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世の中に挑む映画はいつも奔放なもの / 「ドリーマーズ」

2006年の映画「007/カジノ・ロワイヤル」でヴェスパーを演じて有名になった女優、エヴァ・グリーンのデビュー作は、意外にもベルトルッチ監督作である。ベルナルド・ベルトルッチ監督の2003年の映画「ドリーマーズ」の主役に抜擢されたエヴァは、家族や友人の反対を押し切って裸体を惜しげもなく曝し、その美貌によって一気に躍進の機会を得た。
ベルトルッチ監督は1987年の映画「ラストエンペラー」でアカデミー賞を総ナメにして以降、「シェルタリング・スカイ」からずっと、映画というメディアの可能性に挑戦していた。「ドリーマーズ」の前作に当たる1998年の「シャンドライの恋」は成功作と言えないものの、恋に至るまでの心模様をスクリーンに投影したいという意欲が伝わってくるものだった。出来事をそのまま映す、という従来の表現を脱する試みは、テレンス・マリック監督と共通するものだ。
さて、「ドリーマーズ」は、ヨーロッパの変革期にあたる頃を舞台にした実験作だ。1968年、五月革命の直前のパリで幕を開ける物語は、アメリカ人留学生マシュー(マイケル・ピット)が、イザベル(エヴァ・グリーン)とテオ(ルイ・ガレル)という奇妙な双子と放埒な関係を結ぶ様子を描いている。本作には原作となる小説が存在しているものの、要するにこれはジャン・ユスターシュ監督の1973年の映画「ママと娼婦」のリミックスと言ってもいい。

劇中では何度も、ジャン=リュック・ゴダール監督の映画「はなればなれに」をはじめ、多くの映画の一場面が挿入されている。また、実際の五月革命の映像も使用されている。つまり、実際の世界と、過去の映画と、本作が絡み合うように構成されている巧みな映画だ。スクリーンのなかに「何」を映しているのか、というフィクションの本質に迫るあたり、さすがベルトルッチ監督である。
このように、五月革命というヨーロッパにとって、また市民にとって重要な出来事のなかで、ベルトルッチ監督が何を感じていたのか、そしてまた五月革命の意義とは何だったのか、ということが映像によって表現されている。そこにベルトルッチ監督らしく、同性愛や奔放な性が添えられている。
革命とは語るものではなく身を投じなければならない、という劇中の台詞は、人生そのもののことでもある。五月革命のように、性の価値観を変えようとするならば、当事者はそれに身を投じなければならない、ということは、ベルトルッチ監督が「魅せられて」や「シャンドライの恋」などの映画を通して表現してきたことだ。
ノンクレジットでの出演を除き、本作で映画デビューを果たしたエヴァ・グリーンの堂々とした裸体は「ドリーマーズ」という作品にとって不可欠なものだった。裸がどうした、兄妹愛がどうした、同性愛がどうした、という姿勢が監督からも俳優たちからも伝わってくる作品であり、こういう「挑戦する映画」は実に良い。
近頃の映画に最も欠けているものは、世の規範に対する反抗だ。行儀の良い映画なんて退屈である。スポンサーと映画スタジオの言うことを聞き、ありきたりな量産型の(三幕構成の)脚本を有名な俳優によって味付けし、観客はそれらにありもしない意義を勝手に見出している。公開されるまでに大勢の人間が「チェック」している映画は、ただの商品である。新車と同じだ。
僕にとって、映画とはもっと野蛮かつ監督の個人的なものであってほしい。映画「ドリーマーズ」はそういうことを再確認させてくれる、ベルトルッチ監督の独白のような作品だ。真正という概念があるならば、それはきわめて個人的なもののはずである。

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