横田祐美子『脱ぎ去りの思考』、あるいはバタイユにおける哲学的転回
ジョルジュ・バタイユの主著は、日本では『内的体験』として知られているが、横田祐美子『脱ぎ去りの思考 バタイユにおける思考のエロティシズム』2020、人文書院では、「内的経験」という訳が提唱される。
確かに、原書に遡ってみると、「内的経験」という訳で問題ない。

先行する岩野卓司『ジョルジュ・バタイユ 神秘的経験をめぐる思想の限界と新たな可能性』2010、水声社でも「内的経験」という訳が採用されていた。ちなみに、横田祐美子『脱ぎ去りの思考』279頁には、岩野卓司『ジョルジュ・バタイユ』への謝辞があり、影響関係が認められる。『脱ぎ去りの思考』29頁では、『内的体験』出口裕弘訳、平凡社ライブラリー367頁「瞑想の方法」についても、原文に遡って「省察の方法」という新しい訳が提案される。「体験」は「経験」、「瞑想」は「省察」とも解せられる。これは些末な事にこだわっているのではなく、この操作によって、バタイユが考えていた哲学的な思考が浮き彫りになる。そうしないと『マダム・エドワルダ』の神や死をめぐる哲学的な記述が理解出来ない。必要な下準備なのだ。


『脱ぎ去りの思考』がバタイユ思想の核心と見做すのは、『非-知』である。

『非-知』は、バタイユの未完のプロジェクト「無神学大全」の五巻めに予定されていた著作である。一巻めが『内的経験(邦題 内的体験)』、二巻めが『有罪者』、三巻めが『ニーチェについて』(ここまでが現代思潮社から刊行され、『内的体験』は平凡社ライブラリーで再刊、一巻と二巻は河出文庫で新訳が出た)、四巻めが『純然たる幸福』で、五巻めが『非-知』だったが、完成されることはなく、死後、草稿等がまとめられ、四巻めは人文書院の単行本を経て、増補版がちくま学芸文庫が出た。五巻めは哲学書房の単行本を経て、平凡社ライブラリーに収録された。



『非-知』の位置づけだが、バタイユはコジェーヴ経由で、初期ヘーゲルを履修しており、「推論的=言説的思考」の極致としてヘーゲルの「絶対知」を捉えていて、弁証法的な論理的思考の限りを尽くして「絶対知」に到達した瞬間、「絶対知」として掌握しきれないものが露呈するとし、「非-知」の存在が開くとした。
バタイユは、学問を成り立たせているような「推論的=言説的思考」自体を嫌い、生々しい生きられた思考を回復させようと、低次唯物論の考えに沿って、対抗的に、醜いもの、形の壊れたもの、おぞましいものを、『ドキュマン』等での論評で取り上げたりしていたが、ヘーゲルの『精神現象学』で、絶対精神に向かう「推論的=言説的思考」の極致の存在を知り、論理を不徹底に終わらせるのではなく、論理の徹底の果てに、論理体系を内部から自壊させ、「非-知」を救い出す試みをしたと考えられる。(この辺り、自分なりに咀嚼して、言い直しているので、横田先生の主旨とずれているかも知れない。原文にあたられたい。)
コジェーヴのヘーゲル解釈は『ヘーゲル読解入門』で知ることが出来る。




『脱ぎ去りの思考』は、ヘーゲルの「絶対知」と対峙するバタイユという構図を作り出し、バタイユの基盤を、デリダを参照しつつ、ニーチェに措定する。ニーチェの『善悪の彼岸』冒頭の「真理は女性である」云々という記述にバタイユが着目していることを、バタイユの『ニーチェ覚書』から導き出し、デリダの「尖鋭筆鋒の問題」『ニーチェは、今日?』ちくま学芸文庫収録を用いて、「真理は女性である」の解釈をするのである。
蛇足を加えると、『ニーチェは、今日?』は、1972年のスリジー=ラ=サールの国際文化センターでの討論会の記録であり、ジャック・デリダの「尖鋭筆鋒の問題」は改稿されて、1978年に『エプロン~ニーチェの文体(邦題 尖筆とエクリチュール~ニーチェ・女・真理)』になっている。で、デリダと同様のことを、浅田彰も『構造と力』中公文庫、122頁「7 ≪女≫について」で行っている。




『脱ぎ去りの思考』は、ヘーゲルとの対峙を経て、ニーチェと、デリダの「脱構築」に到達したが、バタイユの思考の中心には、哲学することがあることを検証すべく、『マダム・エドワルダ』の読解を行っている。


バタイユは、出口裕弘、生田耕作、澁澤龍彦らによって異端文学として紹介されたが、こうして作品を精読すると、ヘーゲルやニーチェ、さらには現代哲学まで関係してきてしまうわけで、バタイユを入り口にして考察を広げていくと、新しい世界が広がるかも知れない。バタイユを好事家に独占させてはもったいない。
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