見出し画像

【百葉箱の神様】第五章 地図の中の町

小林由佳は、哲也が転校してきた日のことを、今でもよく覚えている。

自己紹介で聞き慣れない訛りを話したとたん、教室に笑いが広がった。
でも、由佳だけは笑えなかった。
とても、人ごととは思えなかったからだ。

じつは由佳も、それまで勇大たちにからかわれることが多かった。
忘れ物が多いこと。
体育が苦手なこと。
そんな小さな理由で笑われては、教室の空気に合わせて、自分まで笑うしかなかった。

けれど、哲也が転校してきてから、勇大たちの目は少しずつ哲也へ向くようになった。

(よかった。もう、からかわれなくて済むんだ)

そう思った。

だけど、そのたびに胸の奥がチクリと痛んだ。
自分の代わりに、別の誰かが笑われている。
そう思うと、素直に安心することができなかった。

何度も声をかけようと思った。
でも、できなかった。
もし哲也と話しているところを見られたら、今度は自分がまた笑われるかもしれない。
そう思うと、一歩が踏み出せなかった。

「由佳ちゃん、また忘れ物? アホちゃうか」

美帆は笑いながら言う。
大きな声ではない。
先生にも聞こえないくらいの、小さな声だった。

だけど、その一言は、細いトゲのように胸へ刺さる。
由佳は毎日、教室の空気をうかがいながら過ごしていた。
目立たないように。
勇大たちに見つからないように。

だから、本当は――。
哲也を助ける余裕なんて、どこにもなかった。
 
ある日の昼休み。

由佳は一人、静かな図書室にいた。
大きな日本地図の本を広げ、ページをめくっていく。
ふと、東北地方の、細かく入り組んだ海岸が目に留まった。

リアス式海岸。

その複雑な海岸線の中に、小さく「気仙沼(けせんぬま)」という文字があった。

(ここが、阿部くんの生まれた町なんだ……)

由佳はその文字を、しばらく見つめていた。
そのときだった。

カサリ。

隣の書架から、小さな音がした。
振り向くと、そこに哲也が立っていた。
返却する本を胸に抱えたまま、気まずそうに足を止めている。
由佳と目が合うと、あわてて本を抱え直した。

「……ごめん。のぞくつもりはなかってんけど」

由佳が小さく言うと、哲也はふるふると首を振った。
そして、そのまま立ち去ろうとする。
由佳は、その背中を見つめた。

(今なら……。)

胸がドキドキする。
もし話しかけたら、また自分が笑われるかもしれない。
そう思うと、声が出なくなる。

それでも。

「気仙沼って、ここ?」

気づけば、地図の上を指さしていた。
 
哲也の足が止まる。
ゆっくり振り返り、由佳の指先を見る。

「……うん」

「リアス式海岸なんやね。ギザギザしてる。」

「んだ……あ、うん、そう。」

聞き慣れない返事に、由佳は少しだけ首をかしげた。
でも、何も聞かなかった。
地図を見つめたまま、話を続ける。

「うち、旅行が好きで、いろんな所へ行ったことあるんやけど、東北だけは、まだ一回も行ったことないねん。」

「海、近いの?」

「近い。」

哲也は少しだけ笑った。

「窓開けたら、しょっぱい匂いすんだ。……あ、する。」

「へえ。いいなぁ。」

由佳も思わず笑った。

「魚もおいしそう。」

「んだ……うん。カツオとか、サンマとか。」

故郷の話をする哲也の声は、いつもと少し違っていた。
固く閉じていた心が、ほんの少しだけ開いたような、あたたかい声だった。

由佳はうれしかった。
 
だけど同時に、図書室の入り口が気になった。
だれかに見られていないだろうか。
勇大たちが来たらどうしよう。
そんなことばかり考えてしまう。

それでも、不思議と、この時間は終わってほしくなかった。

その日は、それだけ話して二人は別れた。

翌日の昼休み。

由佳はまた図書室へ来ていた。
同じ地図の本を開きながら、ページをめくる。
哲也が来るかどうかは分からない。
それでも由佳は、心のどこかで待っていた。

故郷の話をするときだけ少しやわらかくなる、あの声を。
 

その日の放課後。

校庭のすみの百葉箱の前で、哲也はいつものように記録を終えると、小さくつぶやいた。

「今日、図書室で由佳ちゃんと、地図見だ」

その声は、いつもより少しだけやわらかかった。

「気仙沼のこと、聞いでくれで……。言葉、変になっても、由佳ちゃん、笑わねがった(笑わなかった)」

哲也は少し黙り込み、夕焼けに染まる空を見上げた。

そして、ぽつりと言った。

「誰かに、地元の話、できだの、久しぶりだ」

百葉箱の中で、テムは身じろぎもせず、その声を聞いていた。
あの重く沈んでいた響きが、少しだけやわらいでいる。
凍りついていた心が、ほんの少しだけほどけ始めている。
そんな気がした。

テムには、由佳という少女が、この先どんな存在になっていくのかは分からなかった。
でも、一つだけ分かることがあった。
哲也が、あんな声で故郷の話をできたのは、自分一人の力ではなかった。

夜の学校を何度走り回っても。
なくした物を何度見つけても。
哲也の心までは、変えられなかった。

(ぼくだけじゃ、足りなかったんだ……)

その言葉は、不思議と悔しくはなかった。
百葉箱の暗闇で、テムはそっと目を閉じた。
哲也に、自分以外の味方ができた。
そのことが、ただ、うれしかった。
 
だけど、その胸の奥を、ほんの少しだけ、小さな風が吹き抜けた。
それは寂しさによく似ていた。

〔続く〕

いいなと思ったら応援しよう!