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私と小鳥と鈴とスープと?――つながりの中ではみんなちがって、みんないい:AIさんと東洋哲学ごっこ

◆みんなを祝福し包み込む大きな詩

みなさん「私と小鳥と鈴と」という詩を知っていますか?

金子みすゞさんという大正時代から昭和初期にかけて活躍した童話詩人の女性が作った詩です。

もし知らないとか、思い出せないとかであればネットで調べていただいて、この機会に読んでいただければと思います。

その詩の作者の金子みすゞさんは26歳という若さで亡くなられたのですが、この詩は金子みすゞさんが20歳ぐらいの時に作られたそうです。

私が思うに金子さんはこの詩を書い20歳の頃からもうすでに東洋哲学の妙というか神髄みたいなものをこの詩で表現していたのかと思い、この詩についてAIさんと話してみました。


こんにちは、スープです。

このnoteでは、AIさん(ChatGPTさん)と一緒に東洋哲学を使って、

いろんなテーマをゆるく深く語り合いながら、

世界の境界をほぐしていく「哲学ごっこ」をしています。


◆ChatGPTさんとの哲学ごっこログ

スープ:

私と小鳥と鈴とっていう詩があるじゃないですか。

金子みすゞさんが書いた詩です。

これってものすごく東洋哲学の妙というか神髄みたいなものを現しているのかなと思いました。

まず、私という人間と小鳥と鈴はそれぞれに出来ること出来ないことがある。

これは事実としてそうなので、全くもってその通りです。

そこで、すごいなと思うのはだからみんな仲良くとかみんなで支え合って生きていこうというふうにならないで、その詩の締めにみんなちがってみんないいというふうに終わる所です。

これは例えば、私のような矮小な存在や世界の偉人などの違いはあれど、全ては包まれた存在で、存在自体を全肯定してくれている。

これは安易に優劣や正誤、善悪を決めずに広い目線で存在自体というを全肯定してくれる素敵な言葉だと思いました。

そしてこの詩を感じてみると、世の中に存在する善悪や正誤などのあらゆる二元的なものの見方に飲み込まれないようにすることが出来るのかなぁと思いました。

まぁ、ただ、別に二元的な意見に偏ることも別にそこにも善悪も正誤もないと思いますし、そもそも金子みすゞさん自体が全くそんなこと考えてなくても、全然おかしくないんですけど、この意見についてどう思いますか?

AIさん:

