夜空になれなかった人へ
前書き
この物語は、喫茶それなり さんの詩と曲から私が受け取った感覚をもとに、短編小説として延伸したものです。
着想のきっかけとなった作品はこちらです。
作品そのものの解釈を決めつけるものではなく、「誰かの存在が、誰かに届く」という感覚から、別の物語として書いてみました。
素敵な詩と曲を届けてくださったことに、心から感謝します。
私は、夜空にはなれなかった。
星みたいに、誰かが見上げてくれるほど光っていたわけでもない。
月みたいに、夜の中でちゃんと形を持っていたわけでもない。
ただ、そこにあった。
見えてはいる。
でも、覚えられてはいない。
たぶん、私はずっと、そういうものだった。
「いらっしゃいませ」
その日も、私は同じ声を出した。
少し高めに。
少し明るめに。
疲れていないふりをして。
制服の胸には、名札がついている。
けれど、お客さまは私の名前を呼ばない。
「店員さん」
そう呼ばれるたびに、私は振り返る。
私でなくてもよかった。
制服を着て、同じ場所に立って、同じ声で「少々お待ちください」と言える人なら、きっと誰でもよかった。
それが仕事だとわかっている。
お客さまは料理を食べに来ている。
私を見に来ているわけではない。
そんなこと、いちいち傷つくほうがおかしいのだと思う。
それでも。
一日に何十回も「ありがとうございました」と言っていると、ふと、喉の奥が空っぽになることがある。
私の「ありがとうございました」は、誰かの一日の中に残らない。
食べたものの味。
混んでいた店内。
遅かった料理。
少し高かった会計。
そういうものは残るのかもしれない。
でも、お水を出した手や、こぼれたソースを拭いた指や、笑って頭を下げた顔は、たぶん残らない。
閉店後、私はテーブルの下に落ちていた紙ナプキンを拾った。
床は少しべたついていて、洗剤の匂いと油の匂いが混ざっていた。
膝を曲げると、ふくらはぎが痛んだ。
「お疲れさまでした」
そう言って店を出たとき、夜はもうすっかり深くなっていた。
駅までの道で、私はコンビニの明かりを見た。
白すぎる光だった。
あんなに明るいのに、誰もその光を覚えていない。
ただ、そこにあるのが当たり前だから。
自分も似ていると思った。
家に着いて、私は制服のまま床に座った。
お風呂に入らなきゃ。
洗濯もしなきゃ。
明日のシフトも見なきゃ。
そう思ったけれど、何もできなかった。
手だけが勝手にスマートフォンを開いた。
その夜、私は古い日記の場所を見つけた。
誰かが短い言葉を置いていた。
誰かが声を置いていた。
誰かが、歌になりそこねた鼻歌みたいなものを置いていた。
日記というより、捨て場所に近いと思った。
きれいな文章もあった。
たくさんの名前が並んでいる日記もあった。
届いた:春灯、ミナト、午前三時、青い傘。
そんなふうに、日記の下に名前が残っていた。
でも、数字はなかった。
何人に見られたとか、どれだけ反応されたとか、そういうものはなかった。
ただ、誰かに届いたときだけ、その人の名前が残るらしい。
届いた。
その言葉が、少し変だと思った。
読まれた、でもなく。
好かれた、でもなく。
評価された、でもない。
ただ、届いた。
私はしばらく画面を見ていた。
そして、自分でもどうしてかわからないまま、投稿欄を開いた。
今日、何回「ありがとうございました」って言ったんだろう。
一回くらい、こっちにも返してほしかった。
送信してから、すぐに嫌になった。
何を書いているんだろう。
誰かに慰めてほしいわけじゃない。
仕事がつらいと騒ぎたいわけでもない。
私はただ、疲れていただけだった。
どうせ誰にも届かないなら、ここに捨てても同じだと思った。
その日は、それで終わった。
翌朝、駅のホームで電車を待ちながら、ふと思い出して日記を開いた。
私の二行の下には、何もなかった。
