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【百葉箱の神様】第一章 転校

窓の外を、知らない色の空が流れていく。
 
哲也は新幹線の座席にすわったまま、ひざの上に置いた手をじっと見つめていた。気仙沼の強い海風に吹かれてうっすらと日焼けした頬も、おじいちゃんの船を手伝って少しがっしりとした体つきも、ここではなんだか場違いな気がした。
 
「哲也、着いたら、ちゃんと挨拶するんだぞ」
(うん、分がった)
 
声には出さず、心の中でだけうなずいた。
口を開けば、あの気仙沼の言葉が出てしまう。
 
「おら」じゃない。「ぼく」だ。
「~だべ」じゃない。「~だよ」と言わなくちゃいけない。
 
早くこちらの言葉――「標準語」に直さなくちゃいけない。変に思われないように、ちゃんとした言葉で話せるようにならなくちゃ。
そう自分に言い聞かせるたび、胸の奥がキュッとちぢこまるようだった。
 
大阪の小学校に転校する。お父さんの仕事の都合で、突然決まったことだった。哲也は気仙沼で生まれ、気仙沼で育った。海を見て育ち、雪の降るしずかな音を知っていた。友達の顔も、通学路の坂道も、全部体に染みついている。それなのに、来週にはもう、知らない教室で、知らない顔に囲まれてすわることになる。
 
新しい学校で、うまくやれるだろうか。
その不安は、初日の朝、教壇に立たされた瞬間に、あっけなく現実になった。
 
「今日から転校してきました、阿部哲也くんです。仲良くしてあげてください」
 
五年二組の担任の先生に促されて、哲也は何度も頭の中で練習してきた挨拶を、ゆっくりと口にした。標準語で、ていねいに。
 
「気仙沼がら来ました。阿部哲也です。よろしくお願いすます」
 
一瞬のしずけさのあと、教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。
 
「今の、なんて言った?」
「『がら』来ましたって言うたで」
「よろしくおねがい『すます』、やて。すますって何やねん」
 
誰かがおどけた調子で真似をすると、笑い声は一気に教室全体へと広がった。
哲也は耳の裏がカッと熱くなるのを感じた。心臓がドクドクと激しく鳴り、喉の奥がぎゅっとちぢまる。あんなに練習したのに、肝心なところで訛りが出てしまった。
 
「もっかい言うてみ、もっかい!」
 
向けられたみんなの視線が怖くなって、哲也は何か言い直さなければ、とあせって口を開いた。
 
「お、おらさ……あ、ぼ、ぼくは、大阪さ来だのは、初めでで……」
 
言い直そうとすればするほど、言葉がもつれていく。教室の笑い声は、むしろさらに大きくなった。
 
「今、自分で言い直したで!」
「『おらさ』って何なん。おもろすぎるやろ」
 
自分の言葉が、直そうとすればするほど、余計に変なものになっていく。舌の付け根に、重い鉛がのっかっているみたいだった。何を話しても、どう言い直しても、ここでは『おかしなもの』にされてしまう。
 
哲也は口を固くつぐみ、それ以上は何も言わずに、指定された席に向かって歩いた。

最初に前に立ちはだかったのは、渡辺勇大という、体の大きな男子だった。
五年生とは思えないほど、まわりの男子より頭一つ分背が高く、短いツンツン頭をした勇大が、ニヤニヤと顔を覗き込んでくる。

「なあ阿部、もっかい自己紹介の時の言い方やってみぃや」

周りのみんなも、楽しそうに哲也を見つめていた。哲也は机の上に置いた自分の筆箱をじっと見つめたまま、じっと動かなかった。
 
「なんや、無視か? さっきまで喋っとったやんけ」
 
勇大が哲也の机の端を、ガツンと軽く小突く。その軽い衝撃に、哲也はびくっと肩を揺らした。周りからどっと笑いが起きる。自分の言葉だけじゃなく、自分の机さえも、もう自分のものではなくなっていくみたいで怖かった。

