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靴箱のすみっこで、未来をそろえる


朝の教室というのは、いつも少しだけ「嘘」をついている。
何事も起きていない顔をして、昨日のざわめきを机の下に隠しているのだ。
 
僕はその嘘に、わりと簡単に騙される。
いや、騙されたいのかもしれない。
「今日こそは穏やかな一日になりますように。」
と、毎朝小さく祈っているくらいだから、疑う気持ちのほうが失礼に思えてしまう。
 
ところが、祈りというのは、だいたい現実に対して無力である。
祈っている間に現実が先に動き出してしまう。
 
最初に気づくのは、音の「向き」だ。
本来なら黒板に集まるはずの意識が、なぜか横へ、斜め後ろへと滑っていく。
教室はいつの間にか、正面に向かう劇場から、あちこちに客席のある寄席のようになる。
 
誰も舞台を見ていないのに、そこそこ盛り上がっているのが、また厄介だ。
 
僕はチョークを持ったまま、
「これは教育なのか、それとも雑談フェスティバルの前夜祭なのか?」
と、どうでもいい分類に頭を使う。
そしてだいたい、その間に事態は少し進行する。
 
次に現れるのは、身体の漂流である。
席という港に停泊していたはずの子どもたちが、なぜか静かに出航する。
目的地は特にない。
ただ、動いているほうが落ち着くという、不思議な航海だ。
 
僕はそれを見て、
「人間は重力に従うより、気分に従う生き物なのだな。」
と妙に納得する。
納得している場合ではないのだが、こういうとき人は余計な哲学を始める。
 
そしてある日、僕はついに「現場」を見つける。
 
それは

教室ではない。
廊下でもない。
 
靴箱だった。
 
そこには、言葉を失った証拠たちが並んでいた。
いや、並んでいなかった。
 
斜めを向いた靴。
押し込まれて呼吸困難になっている一足。
かかとを踏まれて、もはや靴というよりスリッパになりかけているもの。
 
僕はしゃがみ込んで、それらを見つめる。
どうやら彼らは、持ち主よりも正直らしい。
 
「ちゃんとできてます。」
と言えないとき、人は足元に本音を落としていくのだ。
 
なるほど、と思う。
教室は頭でできているようで、実は足で支えられているのかもしれない。
 
それからの僕は、少しだけ変わった。
帰り際にしゃがむ時間が増えたのだ。
 
一足を持ち上げ、向きをそろえる。
奥に入れて、呼吸を整えてやる。
 
ときどき子どもと一緒にやると、
「靴ってこんなに揃うときれいなんだ。」
と、ちょっとした発見が起きる。
人間は、自分の靴の整い方に意外と無頓着である。
そして、それに気づいたとき、少しだけ姿勢がよくなる。
 
不思議なことに、それだけで教室の空気が変わる。
劇的ではない。
革命でもない。
 
ただ、ざわめきの音量が少し下がる。
それだけだ。
 
でも、その少しは大きい。
合唱でいえば、ようやく隣の声が聞こえるくらいの変化だ。
 
僕は思う。
教育というのは、大きな声で引っ張る仕事だと思っていたけれど、
本当は、誰も聞いていない場所の音を整える仕事なのかもしれない。
 
今日もまた、教室のどこかで小さな乱れが生まれるだろう。
それはきっと止められない。
 
でも、その一部は、帰り際の数分でやり直せる。
 
僕はしゃがみ込む。
靴をそろえる。
 
そして少しだけ安心する。
このクラスは、まだ大丈夫だ、と。
 
なぜなら、未来というのは案外、こんなふうに
靴箱のすみっこで、静かに並び直されているものだからだ。

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