自己肯定感が深まるとき、私たちは凡庸な悪と向き合う
自己肯定感という言葉には、どこか明るさや前向きさがまとわりついている。
自分を信じること。
自分を肯定すること。
それ自体は大切だが、年を重ね、臨床や現実に長く身を置くほど、その言葉が少し軽く感じられる瞬間が増えてくる。
自己肯定感が「高まる」段階と、「深まる」段階は、どうやら同じではない。
深まる段階で人は、自信満々にはならない。
むしろ、強がらなくなる。
語気は静かになり、断定は減り、正しさを誇示しなくなる。
その代わりに、ある重さが生まれる。
その重さの正体の一つが、凡庸な悪と向き合うことなのだと思う。
ハンナ・アーレントが「凡庸な悪」という言葉で示したのは、特別な悪人の話ではなかった。
思考を停止し、役割に従い、「当たり前」を疑わなかった、普通の人の話だった。
ハイデガーの言葉を借りれば、それは世人(das Man)としての生である。
「みんながそうしている」
「そういうものだから」
「自分が決めたわけではない」
この生き方は、異常ではない。
むしろ私たちの日常そのものだ。
自己肯定感が浅い段階では、
・正しく振る舞っている
・役割を果たしている
・評価されている
という感覚が、そのまま「自分は大丈夫だ」という安心になる。
その安心は、とても心地よい。
同時に、とても危うい。
なぜならそこでは、
考えることが、自分の外に委ねられているからだ。
自己肯定感が深まる契機は、たいてい穏やかではない。
あるとき、人は気づいてしまう。
自分もまた、
・考えずに流されてしまう。
・善意のまま、人を傷つけうる。
・正しい側に立っているつもりで、何かを踏み潰してしまうかもしれない。
この気づきは、自尊心を高めてはくれない。
むしろ、幻滅に近い。
だが、それは破壊的な幻滅ではない。
自分や世界を切り捨てる幻滅でもない。
それは、
「自分は無垢ではなかった」と静かに分かってしまう体験だ。
ハイデガーは、人間の罪悪性(Schuld)を、道徳的な悪ではなく、
「自分で生きなかった可能性を、常に負っている存在」として捉えた。
凡庸な悪と向き合うとは、
自分の中にあるその可能性を、否認しないことだと思う。
ここで必要なのは、自己否定ではない。
ましてや自己免罪でもない。
必要なのは、
排除しない態度である。
肯定とは、
「それでも良しとする」ことではない。
是認でも、正当化でもない。
ただ、
・なかったことにしない
・切り捨てない
・自分の外に追い出さない
という、誠実さだ。
この誠実さを引き受けた人は、
もう「自分は大丈夫だ」とは簡単に言えなくなる。
しかし同時に、
「だから何も信じられない」とも言わない。
凡庸な悪と向き合った自己肯定感は、
冷笑にも、アキラメにも行かない。
代わりに、
考えることをやめない。
判断を委ねきらない。
自分の生を他人事にしない。
その姿は、目立たない。
語られにくい。
評価もしにくい。
けれど、どこかで人はそれを信頼する。
自己肯定感が深まるとは、
自分を好きになることではない。
自分を信じきれるようになることでもない。
それは、
自分の中にある凡庸さ、弱さ、思考停止の可能性を含んだまま、
それでも考え続ける存在として立つことだと思う。
強くはない。
明るくもない。
だが、嘘がない。
その静かな佇まいこそが、
深まった自己肯定感の、もっとも確かな徴なのではないだろうか。
