【百葉箱の神様】第3話 誰にも知られず
それから、百葉箱に向かって今日の出来事を話すことが、いつの間にか哲也の日課になっていた。
温度を記録し終えると、哲也はしばらくその場に立ったまま、だれに言うでもなく、その日あったことをつぶやく。
だれも聞いていないと思うからこそ、言える本音だった。
「今日、色鉛筆ねぐなってだ(なくなっていた)」
「図工の時間、使おうと思ったら、箱ごとねぐで(なくて)。……もう、探す気力もねぇ」
哲也は小さくため息をつき、記録用紙をカバンにしまった。
そして、いつものように百葉箱へ小さく頭を下げて帰っていく。
その後ろ姿は、昨日より少し小さく見えた。
百葉箱の中で、テムはその言葉をじっと聞いていた。
色鉛筆がどれほど大切なものなのか、テムには分からない。
けれど、哲也の声が、とても苦しそうだった。
怒りでも、悲しみでもない。
心の中が空っぽになってしまったような、静かな苦しみだった。
(見つけてあげよう)
夜になるのを待って、テムは百葉箱を抜け出した。
窓のすきまをすり抜け、真っ暗な廊下を足音を立てないように進む。
教室の机の中。
ロッカー。
忘れ物箱。
テムにとっては、一つの引き出しをのぞくだけでも命がけの大冒険だった。
それでも、どこにもなかった。
見つけたのは、真夜中を過ぎてからだった。
ベランダに面した窓ぎわの植木鉢の陰に、色鉛筆の箱がぞんざいに押し込まれていた。
テムの体は、色鉛筆の箱の半分ほどしかない。
どんぐりの帽子のような小さな茶色のキャスケット帽をかぶり、深緑色の服を着た小さな体で、自分よりずっと大きな箱を抱えた。
「うんせ、うんせ」
体いっぱいを使って、少しずつ引きずっていく。
ようやく哲也の机の中へ戻したころには、窓の外がうっすら白み始めていた。
つぎの朝、哲也は机の中の色鉛筆を見つけ、不思議そうに首をかしげた。
「……あれ。ねぐなったと思ったのに」
それ以上は考えなかった。
期待して、また裏切られるくらいなら、最初から期待しない方がいい。
そんなことを、この数か月で嫌というほど知ってしまったからだ。
それでも放課後、百葉箱の扉を開けた哲也の声は、いつもより少しだけ明るかった。
「色鉛筆、戻ってたんだ。よぐわがんねげど(良く分からないけど)」
百葉箱の中で、テムは思わず両手をぎゅっと握った。
小さくガッツポーズをする。
哲也の声が少し明るくなった。
それだけで十分だった。
しかし、いじめっ子たちの悪だくみは終わらなかった。
哲也が困ったり、泣き叫んだりしないことが、勇大たちにはおもしろくなかったのだ。
「あいつ、何されてもボーッとしとるな。」
「なんか、おもしろないわ。もっとビビらせようや。」
そんなイライラした空気が、三人の間に広がっていた。
そして、また次の事件が起きた。
体操服が隠されたのだ。
哲也にとっては、もう何度目になるのか数えるのも嫌な出来事だった。
その日の夕方。
哲也は百葉箱の前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
記録用紙に数字を書き込む手も、いつもよりずっと遅い。
やがて、しぼり出すような声が漏れた。
「今日も、体操服、ねくて(なくて)……」
声が途中で止まる。
「一人だけ私服で、体育館のすみに立たされて……。みんな、笑ってらった(笑っていた)」
哲也はうつむき、両手で顔をおおった。
肩が小さく震える。
指の間から、涙がぽたぽたと落ちた。
夕暮れの校庭に、押し殺した泣き声だけが静かに響いていた。
百葉箱の中で、テムは身動きひとつできなかった。
近づくこともできない。
声をかけることもできない。
ただ、見つめることしかできなかった。
(今度こそ、絶対に間に合わせなくちゃ)
その夜も、テムは必死に校舎の中を走り回った。
教室にもない。
廊下にもない。
テムは考えた…
『哲也が探せない場所……。』
テムは思い切って女子トイレへ飛び込んだ。
そして、掃除用具入れの奥で、ようやく体操服の袋を見つけた。
