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表現者の聖域と、すれ違う正義

フジテレビのドラマ『夫婦別姓刑事』をめぐる制作トラブルの報道は、表現の世界における組織のあり方と、個人の尊厳の守り方について、きわめて根深い課題を浮き彫りにした。

この作品は、もともと俳優の佐藤二朗さんにとって民放ゴールデン帯初の主演作という、役者人生における大きな節目として企画されたものである。座長として現場を牽引し、作品の命運を背負って最高のクオリティを届けようとする情熱は、表現者としての誇りそのものであったはずだ。

しかし、その情熱の足元が、事前の説明もないまま突如として縛られることになる。後からダブル主演という形で合流した女優の橋本愛さんが、過去のトラウマに起因する身体接触の制限という、デリケートな事情を抱えていたためである。これほど現場の動きに関わる特殊な条件があるならば、企画の根幹である主演の佐藤さんに対し、事前に丁寧な説明と合意形成がなされるべきであったことは言うまでもない。それこそが、プロフェッショナルが働く場における最低限のルールであり、互いへのリスペクトだからである。

不条理の本質は、そのプロセスのすべてが省略され、現場の個人へと丸投げされた点にある。

もし最初から特定の相手に対して仕事のやりづらさを抱え、重大な制約を求めるのであれば、なぜ深く関わらざるを得ないダブル主演のオファーを受けたのかという疑問が生じるのは当然だろう。しかし、状況を把握できぬまま不可解な行動制限を課され、困惑のなかで周囲に相談をすれば、今度はその行為自体が「アウティング」や「プライバシーの侵害」として世間から指弾される。橋本さん側には自らを守るための切実な防衛線があったのだろうが、それを「どこにも漏らすな、だがすべてを受け入れろ」という形で一方的に後出しされた佐藤さん側からすれば、選択の自由を奪われた理不尽な要求にほかならない。何の対価も納得感もないまま、一方的な自制とリスクだけを背負わされる構造は、健全な仕事の関係とは呼べないものだ。

プロフェッショナルとしての誠実さや熱量が高ければ高いほど、テレビ局の不手際によって梯子を外されたときの絶望は深い。「やってられない」という思いが去来するのは、人間として、そして表現者として、あまりにも自然な防衛本能である。

この混迷の本質は、個人の抱える傷の是非でも、それに対処しようとした佐藤さんの振る舞いの是非でもない。二つの異なる切実な正義がぶつかり合うことを予見しながら、適切な調停を怠り、情報の伝達不足を放置したまま現場を回そうとした、フジテレビという組織のマネジメントの破綻である。個人の善意や忍耐に依存した配慮は、必ず誰かの犠牲の上に成り立つ歪みを生む。その歪みのしわ寄せを、表現の最前線に立つ役者たちが直接被らなければなかったことこそが、今回の事態が残した最大の禍根であると言える。

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