わかったよーなわからないよーな人
「オラ、ごえんさんが何言ってるか、サッパリわかんねぇけんど、ごえんさんが一生懸命なのだけは、何となくだけどわかるから、オラ、ごえんさんの言うとること信じとるよ」
こーゆーこと言う人に伝わる仏教を、たぶん僕は探している。
難解な教義や大仰な理念を、事細かく紐解いて理路整然と並べ立てたよーな噺を聞く。時々、自分でもやらかして、激しく後悔する。そこには自分がない。僕はそこにいない。そこにあるのは、教科書に並んでいた記号のよーな文言。キチッと揃えると、パズルのピースがぴったりハマったみたいな快感があるのを知っている。だけどそこには僕だけが取り残されてしまった空しさもある。
たぶん、みんながわからないって言うのは、阿弥陀さまやお浄土の噺じゃなくて、それを、わかったよーなわからないよーな噺にしてしまう、僕のことが最もわからないのだ。
僕も僕のことがわからない。何処からきて何処へいくのか、真実を知らない。
信心いただいて念仏して、浄土に迎え摂られるって聞いて、信じてるだけ。
ファルコンの定理や超ひも理論について説明せよと言われたら、きっとネットや文献から文言を引っ張り出して、そのまま記号みたいに並べる。少しくらいは思うところや感じることを差し挟む程度の余地もあるかもしれない、が、そこに僕がスッポリと収まるスペースなんて、きっとない。
僕がそこにいないということは、何となくわかる、が、では、今、僕は何処にいるのか、僕はわかっていない。
わかっていない僕が、わかったよーなわからないよーな噺をするものだから、そりゃ、サッパリわからなくて当然の噺だ。それなのに、そんなの信じて大丈夫なのか?
勉強して知識を修得するのを否定するつもりはない。記憶した知識をキレイに並べてみると、勉強したという自分だけがそこにいて、その自分はとても充実しているよーな気もするけど、同時にその自分が何なのか勉強してこなかったことも突き付けられたりする。それくらいは大したことじゃないのだろうか?
大したことじゃないのかもしれない。だって、サッパリわかんねぇけど、信じてやるって言ってる人には、もう伝える必要ないんじゃね?それより、理屈捏ねて抗ってくるヤツを、論理的思考でコテンパンに捩じ伏せた方がスカッとす…じゃなくて、伝える意味あるんじゃね?
意味?ある?意地?わる?
聞く気も信じる気もないヤツこそを、わからせてナンボだろって噺か?
坊主の価値はそこで量られるのか?
そもそも坊主に価値なんぞあるのか?
僕には噺をややこしくしているだけの存在に見えちゃうよ。
わかったよーな、わからないよーな、些末なもんだよ。