届かなかった。
まあ、そうだろうと思った。
私はスマートフォンを閉じた。
それなのに、その日から私は、少しずつその場所に言葉を置くようになった。
今日は水をこぼした。
客に謝った。
私が悪いのかどうかは、もうどうでもよくなった。
まかないの味噌汁が薄かった。
でも、薄い味のほうが疲れない日もある。
帰り道、月が出ていた。
見上げる元気はなかった。
そんな、残しても残さなくても同じようなことばかりだった。
ときどき、声も置いた。
「今日も、疲れました」
それだけ。
録音した声を聞き返すと、思っていたより小さくて、思っていたより頼りなかった。
自分の声なのに、他人の声みたいだった。
消そうと思った。
でも、消さなかった。
消すほどでもない。
残すほどでもない。
そういうものを置く場所なのだと思うことにした。
ほとんどの日記には、何も残らなかった。
届かなかった。
それにもだんだん慣れていった。
もともと、届くほうが珍しいのだ。
店でも、そうだ。
私が何度「ありがとうございました」と言っても、それは誰かに届くための言葉ではない。
店員として、空気の中に流すための言葉だ。
だから、別にいい。
別にいいはずだった。
そんなある夜だった。
閉店間際、酔ったお客さまがグラスを倒した。
「拭いといて」
そう言われて、私は「かしこまりました」と答えた。
布巾でテーブルを拭きながら、ビールの匂いが手に残った。
拭いても、拭いても、少しだけ残る匂いだった。
帰ってから、私はこんな日記を置いた。
誰かのこぼしたものを拭いていると、
自分まで薄くなっていく気がする。
送信したあと、私はすぐに画面を閉じた。
見たくなかった。
けれど、眠れなかった。
布団の中で何度も寝返りを打って、結局、またスマートフォンを手に取った。
日記の下に、小さな文字があった。
届いた:名無し
最初、見間違いかと思った。
名無し。
名前のない名前。
その下に、一行だけ返事があった。
名前は知らないけれど、今日のそれ、届いていました。
私は、その一行をずっと見ていた。
今日のそれ。
それ、と呼ばれるくらいのもの。
日記とも言えない。
相談でもない。
きれいな文章でもない。
ただ、疲れた勢いで落としてしまったようなもの。
それが、届いていました、と書かれていた。
褒められたわけではない。
励まされたわけでもない。
「わかります」と言われたわけでもない。
ただ、届いた。
それだけだった。
それだけなのに、私は布団の中で、少しだけ息がしやすくなった。
私の言葉は、どこにも行かなかったわけではなかった。
誰かのところまで、少しだけ行っていた。
その夜、私は初めて思った。
暗闇だと思っていたものも、誰かに届いた瞬間だけは、ただの暗闇ではなくなるのかもしれない。
星にはなれない。
月にもなれない。
それでも、届かなかったわけじゃなかった。
それから、名無しは時々、私の日記に残るようになった。
毎回返事があるわけではない。
ほとんどは、ただの表示だけだった。
届いた:名無し
それだけ。
でも、その表示がある夜は、布団に入るまでの時間が少しだけ楽だった。
私は、自分がそれを待っていることを認めたくなかった。
日記を置いたあと、すぐには見ない。
お風呂に入る。
髪を乾かす。
明日のシフトを確認する。
洗濯物を畳む。
そして、寝る前に、そっと開く。
届いた:名無し
その名前があると、今日の自分が完全に空振りではなかった気がした。
私は相変わらず、店では「店員さん」だった。
「お水ください」
「取り皿もらえますか」
「会計、別々で」
「すみません、これ違います」
呼ばれれば行く。
謝る。
笑う。
戻る。
でも、夜になると、ほんの少しだけ違った。
誰にも名前を呼ばれなかった一日を、私は名無しに届くかもしれない場所へ置いた。
それは、誰かのために書いているというほど強いものではなかった。
