笠井潔『夜と霧の誘拐』講談社
笠井潔の本格ミステリ、矢吹駆シリーズ第8作め『夜と霧の誘拐』を読んだ。
まず、矢吹駆シリーズを振り返ってみる。本作は、本格ミステリだが、同時に主人公の思想遍歴を描く教養小説の性質を持たせようとしており、各話には、実在した哲学者・思想家をモデルとする人物が登場し、対話(対決)をする。尚、連作を通じて、主人公の矢吹駆の宿敵として、ニコライ・イリイチ・モルチャノフがいる設定になっている。ニコライ・イリイチ・モルチャノフは、人間の否定的側面に働きかけ、負の部分を拡大させるニヒリストのようだが、まだその全貌は明らかになっていない。本格ミステリとしては、各話で完結するので、作品単位で読んでも支障はないが、過去に出会った人の回想などがあるので、可能であれば、創元推理文庫で、遍歴の順番で読むのが望ましい。
第0作『熾天使の夏』
講談社単行本→講談社文庫→創元推理文庫
矢吹駆の前史と思われる革命党派の活動、テロリズム、リンチ事件、刑務所生活、「完璧な自殺」への衝動、<中央委員会>……を描いた観念小説。
純文学的要素が高く(「完璧な自殺」のくだりは、大江健三郎の『われらの時代』の影響ではないかと思う)、本格ミステリではないので注意。
第1作『バイバイ、エンジェル』
角川書店単行本→角川文庫→創元推理文庫
笠井潔の小説家デビュー作、角川小説賞受賞
矢吹駆シリーズの出発点。パリで起きた首なし殺人事件。対するは、現象学を用いて本質直観で推理する矢吹駆と、警視の娘モガール。事件の影に、左翼テロリズムの秘密結社が……。
内容的に、笠井の主著『テロルの現象学』に対応している。
第2作『サマー・アポカリプス』
角川書店単行本→角川文庫『アポカリプス殺人事件』→創元推理文庫
シモーヌ・ヴェイユを彷彿とされるような人物が登場する。
第3作『薔薇の女』
角川書店単行本→角川文庫→創元推理文庫
ジョルジュ・バタイユを思わせる文学者・思想家が登場する。
第1作~第3作の合本『天使・黙示・薔薇』
作品社単行本
第4作『哲学者の密室』
光文社単行本→光文社ノベルス2巻本→光文社文庫2巻本→創元推理文庫
マルティン・ハイデガーやエマニュエル・レヴィナスのような人が出てくる。
第5作『オイディプス症候群』
光文社単行本→光文社ノベルス→光文社文庫2巻本→創元推理文庫
ミシェル・フーコーを思わせる人、エイズを思わせる病気が出てくる。
第6作『吸血鬼と精神分析』
光文社単行本→光文社ノベルス→光文社文庫2巻本→創元推理文庫(2025.5刊行予定)
ジャック・ラカンやジュリア・クリステヴァを思わせる人が出てくる。
第7作『煉獄の時』
文藝春秋単行本
ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワールを思わせる人が出てくる。
第8作『夜と霧の誘拐』
講談社単行本
ハンナ・アーレントを思わせる人が出てくる。
第9作『魔の山の殺人』
連載済・加筆+改稿中
ルカーチ・ジェルジュを思わせる人物が出てくると思われる。
第10作『屍たちの昏い宴』
「ジャーロ」連載中
フランス篇の完結作。
埴谷雄高が『死霊』で描く予定だった釈迦と大雄の対話が描かれるかも知れない。
第11作『青銅の悲劇』
講談社単行本→講談社文庫2巻本
本作から、日本篇が始まる。
矢吹駆の行方を探して日本に来たナディアが、昭和の終わりとトリカブト事件に遭遇する。
第12作『白銀の悲劇』
予定のみ
第13作『黄金の悲劇』
予定のみ
『夜と霧の誘拐』だが、フランクルの『夜と霧』とは直接の関係はないが、第二次世界大戦時のナチス・ドイツによるユダヤ人の強制連行・強制収容所・大量虐殺は直接の主題であり、舞台も第4作の『哲学者の密室』のダッソー家の後日譚という形を取っている。そして、反ユダヤ主義や歴史修正主義の問題も扱われる。物語中の重要な小道具として『ホロコーストの神話』という歴史修正主義の本が出て来て、物議が起きるが、この本の説明を読むと、通説に対して、別の真実を事実を挙げて論証するタイプの本ではなく、ポスト・トゥルースというか、ポスト・モダン的に真偽はどうでもいいと思わせるタイプの本に設定されていて、作者がどういう方向性の危機感を抱いているかを伺わせる。
本の巻末に参考文献表が載っており、『アーレントと黒人問題』という最近の本も取り上げられている。これは、アーレントがユダヤ人問題には拘ったが、黒人等の視点に欠けていたのではないか、というもので、比較的進んだ見解の知識人であっても、植民地主義の残存みたいなものがあるのでは、という批判が、様々な分野で噴出してきており、アーレントも例外ではないということなのだろう。この黒人等の視点の問題は、終わりの方の矢吹との議論で出てくる。連載後、加筆・修正・改稿期間が長いことで知られる作者だが、『アーレントと黒人問題』は2024年の本なので、加筆期間中に浮上した最新の問題を取り入れ、アップデートしていると思われる。反ユダヤ主義を批判する一方で、イスラエルとバレスチナの問題も取り上げている。これも、今日的観点から、重視されるべき論点である。
連載との比較をしていないので、断定はできないのだが、2か所、歴史修正主義に絡めて、ジャーナリズムにおける「両論併記」は、実は歴史修正主義に有利に働いてしまうとして、「両論併記」に苦言を呈した部分があったが、「両論併記」といえば、『情況』のトランスジェンダー特集で、編集側が「両論併記」の方針で、作者はそれを批判する陣営側だったことを想起した。関係がないかも知れないが、気になったので記しておく。
矢吹駆シリーズだが、当初、左翼テロリズムの問題に直面した青年が、どう生きるか。党派観念ではなく、それを内部から自壊させる集合観念で生きる。これが正しい。そう考えて突き進む話として読んでいた。初期三部作は、特にそのように読めた。しかし、その後、主人公矢吹の議論が、それだけにとどまらず、文明論・政治論、世界観に及ぶようになってきた。
フランス篇の10作の完成が見えてきたので、これは20世紀の思想家論を、ドストエフスキー方式(『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』は、ミステリー要素のある思想小説である)でまとめようとしているのだということが見えてきた。
学生の時から読み始めたので、生きているうちにフランス篇全10作は読めたらいいな、と思っている。
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