そのころには、夜はもうすっかり更けていた。
つぎの朝。
哲也はロッカーの中に体操服が戻っているのを見つけた。
何も言わず、小さく息をつく。
その表情は、少しだけほっとしていた。
放課後、百葉箱の前で、哲也はいつもより少し明るい声で言った。
「体操服、戻ってだ。だれだべ……」
百葉箱の中で、テムは静かに息をついた。
だけど、夕暮れの校庭で泣いていた哲也の姿は、いつまでも頭から離れなかった。
梅雨の初め、朝から雨が降っていた。
その日、今度は傘がなくなった。
下校のとき、自分の傘だけが消えていたのだ。
しかたなく哲也は、雨の中を走って帰った。
服もカバンも、すっかりぬれてしまった。
つぎの日の夕方。
百葉箱の前で、哲也はぽつりとつぶやいた。
「昨日、傘、なぐなって(なくなって)で。雨の中、走って帰った」
哲也は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
それでも、泣きはしなかった。
「今日は、父さんの傘、借りてきたけど……。もう、なんも思わね(思わない)」
百葉箱の中で、その言葉を聞いたテムは息をのんだ。
怒っているわけでもない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ、何も感じなくなってしまったような声だった。
その夜、テムは必死に傘を探した。
教室も、廊下も、昇降口も探した。
けれど、どこにも見つからなかった。
かわりに、一年生の傘立てのすみに、長い間だれにも使われていない忘れ物の傘が一本、ぽつんと残っているのを見つけた。
テムはその傘を引きずり、一晩中かけて百葉箱の横まで運ぶと、白い壁にもたれかけるように、そっと立てた。
つぎの日も、雨は降り続いていた。
哲也は、お父さんの大きな傘をさして登校した。
放課後。
気温を記録しに百葉箱へやって来た哲也は、思わず足を止めた。
白い壁にもたれかかるように、一本の傘が置かれていた。
哲也は、そっと手に取る。
「あれ?知らない傘がある。だれかの忘れ物だべか……」
不思議そうに傘を見つめる。
(まさか、この百葉箱が……?)
そんなわけはない。
そう思いながらも、冷えきっていた胸の奥に、小さな灯がともったような気がした。
「今日はこれ、借りとぐわ(借りておくよ)」
百葉箱の中で、テムは傘をさして帰っていく哲也の後ろ姿を見送った。
ほっとした。
だけど、その胸には、新しいあせりが芽生えていた。
(このままじゃ、だめだ)
色鉛筆を返しても。
体操服を戻しても。
傘を届けても。
もう、それだけでは足りない。
哲也の心は、少しずつ閉じてしまっている。
テムには、それが分かっていた。
小さな手を、ぎゅっと握りしめる。
(まただ……)
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
目の前で苦しんでいる相手がいる。
助けたいと思っている。
なのに、自分には何もできない。
声をかけることもできない。
そばに行って、「大丈夫だよ」と言うこともできない。
ただ、隠れたまま見ていることしかできない。
その苦しさを、テムは知っていた。
助けたいのに、助けられない。
何とかしてあげたいのに、自分には何もできない。
その悔しさを、テムはずっと前にも味わっていた。
あの時も、自分はただ見ていることしかできなかった。
大切な友達が苦しんでいるのに。
助けを求める声を聞いているのに。
何もできないまま、立ち尽くしていた。
テムは、ぎゅっと目を閉じた。
忘れたことなど、一度もなかった。
あの日からずっと、心の奥に残っている。
(もう、二度と……)
同じ後悔はしたくない。
そう思うのに、今の自分もまた、あの頃と同じように立ち止まっている。
テムは百葉箱の暗闇の中で、小さくうつむいた。
そして、遠い記憶の奥にしまい込んでいた名前を、心の中でそっと呼んだ。
(……フォグ)
その名前を思い浮かべた瞬間、閉じ込めていた記憶の扉が、ゆっくりと開き始めた。
〔続く〕