でも、完全な独り言でもなくなっていた。
以前は、ただ捨てていた。
今は、置いていた。
その違いは小さい。
でも、私には大きかった。
ある日、あの場所で、たくさんの名前が並んでいる日記を見た。
今日は、少しだけ寂しい。
それだけの一文だった。
その下には、いくつもの名前が残っていた。
届いた:春灯、ミナト、青い傘、白い窓、月曜日の犬、午前三時……
きれいだな、と思った。
名前が並んでいるだけなのに、まるで星座みたいだった。
同じ寂しさでも、届く人と、届かない人がいる。
そう思ってしまって、少し嫌になった。
でも、そのあとで、名無しの名前を思い出した。
たくさんでなくてもいい。
一人でも、いい。
一人に届いた夜は、少なくとも、なかったことにはならない。
そう思えるだけで、そのころの私はなんとか立っていられた。
けれど、ある夜から、名無しは来なくなった。
最初の日、私は気にしないふりをした。
忙しかったのかもしれない。
たまたま見なかっただけかもしれない。
そもそも名無しが私の日記を読む理由なんて、どこにもない。
そう思った。
次の日、私はあえて画面を開かなかった。
待っているみたいで嫌だったから。
でも、寝る前に結局開いた。
何もなかった。
三日目、私は何度も更新した。
変なことを書いたのかもしれない。
重かったのかもしれない。
返事を期待しているのが、画面越しにも伝わってしまったのかもしれない。
そう考え始めると、止まらなかった。
たくさんの人に届きたかったわけじゃない。
人気になりたかったわけでもない。
誰かに必要とされたかった、と言うほど大げさなことでもない。
ただ、名無しがまだどこかにいると、知りたかっただけだった。
そのことに気づいて、私は少し怖くなった。
名前も知らない。
顔も知らない。
声も知らない。
どこにいる人なのかも知らない。
それなのに、その人がいないだけで、夜が前より広く感じる。
私は初めて、名無しのページを開いた。
そこには、ほとんど何もなかった。
自己紹介もない。
アイコンも、灰色のまま。
性別も、年齢も、職業もわからない。
ただ、古い日記がいくつか残っていた。
今日は、置いておくだけにする。
消すほどでもないし、残すほどでもない。
ここにある、ということにしておく。
それだけだった。
何か大きな事情が書かれていたわけではない。
悲しい過去も、理由も、答えもなかった。
ただ、私と同じように、置いておくだけの言葉があった。
私は、その短い日記を何度も読んだ。
名無しは、私を救いに来た人ではなかったのだと思った。
名無しもきっと、どこかで自分の言葉を置いていた人だった。
名前を出すほどでもないものを。
消すほどでもないものを。
でも、なかったことにはしたくないものを。
星でもなく、月でもなく。
ただ、どこかに届くかもしれないと思って、夜に置いていた人。
それでも、名無しは、私に届いた。
名前のないまま、私の夜に小さな痕跡を残してくれた。
それから私は、何度も名無しに向けて日記を書こうとした。
名無しさん、どこにいますか。
そう書いて、消した。
探したいわけではなかった。
ありがとうございました。
そう書いて、消した。
終わらせたいわけではなかった。
あなたのおかげで、私は。
そこまで書いて、やっぱり消した。
それは少し、きれいにしすぎている気がした。
日々は普通に続いた。
店は忙しいままだった。
私は相変わらず「店員さん」と呼ばれた。
グラスを拭き、床を掃き、忘れ物を預かり、レジを閉めた。
誰かが座った席を、次の誰かのために整える。
私の仕事は、誰かがいた痕跡を消すことでもあった。
食べ終えた皿を下げる。
汚れたテーブルを拭く。
椅子を戻す。
そこに誰かがいたことを、次の人のために、きれいになかったことにする。
そのたびに、少しだけ思った。
