【百葉箱の神様】第六章 届かないところ
由佳と言葉を交わすようになってから、哲也の中に、小さな変化が生まれ始めていた。
昼休みになると、図書室で会うことが少しずつ増えた。
地図帳を広げて、由佳が旅先で見た町の話をしたり、まだ行ったことのない気仙沼のことを聞いたりする。
そんな時間だけは、哲也も肩の力を抜くことができた。
言葉が少しくらい訛っても、由佳は笑わなかった。
それが、うれしかった。
それでも、教室では違った。
由佳と話すときでさえ、まわりの視線が気になった。
笑われるかもしれない。
からかわれるかもしれない。
その怖さは、まだ消えてはいなかった。
ある日の昼休みだった。
「由佳ちゃん、また忘れ物?」
美帆の少し高い声が、教室に響いた。
「ほんまだらしないなあ。何回目なん?」
長く編み込んだ髪を指でくるくるといじりながら、美帆は笑う。
まわりにいた何人かも、その声につられて笑った。
由佳は少し長めの前髪の向こうで、床を見つめたまま何も言わない。
いつものことだった。
言い返せば、もっと笑われる。
だから黙ってやり過ごす。
そうするしかないことを、由佳はもう知っていた。
「まあ、しゃあないよなあ。」
美帆は笑みを浮かべたまま続ける。
「由佳ちゃん、ちょっとアホやから抜けとるもんな。」
その言葉が教室に落ちた。
哲也の胸が、ドクンと鳴った。
由佳がうつむいたまま、小さく肩をすくめる。
その姿が、自分と重なった。
転校してきた日のこと。
笑われたこと。
言い返せなかったこと。
百葉箱で泣いたこと。
いろいろな思いが、一度に胸へあふれた。
気づけば、口が動いていた。
「そんなこと、言わなくても、いいんでねぇが!」
教室が、しんと静まり返った。
美帆が目を丸くして哲也を見る。
「何なん、阿部くん。関係ないやん。」
哲也は大きく息をのみ込んだ。
喉がからからだった。
それでも目をそらさなかった。
「関係ある。」
声は震えていた。
「……由佳ちゃん、いつも、優しくしてくれる。」
一度、言葉が止まる。
「それを……そったらふうに笑うのは、おかしいと思う。」
教室は静まり返ったままだった。
哲也は、自分でも驚いていた。
みんなの前で、こんなふうに言い返したのは、転校してきてから初めてだった。
美帆はしばらく哲也を見つめていた。
やがて肩をすくめると、ふっと笑った。
「はいはい、分かった、分かった。」
そして、少し意地悪そうな笑みを浮かべる。
「阿部くん、由佳ちゃんのこと好きなんやろ。」
その一言で、教室中に笑い声が広がった。
からかいの矢印は、今度は二人へ向いた。
哲也は耳まで熱くなるのを感じた。
それでも、不思議と後悔はしていなかった。
笑い声が少しずつ遠のいていく。
その中で。
「……ありがとう。」
うつむいたままの由佳が、小さくつぶやいた。
その声は、哲也にしか聞こえないくらい小さかった。
それでも、その一言は、ちゃんと哲也の胸へ届いた
けれど、その日を境に、勇大たちのからかいは、二人まとめて向けられるようになった。
「阿部と由佳、付き合っとるんちゃうん」
笑い声が教室に広がる。
からかいの言葉は変わっても、悪意は少しも変わらなかった。
むしろ、二人一緒に笑われるようになってからは、教室にいるだけで息がつまるようだった。
美帆も、あの日、哲也に言い返されたことを忘れてはいなかった。
以前よりも冷たい目で、二人を見るようになった。
「阿部くんと由佳ちゃん、ほんま仲良しやなあ」
笑っている。
それなのに、その言葉は冷たかった。
由佳は、不安そうな目で一度だけ哲也を見た。
そして、小さく目を伏せると、そのまま一人で教室を出ていった。
哲也は、その背中を見送ることしかできなかった。
その日の放課後。
百葉箱の前で、哲也はいつもより長く立ち尽くしていた。
記録を書き終えても、なかなか口を開かなかった。
やがて、小さくつぶやく。
「今日、由佳ちゃんに……あんまり話しかけね方(かけない方)が、いいがもって思った」
風が吹き、百葉箱の羽根板が小さく鳴った。
「おらのせいで、由佳ちゃんまで、なんか言われだら……」
少し間があく。
「それは、嫌だ」
百葉箱の中で、テムは静かにその言葉を聞いていた。
