【批評】北野武の説明のない行動描写について──北野映画から『さよならはエモーション』へ
https://youtu.be/2oNbDojXLb0?si=h32bvm7k_-VDCFm3
黒澤明は、北野武との対談の中で北野映画について、「余計な説明がなくていい」「日本の映画は説明が多すぎる」と語っている。
(たしかに、黒澤映画も「説明」が少ない。というか彼の監督する、主人公が極端に無口な映画はとても魅力的。例えば「生きる(監督は黒澤明、主演は志村喬)」を挙げたい。)
この言葉は北野映画を語る際によく引用されるが、私はこの「説明」とは何を指すのか、ずっと考えていた。
おそらく黒澤明が言う「説明」とは、物語の設定や世界観の説明ではない。人物が今どのような感情でいるのか、なぜそのような人間になったのか、そうした感情や過去を観客へ理解させるための説明のことではないだろうか。
現在の脚本術では、主人公やヴィランの過去を描くことは一つの定石になっている。幼少期のトラウマや挫折を描くことで、読者や観客に感情移入を促す。某漫画家を目指す番組でも、からくりサーカスの作者、藤田和日郎に「第一話で主人公を好きにさせること」が重要だと語られていたように、人物を理解してもらうための技術は体系化されている。
もちろん、その手法を否定するつもりはない。私自身、そのような作品にも数え切れないほど心を動かされてきた。
ただ、北野武の監督作品は、その文法とは少し違う場所に立っている。
北野映画では、人物は自分を説明しない。
数多のアウトレイジ系のモノマネでもよく見るように「バカヤロー」「コノヤロー」と怒鳴る場面は数多くある。
しかし、それは感情の説明ではない。説明されなかった感情が、結果として噴き出しているだけである。怒りという結果は描かれるが、その怒りに至るまでの心理はほとんど語られない。
私は北野武の監督作品が好きだ。『アウトレイジ』シリーズをはじめ、『ソナチネ』『HANA-BI』『BROTHER』『Dolls』など、繰り返し観てきた。その中でも、最も北野映画らしい一本を挙げるなら、私は迷わず『ソナチネ』を選ぶ。
『ソナチネ』には、私が北野映画に惹かれる理由がほとんど詰まっている。
沖縄の海が生み出す、いわゆる「北野ブルー」と呼ばれる映像。唐突に訪れる暴力。長回しの沈黙。張り詰めた空気を崩すように差し込まれるユーモア。そして、行動だけで人物を描いていく演出。
(「ほとんど」と書いたのは、『BROTHER』や『Dolls』で見られる山本耀司とのコラボレーションなど、まだ存在しない後年の魅力も否定しないからである。しかし、それを差し引いても、『ソナチネ』は北野映画の原型と言っていい作品だと思っている。)
私がこの映画で最も好きなのは、村川という主人公の描き方である。
映画の中盤、村川の部下が沖縄で射殺される。普通の映画であれば、主人公は怒りを露わにするか、悲しみに暮れるか、そのどちらかだろう。あるいは、部下との思い出を回想する場面が挿入されるかもしれない。
しかし、村川はそうしない。
翌日、彼は海辺で夢中になってフリスビーを投げ始める。
しかも、それまで以上に必死に。
この行動だけを切り取れば、悲しみとはまるで結び付かない。子どものように遊んでいるだけにも見える。
それなのに、観客は不思議なほど村川の感情を理解してしまう。
現実から逃げようとしているのかもしれない。
何も考えたくないのかもしれない。
遊び続けることで、自分を保とうとしているのかもしれない。
映画はその答えを与えない。
それでも、私たちは村川という人物を理解した気になる。
正確には、理解したくなる。
ここに北野映画の人物描写の凄みがある。
もちろん、映画は物語である。前後の文脈は存在する。その文脈が、観客が行動を理解するための補助輪になっていることは間違いない。
しかし、それを踏まえてもなお、『ソナチネ』は驚くほど感情を説明しない。
むしろ、説明しないからこそ、観客は行動から人物を読み取ろうとする。
村川がフリスビーを投げる理由を考える。
沈黙の意味を考える。
笑っている理由を考える。
人物は説明されることで理解されるのではない。
説明されないからこそ、観客の中で少しずつ立ち上がっていくのである。
私は、この構造を「感情の行動描写化」と呼びたい。
感情を消す技法ではない。
感情を説明せず、それでも伝わる行動だけを残す技法である。
そして、この感覚は映画だけのものではなかった。