転校して数日が過ぎたころから、小さな嫌がらせが始まった。

授業中、消しゴムが見当たらないことに気づいた。
机の中も筆箱の中も探したが、どこにもない。

顔を上げると、勇大がニヤニヤとこちらを見ていた。その隣では中村敏志も笑っていたが、どこか無理に笑っているようにも見えた。

『まさか……。』

胸の奥がざわついた。

「返して。」

その一言が言えなかった。
また訛りを笑われるかもしれない。
そう思うと、言葉は喉の奥で止まってしまう。

放課後、帰る支度をしていると、くしゃくしゃになった消しゴムが椅子の下から見つかった。

体育の授業の日。
 
「ねえ、阿部くん、体操服は?」
 
ロッカーを開けた哲也は、思わず息をのんだ。
入れておいたはずの体操服の袋がない。
ロッカーの中を何度も見返し、机の中ものぞいてみる。
どこにもなかった。
 
顔を上げると、少し離れた席で、一人の女子が頬杖をついてこちらを見ていた。
 
いつもきれいに編み込まれた長い髪を揺らしながら、その女子――緒方美帆は、口元にうっすら笑みを浮かべている。
その隣では、勇大がニヤリと笑っていた。
 
『まさか……。』
 
胸の奥がざわついた。
それでも、何も言えなかった。
 
「阿部、何してる。早く着替えろ。」
 
先生の声に、哲也は小さくうつむいた。
 
「……忘れました。」
 
嘘だった。
 
本当のことを言えば、もっとひどいことになる。
そんな気がして、言葉を飲み込んだ。
 
体育の時間、哲也だけが私服のまま体育館の隅に立っていた。
ドッジボールをするみんなの声が、体育館いっぱいに響く。
 
「ほら、やっぱり目立つなぁ」
 
美帆が隣の女子に耳打ちすると、二人は顔を見合わせてくすりと笑った。
 
哲也は床の木目を見つめたまま、ぎゅっと拳を握る。
 
(お父さんには言えねぇ……。)
 
毎日遅くまで働いて、疲れた顔で帰ってくるお父さん。
やっと始まった新しい仕事なのに、これ以上心配をかけたくなかった。
 
哲也はただ、この時間が早く終わることだけを願っていた。
 
体操服は二日後、体育館裏で見つかった。
泥だらけになった袋を受け取った哲也は、何も言わずに土を払った。
 
雨上がりの月曜日。哲也の上履きがなくなった。
 
昇降口で下駄箱を開けた瞬間、哲也は固まった。
金曜日に確かにここに置いたはずの上履きが、綺麗に消えていた。
 
「どうしたん、阿部くん。上履きは?」
 
通りかかった担任の先生が、哲也の足元を見て声をかけた。
近くでは、勇大と敏志がこそこそと笑い合っているのが見える。
「無くしました」と哲也がうつむくと、先生はため息をついた。
 
「しゃあないな。職員室に古いサンダルあるから、今日一日はそれ履いとき。次はちゃんと持ってきなさいよ」
 
先生が貸してくれたのは、だれのものかも分からない、緑色の大きなプラスチックのサンダルだった。
歩くたびに「ペタ、ペタ」と音が響く。クラスの男子がそれを見て、「便所サンダルや」と笑った。
その日一日、哲也はそのサンダルをはいて過ごした。

サイズの合わないサンダルは、歩くたびにぶかぶかと音を立てた。
廊下ですれ違うたび、みんなが自分の足元を見ているような気がした。
哲也はうつむいたまま歩いた。
 
昼休み、耐えきれなくなった哲也はトイレの個室に逃げこみ、内側からカギをかけた。
狭い個室で、ひざを抱えてしゃがみこんだ。

誰にも会いたくなかった。
泣いている顔だけじゃない。
何でもないふりをしている顔も、見られたくなかった。
 
放課後になっても、上履きは見つからなかった。
 
哲也は先生にサンダルを返し、靴下のまま昇降口へと向かった。下駄箱から自分の外履きのスニーカーを取り出す。
 
(このまま履いたら、靴下の汚れでお父さんにバレちゃうな……)
 
真っ黒に汚れた靴下のままスニーカーを履けば、中の白い布まで汚れてしまう。お父さんに「どうしてこんなに汚れてるんだ?」と聞かれたら、言い訳ができない。「いじめられている」なんて、絶対に言いたくなかった。
 
哲也はスニーカーを手に持ったまま、靴下の足で冷たい地面を踏み、外の水道へと向かった。
蛇口をひねると、つめたい水が勢いよく飛び散った。
 
そっと足を洗い流す。水は氷のように冷たくて、濡れたかかとに小さな砂利がチクリと刺さった。
痛い。でも、この痛みをがまんして、汚れをきれいに落とせば、お父さんには気づかれない。心配させずに済むんだ。

哲也は奥歯をぎゅっとかみしめた。
何度も何度も靴下を洗う。


〔続く〕

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