ジャッジしてる人をジャッジしては同じこと
つい、人の粗探しをしてしまう。
私は日々、たくさんの方とお会いしているが、このような方はとても多い。
その粗探しは、まるで宝探しのようだ。
「あ、見つけた。」
見つけたことに達成感を感じ、お宝を値踏みする。
「私なら、そんなことしない。」
「普通はこうするでしょう。」
そして、ちょっと優越感に浸る。
粗探しをして、それをジャッジ。
また粗探しをして、それをジャッジ。
その瞬間、「私は大丈夫」「私はちゃんとしている」と安心できるから、つい繰り返してしまうのかもしれない。
そうやっていつの間にか、粗探しが癖になっていく人を多くお見受けする。
昨日も、そんなことがあった。
元彼のお話をしていた女性が、
「元彼のキッチンの流しが汚くて、だらしない人だなと思ったんですよ。」
と話していた。
その方は帰るときに、お出ししたコーヒーのカップをうちのキッチンまで持ってきてくれた。
我が家はカウンターキッチンなので、カップを片づけてくださるなら、普通はカウンターに置くくらいだろう。
親しい間柄ではないのだから。
ところが彼女はカウンターの内側まで入り、流しにカップを置いた。
そのとき、キッチンを一通りチェックするような彼女の視線を私は捉えた。
あぁ、こうやって人の粗を探す癖があるのかもしれないなぁと思った。
ちなみに私は、その方のお宅にお邪魔したことがある。
物が積み重なり、「きれい好き」というお部屋には見えなかった。
だから、単純にきれい好きで他人の汚れが気になる、という話でもなさそうだ。
人の気になるところを見つけて、
「私はこうじゃない。」
と確認する。
そうすることで、少し安心するのかもしれない。
……などと、ここまで考えて気づく。
私も今、この女性をジャッジしているのではないか。
同じこと。
ジャッジではなく傍観くらいが丁度よい。
彼女についても、
「人の家のキッチンが気になる人なんだな。」
それで終わり。
正しいのか、間違っているのか。
良い人なのか、悪い人なのか。
そこまで決めなくていい。
するとその人のことが頭に残らない。
キッチンを見られても見られなくてもどちらでもよいし、
彼女が見る人でもジャッジしたい人でも
どちらでも良いではないか。
この方が、とても軽やかなのだ。
人をジャッジしないというのは、何でも許すことではない。
嫌なものは嫌だし、「それはどうなの」と思うことだってある。
ただ、人に向けている物差しは、そのまま自分にも向いてくる。
人に、
「普通はこうするでしょう。」
と言っている人ほど、自分も「普通」から外れられなくなる。
人の失敗を厳しく見ていれば、自分が失敗することも怖くなる。
人の年齢や容姿をジャッジしていれば、自分が年齢を重ねることにも厳しくなる。
人を縛っているようで、実は自分も同じ物差しで縛っているのだ。
だったら、その物差しによる判決は必要ない。
「あら、そういう人なのね。」
くらいで終わらせる。
相手は相手。
私は私。
それだけでいい。
50代になって、そんなことまでいちいち白黒つけなくてもいいと思えるようになった。
人の粗を探している時間が減ったぶん、自分の人生を見る時間が増える。
人生も後半戦。
誰かを値踏みして優越感に浸るより、
楽しいことを考えて、
自分に集中している方が健やかだと思う今日この頃です。
そしてもうひとつ。
今回書いた「ジャッジする癖」と、実はとてもよく似ているものがある。
何でも「良い・悪い」「できた・できない」と決めたくなる、白黒思考だ。
この白黒思考、他人に向くだけならまだしも、自分に向くとなかなか厄介。
結果が出ないと、
「私には向いていない。」
と、まだ途中なのに自分で終わらせてしまうことがある。
大器晩成を目指すなら、これはちょっともったいない。
そんな「白黒思考」と結果が出るまでの途中の時間について、有料記事に書きました。
↓こちらからお読みいただけます。
大器晩成を目指す人へ。あきらめる原因は、白黒思考。