私は、サカナクションの『さよならはエモーション』を聴いたとき、『ソナチネ』とまったく同じ種類の人物描写に出会ったような感覚を覚えた。
https://youtu.be/87wf45zW5NA?si=iDtnYREzO-JKha8-
サカナクションの好きな曲を挙げれば「黄色い車」「流線」「目が開く藍色」「グッドバイ」「Ame(B)」…キリがないので割愛するが、僕はサカナクションの楽曲の中で「さよならはエモーション」のAメロが最も好きだ。
そのまま
深夜のコンビニエンスストア
寄り道して
忘れたい自分に缶コーヒーを買った
レシートはレシートは捨てた
楽曲の冒頭では、深夜のコンビニエンスストアへ立ち寄り、缶コーヒーを買い、レシートを捨てるという、ごくありふれた行動が描かれる。
サビを経由し、続いて、「両手を床について 僕は逆立ちした」という、少し奇妙な行動が現れる。
そのまま
両手を床について
僕は逆立ちした
そのまま
昔の部屋を思い出した
君の事も
歌詞は、それ以上の説明をしない。
なぜコンビニへ寄ったのか。
なぜレシートを捨てたのか。
なぜ逆立ちをしたのか。
主人公がどのような出来事を経験し、どれほど苦しみ、何を忘れたいのか。その経緯はほとんど語られない。
しかし、聴き手はその人物の感情を感じ取ってしまう。
私は、この構造が『ソナチネ』と非常によく似ていると思った。
もちろん、フリスビーを投げることと逆立ちをすることは全く違う行動である。
しかし、どちらにも共通しているのは、その行動自体には悲しみや喪失を直接表す意味がないということだ。
部下を失ったからフリスビーを投げる。
恋人との別れがあったから逆立ちをする。
現実には、そのような因果関係は存在しない。
だからこそ、私たちは考える。
「なぜ、この人物はこんな行動を取ったのだろう。」
その問いを立てた瞬間、人物は受け手の中で動き始める。
「なんてことないことを言ってるんですよ。深夜にうろついて、何にも用事がないんだけどコンビニエンスストアに入って、別に意味もなく缶コーヒーを買う。で、レシートは捨てた。それだけ。なんてことないんです。
でも、そのメロディーと歌い方と世界観によって、すごく壮大に感じるというか、すごく深刻に感じるというか。上手にできてるなと思います。」
山口一郎本人の発言である。
配信にて、この楽曲について語った際、山口は、歌詞には特別な意味を持たせているわけではなく、「なんてことないこと」を書いているだけだという趣旨の話をしている。
深夜にコンビニへ入り、特に用事もないのに缶コーヒーを買い、レシートを捨てる。ただ、それだけの出来事である。しかし、メロディーや歌い方、世界観によって、その何気ない出来事が壮大で深刻なものに感じられる、と振り返っている。
私は、この発言を聞いたとき、『ソナチネ』を思い出した。
村川もまた、「なんてことないこと」をしている。
海辺で遊ぶ。
相撲を取る。
紙相撲で笑う。
花火をする。
フリスビーを投げる。
もし、その行動だけを書き出したなら、とてもヤクザ映画の主人公とは思えない。
しかし、それらは映画という文脈の中に置かれた瞬間、喪失や諦念、死の予感を帯び始める。
つまり、感情は行動そのものの中にあるのではない。
行動と、その周囲にある演出や文脈との関係によって生まれる。
北野武であれば、沖縄の海、長い沈黙、久石譲の音楽、そして独特の「間」が、人物の行動へ意味を与えている。
山口一郎であれば、メロディー、歌唱、アレンジが、歌詞に書かれた何気ない行動を感情へ変えている。
だから私は、この二人に共通する魅力は、「感情を書かないこと」ではないと思っている。
むしろ逆で、感情は確かに存在しているがそれを言葉で説明しない。
受け手が行動から読み取る余白を残しているのである。
創作において、人物の感情を伝える方法は一つではない。
感情を言葉で説明する方法もあれば、その感情に至る経緯を描く方法もある。それらは現在の物語において広く用いられる技法であり、多くの優れた作品が採用している。
一方で、北野武や山口一郎の作品は別の方法を選ぶ。
レシートを捨てる。逆立ちをする。フリスビーを投げる。
行動だけを提示し、その意味は受け手に委ねるのである。
もちろん、その行動は何でもよいわけではない。文脈の中で選び抜かれた行動だからこそ、人物の感情を背負うことができる。
私が北野映画と『さよならはエモーション』から学んだのは、「説明を減らすこと」ではない。
感情を説明する代わりに、その人物しか取らない行動を書くことである。
それが、私の考える「感情の行動描写化」である。