私も、こうやって消えているのかもしれない。
でも、前ほど怖くはなかった。
消えてしまう前に、どこかへ届くものもあるのだと、名無しが教えてくれたから。
季節が少し変わった。
帰り道の空気が、前より冷たくなったころ。
私は仕事から帰って、手を洗って、制服を脱いで、部屋の電気をつけずに座った。
窓の外には、隣のマンションの明かりがいくつか浮かんでいた。
どの部屋にも、誰かの夜がある。
そう思った。
私は日記の投稿欄を開いた。
今度は、消さなかった。
名前を知らない人がいた。
その人は、私の名前を知らないまま、私の言葉に「届いた」と残してくれた。
それだけで、私は少しだけ、なかったことにならずに済んだ。
毎日「ありがとうございました」と言っているだけの私にも、どこかへ届く夜があるのだと知った。
もし今、あなたの何かがどこにも届いていないなら。
これは返事ではなくてもいい。
お礼でも、呼びかけでもなくていい。
ただ、あなたが私にそうしてくれたように、私もここに残しておく。
名前は知らないけれど、ちゃんと届いていました。
あなたが置いていったものは、ちゃんと、届いていました。
送信したあと、私はしばらく画面を見ていた。
でも、名無しは来なかった。
その夜も。
次の夜も。
何日経っても。
届いた:名無し
その表示は戻らなかった。
寂しくないと言えば、嘘になる。
今でも、画面のどこかにその名前を探してしまうことがある。
通知を見る前に、少しだけ期待してしまうこともある。
でも、救われた、とは少し違うと思う。
私は明日も、たぶん店員さんと呼ばれる。
名前を呼ばれないまま、ありがとうございました、と言う。
誰かのこぼしたものを拭き、誰かの食べ残しを片づける。
それは変わらない。
私は急に強くなったわけではない。
ただ、届かなかったわけじゃなかった。
そのことだけを、前より少し信じられるようになった。
数日後、電車の中で、私はまたあの場所を開いた。
画面を流していると、ひとつの日記が目に留まった。
今日、誰とも目が合わなかった。
それだけだった。
日記の下には、何も残っていなかった。
届いた名前は、ひとつもなかった。
私は、その一文を見つめた。
かわいそうだと思ったわけではない。
助けたいと思ったわけでもない。
私に何かができると思ったわけでもない。
ただ、その一文が、あの日の私の二行に少し似ていた。
私は、画面の下にある小さなボタンに触れた。
この場所では、自分の名前を出さずに、ただ「名無し」として届いた痕跡を残すことができる。
私は少しだけ迷って、押した。
その人の日記の下に、表示が残った。
届いた:名無し
それから、一行だけ返事を書いた。
名前は知らないけれど、ちゃんと届いていました。
送信して、スマートフォンを閉じた。
電車の窓には、疲れた顔の私が薄く映っていた。
髪は少し乱れていて、目の下には影があった。
明日になれば、私はまた店に立つ。
「いらっしゃいませ」と言う。
「少々お待ちください」と言う。
「ありがとうございました」と言う。
きっと、誰も私の名前を呼ばない。
それでも。
無名のままでいい。
あなたが私に残してくれたように、
私も、誰かの夜に、
ただ「届いた」と残せればいい。
夜空になれなかった人へ。
あなたの残したものは、まだ、誰かの暗闇に届いている。
後書き
この物語で書きたかったのは、誰かを強く照らすことではなく、互いの存在を小さく確認し合うような関係でした。
名前も顔も知らないまま、それでも「届いていました」と残すこと。
そして、かつて自分がそうしてもらったように、今度は誰かの夜に痕跡を残すこと。
無名のままでも、誰かに届くことができたなら。
そんな静かな循環を書きたかったのだと思います。
改めて、この物語のきっかけとなった詩と曲を届けてくださった 喫茶それなり さんに、心から感謝します。
