています。
実は、この「見えなさ」を、私は子供の頃にも味わっていました。
私は幼少期から、親から性的虐待や身体的虐待を受けていました。
壮絶でした。
一方で、食べることや着るもの、寝る場所には困りませんでした。
両親は教育熱心でとても厳しく、TVもゲームも禁止でしたが、それでも振り返れば、
今、生活保護を受けているのと同じように、最低限の生活は保障されていた
のだと思います。
でも、その一方で、虐待を受けているときは本当に地獄でした。
なのに、外からは決して、地獄のような虐待が起こっている家庭だとは、誰も夢にも思っていなかったと思います。
わかりやすいアザや、目に見える傷ではなかったからです。
だから、誰にも**「助けて」**と言うことができず、
小学生高学年には「死にたい」と毎日願っていました。
衣食住が保障されていても、バケツそのものが壊れていれば、水はそこから漏れ続けるのです。
壊れたバケツに、必要なのは水だけなのか
砂漠のような環境で、水を必要としている人のために、水を渡すこと。
つまり、バケツに水を注ぐことは、命を救う行為です。
でも、バケツそのものが壊れていたら、そこから水は漏れていきます。
なのに、その壊れたバケツは、他人にはなかなか見えません。
だから、
「水さえ飲めない人がいるのに」
「バケツが壊れています」
と、誰かに言いにくいのです。
「ここを直すのを手伝ってください」
ということに、罪悪感があるのです。
そして私も、なかなか言えませんでした。
「助けて」の勇気が、バケツを直す力になる
助けを求めようとすると、
「もう水をもらっているんだから」
「これ以上お願いするのは申し訳ない」
そんな気持ちが出てきてしまうからです。
事実として、生活保護を受けていても、あるいは、他のどんな支援を受けても、
「助けて」と言えず、
自ら死を選んでしまう人もいます。
だから、私は、
「助けて」と言うことを、贅沢ではないよと言ってあげたいのです。
水をもらっている人でも、生活保護を受けている人でも、
「もう限界です」
「バケツが壊れています」
「困っています」
と伝える権利はあると思います。
どんな環境でも、「助けてください」と言っていい。
なぜなら、虐待や過労、DVなど、壊れたバケツで生きている人にとって、
「助けてください」という勇気が、壊れたバケツを修復する助けになる
と信じているからです。
そして、修復されたバケツが、本来受け取れるはずの水を受け取る力になる。
そう、信じているからです。
私にとって「ほしいものリスト」を通じて誰かとつながることは、単に物が届くこと以上の意味があります。
わざわざ貴重なお金と時間をかけてでも、
「誰かが自分を気にかけてくれている」
という実感が、虐待で損なわれた自尊心や愛着、つまりバケツの底を少しずつ埋めてくれるのです。
それを感じられるなら、手書きの温かいメッセージをつけたホッカイロが一枚。
それが毎日のように、自宅に届く。
それだけでも、十分なんです。
私は、これ以上、壊れた心を抱えて、もっと回復したい気持ちを我慢していたら、生きていけないと思いました。
むしろ、生活が保障されているからこその絶望感もありました。
だから、生きることを諦めそうになったとき、
「ほしいものリスト」を公開する勇気が、「助けて」と声をあげることを、許可する行為になるかもしれない。
そう思って公開しました。
たとえ保護費が減っても良いと思っていました。
なぜなら、本当にほしいものは、お金やものだけではなく、暖かな人との繋がりであり、それが前を向いて生きる力になっていくからです。
長くなりました。
生活保護を受けていても、ほしいものリストへの支援を得る。
そんな優しい世界があってもいい、そう思っています。
みなさんは、どう思いますか?
よかったら、率直な意見を聞かせてもらえたら嬉しいです。
もし、この記事が、私がこうやって声をあげることで、
「本当はバケツが壊れているのに」
「もう十分、支援をうけているんだから」
と、SOSを出せずにいた人へ、少しでも勇気を渡せたら、嬉しいです。
最後に
そしてもし、生活保護を受けるくらい困っているのに、申請を出せずにいる方がいたら、お伝えしたいことがあります。
「水際作戦を受けたらどうしよう」
「親にバレるのが怖い」
「私さえ我慢すればいい」
「もう、自分の人生なんてどうでもいい」
そう思ってしまっているかもしれません。
でも、本当に生活に困っているのなら、助けを求めることを許可してあげてください。
生活保護を受けることは、甘えでも、恥でもありません。
生活保護以外にも、さまざまな制度があります。
あなたの、その一歩が、壊れたバケツに気づいてもらうための、最初の一歩になるかもしれません。
私自身も、生活保護を受けながら、過去言えなかった分、まだ「助けて」と言う練習をしています。
だから、あなたにも言ってほしい。
そう願っています。
◇
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
いつもいいねやコメント、本当に本当に、励みになっています。
最近、そっとマガジンに追加くださる方もちらほらいて、本当に感謝です。
引き続き暑い日が続いているので、どうかご自愛くださいね。
ゆうでした。
