【百葉箱の神様】第二章 百葉箱
上履きは、つぎの日も、そのつぎの日も、見つからないままだった。
哲也はだれにも聞かず、だれにも探してほしいと言わなかった。
毎日、先生に借りたみどり色のサンダルをペタペタと鳴らしながら、教室と体育館を行き来した。
その週の学級会でのことだった。
二週間ごとに交代する「気温係」を決めることになった。
夕方に、校庭のすみにぽつんと立つ百葉箱(ひゃくようばこ)を開け、中の温度計を記録する地味な役目だった。
「だれか、やりたい人はいませんか?」
先生の声に、教室はしんと静まり返った。
だれも手を挙げない。
めんどうな役目だと、みんな知っているからだ。
沈黙が続いたそのとき、緒方美帆が思いついたように口を開いた。
「阿部くんとか、いいんちゃいます?」
美帆の声は明るく、ただの提案のように聞こえた。
けれど、美帆は一度も哲也を見なかった。
先生に笑いかけたままだった。
「あ、それええな。」
勇大がニヤニヤしながら言った。
「阿部、お前ならヒマやし、ぴったりやろ?」
その隣では、細いフレームのメガネをかけた敏志が、少し遅れて小さくうなずいた。
だれも哲也の返事なんて待たなかった。
先生も、それが悪意からの押しつけだとは気づかず、
「じゃあ阿部くん、お願いね」
と、あっさり決めてしまった。
哲也は何も言わなかった。
机の上に置いた自分の手を見つめ、小さくうつむいた。
放課後、哲也は初めて、一人で校庭のすみの百葉箱に向かった。
だれの手も借りず、だれにも見られず、ただ数字を記録するだけの仕事。
押しつけられた役目のはずだった。
だけど、白いよろい戸の扉をパカリと開け、中の温度計に目を落とした瞬間、哲也はふと思った。
(あ……ここなら、だれも何も言ってこねぇな)
教室にいるときのような、息苦しい視線はなかった。
「二十六度」
記録用紙に鉛筆で数字を書き込み、ふと百葉箱の横の植え込みに目をやった。
「あっ……」
なくしたはずの上履きが、そこに落ちていた。
だれかが投げ捨てたのだろう。
泥で汚れ、黒い靴あとがいくつも残っている。
哲也はゆっくりと拾い上げ、しばらく見つめていた。
胸の奥が、ぎゅっと苦しくなる。
「お、おらさ……あ、ぼ、ぼくは……何でだべ」
口を開くと、言葉がぐちゃぐちゃになった。
もう、言い直す気力もなかった。
「方言、しゃべってるだけなのに……」
声が震える。
「アイツらだって、関西弁しゃべってっべ(話しているだろう)。おんなじだっべ!(おんなじだろう!)」
気仙沼弁も、標準語も、うまく口から出てこない。
自分がどっちの言葉で話しているのか、哲也にももう分からなかった。
その様子を、百葉箱の羽根板のすきまから、じっと見つめている小さな影があった。
小人のテムだ。
だれにも見つからないよう、いつものように息をひそめて隠れていた。
テムは、泣くのをこらえる少年の背中に、あの夜、木の陰で震えていた自分の姿を重ねていた。
一人ぼっちで、だれにも届かない言葉を抱えたまま、立ち尽くすことしかできなかった自分。
親友を助けられなかった、あの夜の自分だ。
少年の震える背中が、あまりにもあのときの自分に似ていて――。
気づけば、喉の奥から声が漏れていた。
「あッ」
次の瞬間、テムの体はカチンと凍りついた。
心臓が痛いほど跳ね上がる。
(声を……出してしまった。また、掟を破りかけた……!)
あわてて両手で口をふさぎ、身を縮める。
もし今、哲也がこちらを振り返ったら、自分は溶けるように消えてしまう。
だけど、哲也は振り返らなかった。
夕方の風の音にかき消されたのか。
それとも、自分の涙で精いっぱいだったのか。
哲也は上履きを胸に抱えたまま、うつむいていた。
テムは羽根板のすきまから、そっと様子をうかがった。
(気づかれていない……)
音のしないため息が、ほっと胸からこぼれる。
だけど、その胸はすぐにチクリと痛んだ。
(ぼくは、ちっともこりていない。あのときと、おなじじゃないか)
声を出すことが、どれほど恐ろしいことか。
忘れるはずのない掟を、またこんなにも簡単に破りそうになった。
それでも――。
テムは少年から目を離すことができなかった。
哲也は上履きを抱えたまま、しばらくその場に立っていた。
だれもいない校庭を、夕方の風だけが吹き抜けていく。
やがて哲也は、小さく鼻をすすると、記録用紙をカバンにしまった。
そして、目の前の百葉箱へ向かって、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございました」
だれに向けた言葉なのか、哲也自身にも分からなかった。
それでも、この白い箱の前だけは、静かに息をつける場所だった。
だから、ありがとうと言いたかった。
哲也は上履きをカバンにしまい、校門へ向かって歩き出した。
押しつけられたはずの役目。
それなのに、百葉箱の扉を開けるこの時間だけが、哲也にとって一日の中で、ほっと息をつける特別な時間になっていた。
百葉箱の中でテムは、その初めての「ありがとうございました」を、いつまでも胸の奥で大切に抱いていた。
〔続く〕
