「最近の若者はすぐ辞める」と言い捨てる前に。歴史が証明する『正解の消滅』と、現代の病理について|哲学・思想|生き方|働き方|若者|転職|就職|


表面的な現象への問いかけ

「我慢が足りない」
「甘えだ」
とラベリングして簡単に片付けられるものではない。
そう思っています。

もっと広くて深いところに視点を向けてみると、
社会構造や人間の心理、組織論など
いろんなところから
ヒントが見えてくる。

歴史からわかる「生き方(正解)」の変遷

  • 戦前:国家神道(国に命を預ける正解)

  • 高度経済成長:終身雇用(会社に人生を預ける正解)

  • 共通点:「思考停止していても何かに依存していれば、幸せが保証された時代」だった。

    • 思考停止を悪く言いたいのではない。
      ただ人間は思考停止をして安心したい生き物である。
      ということを認識していただきたい。

ある種生きる意義・正解が過去にはあった。
しかしながら、時代の変化に連れて、
どんどんと多様性を受け入れる中でも
日本国は失われた30年といわれる
時代の中で過ごしてきて、
どの世代も混乱している。
それが現状ではないでしょうか?

天皇制父親が絶対という家庭内の義務的な
考え方も民主主義によって撤廃された時に
この様に世間体や国家にいい意味で正解を
与えられて抑圧されていた心が
迷走する様になった。

今や何が正解かもわからないし、
働くことだけが正解でもないし、
二元論で済むような話ではなくなってきている。
だから
混乱するのも必然ではないでしょうか?

「甘え」というラベルの裏側にある混乱

若者が「甘えている」と思う背景に
あくまでも私の仮説ですが、
それは「忍耐力の欠如」というよりも
自分の「現在地を失っている」のではないでしょうか?
かつては
高度経済成長で終身雇用が正解であり、
学歴社会や肩書きによる社会の
人間の在り方に価値を置いてきた社会。

それもいまや破綻しつつあります。
そうなると若者はどこに
自分の価値を見出せばいいのでしょう?

今の若者は社会に出る時に
いわば
「現在地の情報も与えられずに地図だけ渡され」
・明確なゴールはなく
・あっちの方向には行かないほうがいい
・こっちもやめておいがほうがいい
なんていう曖昧な地図を持たされている状態
なのではないでしょうか?

上の世代の方々の想い(仮説)

社会というシステムが
自分の心を押し殺して進むべき道を強要
してきたから、今の若者を見て
甘えているように見えてしまうのではないでしょうか?

そう考えると、上の世代の人たちもある種、
社会構造の被害者であると言えます。
しかしそこで、被害者意識を持って自分の怒りや
白黒と言った一色単の答えだけで、
終わらせてしまっていいのでしょうか?
断定や断言をして人格否定していいのでしょうか?
確かに甘ったれた若者もいますし、
礼儀すらなっていない人もたくさんいます。
その人たちは例外としても、
ひとくくりに片付けられるほど単純なことじゃない。
ということは認識いただけると思います。

人間の性(さが)

人間とは歴史をみてみても、
過去の成功体験や
過去の辛い体験を
少し捏造して盛って話すことがあります。
しかもそれは無意識下で、
あとで振り返ってみた時に
「あれ?話盛っちゃったかも?」
なんて思ったりもします。
でもそれは本能なんです。

もはや
・思考停止
・過信、慢心
・ラベリング
は本能です。脳がエネルギーをたくさん使うから
生存戦略としてあまり頭使わないようにって。

人間が一番恐れるものは何かというと、
自分の存在価値がなくなることを一番に恐れます。

だからこそ歳をとるほどに
考え方が固執していき、
今まで生きた人生が正解でないと
過去の自分が空虚に感じてしまう。
それゆえに無意識の領域でその脅威を
避けるように、物語や経験の捏造をして
自分の価値を上げようとしてしまう。

日本文化と哲学

日本は宗教というものがあまりありません。
生まれながらにして宗教に入信している人は
少数派に当たると思います。

日本がうまくいっていた時代はある程度
正解がありました。
・天皇制
・父親絶対主義
・国家神道
・終身雇用
・学歴社会

生まれなどが異なっていても、
ある程度の正解らしき方向性があったともいえます。

でも時代の変化が早すぎて、学歴があっても
幸せになれなかった人も多くいるのだと思います。

今まで勉強を死ぬ気で頑張って食らいついてきたのに、
なぜ、コレだけの学歴を持っても、
社会や会社は認めてくれないのか。
そう思ったら、
「じゃぁ、私の価値って何?」
と迷う。

日本は家庭内に哲学があることが少なく
正解は外の世界にあることを教え込んでしまう。
生きてるだけで価値があるなんて抽象的な
言葉に責任が取れないことも起因してそう。

被害者意識でいること

日本人はしばしば被害者意識の考え方が
多く存在していると私は実感しています。

被害者であることはとても楽です。
社会のせいだ、あいつのせいだ、
あれは運が悪かったんだ。
そうやって事実を隠したり
美化したりできる。
いわば考えなくてもいい理由を前提に
置いていることと同義である様に思える。

本当の甘えはここにあると思う。
自分は被害者だからって
目下の人や子供に
怒りをぶつけてもいいのでしょうか?
自分の処理しきれない感情を
他人や物に当たることで解消していいのでしょうか?

私は断固としてダメだと思います。
厳しいことを言う様ですが、
単純で勝手な情報だけで断定し
相手を罰したりして、
罵声を浴びせたりする人を見てて思います
甘ったれるな!と。

データを持ってきたとしても
そのデータの背景に何があるのかも想像もしないで
こう言う傾向が出ているから
結論はこうですって。
なぜ、言い切れるのでしょうか?
傾向が取れたのはなぜなのか?
そこを追求しないと
考えることをやめることになる。

しかし
考えるのをやめてしまうのが人間である以上
もう受け入れるしかないんじゃないかな。
ってそう思う。

受け入れた途端に、
逆に考えられるようにもなる。
感情の衝動が起こる前に、
「これでいいのかな?」
「欠乏感に支配されていないか?」
「この意見は妥当か?」
など自然と考えられる余裕が生まれる。

思いやりと愛

思いやりと愛があれば
全てを制することができると私は信じています

相手の心は読めないし、
時に「えっ?!」と思ってしまう
言動をとることもある。
しかし、その背景を
理解まではできないことを前提として
想像し思考することだけは辞めない
それが人間に与えられた理性という名の
尊い行為なのだと私は思う。

距離を取るのもある意味の愛であると思う。
なぜなら、その人と合わないと思うのであれば、
本当にお互いが合わない可能性が大きいから。
だから
あなたの人生を邪魔しないでおくね。
って期待を手放すのも思いやりだと思う。

まとめ

理性は本能に勝る。
理性が勝るからこそ、
人間関係が良くなる。
人間関係が良くなるから気分も良くなる。
気分が良くなるから人に優しくできる
人に優しくできるから小さな幸せに気づける。
だから
いいチーム(家族・プロジェクト・友達)ができる。
のではないでしょうか?

今社会の病理は己の価値を見出せないこと以前に
そのもっと深くの社会構造や
人間の真理からきているのだとしたら、
あなたはどうしますか?
何を思考しますか?
どう考えて、何を想像し
自分なりの答えを見つけたいですか?
その捜す姿勢こそが人間の最も尊い価値
なのではないでしょうか?

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