哲也は、自分が傷つくことよりも、由佳が傷つくことを苦しんでいる。
その優しさが、テムには痛いほど伝わってきた。
だけど、その優しさはまた、自分の心を閉ざそうとする優しさでもあった。
テムは、小さくうつむいた。
由佳と哲也の間にできた、この見えない距離を、自分にはどうすることもできない。
なくした物なら探せる。
隠された物なら戻せる。
でも、人と人との間にできた距離は、どうやって縮めればいいのか分からなかった。
(ぼくは……)
小さな手が震える。
(ぼくは、なんて無力なんだ)
その夜、テムは百葉箱の中で、小さな茶色のキャスケット帽を胸に抱いたまま、眠ることもできずに朝を迎えた。
それからしばらくの間、哲也と由佳は、前のように話さなくなった。
それでも、廊下ですれ違えば、小さく頭を下げ合う。
たった、それだけだった。
それでも哲也には、その小さな会釈が、暗い毎日の中で見つけた、小さな灯のように思えた。
一方で、勇大たちのからかいも、少しずつ形を変えていった。
体操服や上履きを隠すようなことは、いつしかなくなっていた。
代わりに増えたのは、小さな笑い声だった。
哲也が発表しようとすると聞こえる、クスクスという笑い。
廊下ですれ違うときの、小さなささやき声。
聞こえるような、聞こえないような悪口。
そのことを、哲也は百葉箱へ来るたび、ぽつり、ぽつりと話した。
テムは、ただ黙って聞くことしかできなかった。
形のある物なら動かせる。
だけど、人の心には、どうしても手が届かない。
そのことを思い知るたび、テムは、自分の無力さを静かにかみしめることしかできなかった。
それから何日かたった朝、テレビでも学校でも、『大型の台風』が近づいているという話でもちきりになった。
「今度の台風、結構大きいらしい」
放課後、百葉箱の前で、哲也がぽつりとつぶやいた。
「気仙沼でも、台風のあと、川が増水するの、何回か見だごとある。……危ねぇんだ、あれ」
その声には、天気の話だけではない、遠い故郷を思い出すような響きが混じっていた。
百葉箱の中で、テムは静かに耳をすませていた。
外では、風が少しずつ強くなっている。
校庭の木々が枝を大きく揺らし、葉と葉がこすれ合う音が、ザワザワと空を渡っていった。
テムは小さく身を縮めた。
(なんだろう……)
胸の奥が落ち着かない。
理由は分からない。
それでも、この風はいつもと違う。
そんな気がしてならなかった。
テムは、自分の小さな手を見つめた。
色鉛筆も。
体操服も。
傘も。
見つけて、戻した。
それでも――。
哲也の苦しそうな顔が、頭から離れない。
テムは、小さな手をぎゅっと握りしめた。
(ぼくに……)
風が、百葉箱を小さく揺らした。
(ぼくに、できることは、ないのかな……)
答えは返ってこない。
ヒュウ、と風だけが、百葉箱のすき間を吹き抜けていった。
やがて、「気温係」が交代する日がやってきた。
哲也は最後の記録をつけると、いつもより丁寧に温度計を見つめ、ノートへ数字を書き写した。
これで係の仕事は終わりだった。
けれど、その次の日の放課後も、哲也の足は自然と百葉箱へ向かっていた。
もう係ではない。
だれに頼まれたわけでもない。
それでも、この白い箱の前に立たなければ、一日が終わらない気がした。
新しく気温係になった子は、記録を終えると、足早に帰っていく。
その姿を少し離れた場所から見送り、校庭にだれもいなくなると、哲也はそっと百葉箱へ歩み寄った。
「今日はな……」
その声を聞いて、テムはそっと笑みを浮かべた。
もう気温係ではない。
それでも哲也は、毎日ここへ来てくれる。
百葉箱は、哲也にとって、一日の出来事を安心して話せる、たった一つの場所になっていた。
そしてテムにとっても、その時間は、何より待ち遠しい時間になっていた。
今日も、哲也が来てくれた。
そのことが、ただうれしかった。
その日の帰り際、校舎のどこかからラジオの音が聞こえてきた。
「大型の台風は、三日後、この地域に最も接近する見込みです」
静かなアナウンサーの声が、夕暮れの校庭へ流れる。
テムは、小さく空を見上げた。
風は、さっきよりも少しだけ強く、校庭の木々を大きく揺らしていた。
〔続く〕