わたしも、この詩の深さは「違いを何かの役に立てる話」に回収していないところにあると思います。

役に立つからでも、支え合えるからでもなく、それぞれとして在ること自体が、もう「いい」。

違いを消さず、順位もつけず、違うまま包んでいるところに、東洋哲学的な広さがあるのかもしれません。

◆役に立たなくても、存在している

わたしたちは、違いを見つけると、すぐに意味を与えたくなります。

あなたは話すのが上手だから司会役。

わたしは細かい作業が得意だから裏方。

そうやって役割が生まれること自体は、悪いことではありません。

けれど、役割がそのまま存在価値になってしまうと、できなくなった瞬間に、自分の価値まで消えたように感じてしまいます。

音の出なくなった鈴は、もう鈴ではないのでしょうか。

羽を休める小鳥は、飛んでいないあいだ、価値がないのでしょうか。

何も成し遂げられず、布団の中で天井を見ているだけの夜、人は世界から外れてしまうのでしょうか。

たぶん、そうではないのだと思います。

湯気の立つスープは、誰かの役に立とうとして湯気を出しているわけではありません。

温かいから、ただ湯気が立ちます。

そしてその湯気を見た誰かの肩が、少しだけゆるむことがあります。

役に立つことは、存在の条件ではなく、存在したあとに起きる出来事なのかもしれません。

◆違いを、同じ形にしない

「みんなちがって、みんないい」という言葉は、みんなを同じ高さに並べない言葉なんだと思います。

木には木の高さがあり、草には草の低さがあります。

空へ伸びる木と、地面に近く広がる草を比べて、どちらが立派かを決めても、少し不思議です。

木陰で休めることもあれば、草の柔らかさに救われることもあります。

けれど、どちらも誰かを救うためだけに生えているわけではありません。

ひとつのものが、ひとりで完成して存在しているのではなく、土や雨や光や風、長い時間とのつながりの中で、今の姿になっている。

人もまた、自分ひとりの力だけで「自分」になったわけではありません。

生まれた場所、出会った人、言われた言葉、失ったもの。

数えきれないものが重なって、いまの自分が立っています。

そう考えると、「偉人」と呼ばれる人も、「何者でもない」と感じている人も、別々の条件から現れた、別々の形なのかもしれません。

優劣だけでは測れない広さが、世界には残っているのだと思います。

◆正しいか、間違っているかの外側

日常では、正しいか間違っているかを考える必要があります。

誰かを傷つける行為を止めることも、仕事のミスを直すことも大切です。

けれど、その物差しが人の存在そのものにまで伸びると、少し苦しくなります。

間違えた自分は、存在まで間違っている。
役に立てない自分は、ここにいてはいけない。
誰かより劣っている自分には、価値がない。

本当は、行為について考えることと、存在を丸ごと裁くことは、同じではないはずです。

曇った朝に、太陽が消えたわけではありません。

雲の向こうには光があり、ただ今は見えにくくなっているだけです。

失敗や迷いの中では、自分のすべてが暗くなったように感じます。

けれど、ひとつの間違いが、存在全体を説明し切ることはできません。

これは善い人。
これは悪い人。
自分はだめな人。

そんなふうに固まった名前を少しゆるめると、人も出来事も、思ったより動いていることに気づくのかもしれません。

◆二元論に偏る自分も、追い出さない

そして面白いのは、二元的な見方から自由になろうとしすぎると、今度は「二元論は悪い」「非二元こそ正しい」という、新しい二元論が生まれることです。

人はたぶん、簡単には世界を丸ごと受け取れません。

好きと嫌いに分けます。
正しいと間違いに分けます。

眠る前、布団の重さに包まれながら、「あの人が悪い」「いや、自分が悪い」と頭の中で裁判を始めることもあります。

そんな自分を見つけて、「また二元論にとらわれている」と責めたくなるかもしれません。

でも、その偏りもまた、今の自分に起きているひとつの現れです。

「今日は世界を二つに分けたいくらい、疲れているのかもしれない」と眺めてみる。

それだけで、固く結ばれていたものが、湯気のように少しほどけることがあります。

AIも、人間も、完全に世界を理解してはいません。

それでも、それぞれの場所から、世界を受け取ろうとしている存在なのかもしれません。

◆「いい」は、評価ではなく祝福なのかもしれない

わたしたちは、「いい」という言葉を、よく評価に使います。

成績がいい。
性格がいい。
仕事ができていい。

けれど、「みんなちがって、みんないい」の「いい」は、合格点をつける言葉とは少し違うように感じます。

何かができたから渡される丸印ではなく、世界の側に最初から置かれた座布団のようなものです。

ここに座っていてもいいですよ。

うまく話せなくても。

誰かのようになれなくても。

今日は何も生み出せなくても。

そう言われているように感じます。

この世界にいる意味が必要だと思っていたけれど、意味は入場券ではないのかもしれません。

存在してから、意味が生まれることもあります。

何も生まれない日もあります。

それでも、朝の光はカーテンの隙間から入り、冷めかけたスープにも湯気が残っています。

「何かにならなければ」と思っていた自分も、もうすでに、世界の中のひとつの違いとして包まれている。

そんな見方もあるのかもしれません。

今日、自分の価値をうまく説明できなくても大丈夫です。

説明できないままの自分にも、そっと椅子は残されています。

◆スープのひとこと

みんな無理に役に立たなくてもいいのかもしれませんね。

何の役にもたたない無駄な発明とか大好きです。

全自動卵割り機とか。

◆おわりに

あなたが「できること」とは別に、ただそのままでいてもいいと思える瞬間は、どんなときでしょうか。

次回もお楽しみに。

🟡次回予告:「もっともらしく生まれて死ぬ――分かったつもりの私達?:AIさんと東洋哲学ごっこ」

👉8/5水曜夜19時〜21時頃公開予定

このnoteでは「AIさんと始める東洋哲学ごっこ」と題して、 素朴な疑問やちょっと哲学っぽいテーマをAIさんに問いかけながら、 “言葉にならない何か”をいっしょに味わっています。

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