教養の意味が、申告書ファイルを見ていてわかった
私は大学の教養学部で、文化人類学を専攻しました。
所属していたのは、超域文化科学というところです。
「超域」という、少し変わった名前がついていました。文化人類学を中心に学びながら、ほかの分野の授業も自由に取ることができました。
教養学部には、そもそも一つの専門の中だけで物事を考えない空気があったように思います。
私はそのまま大学院に進み、文化人類学を続けました。
けれど、学生だったころ、ずっと心のどこかに引っかかっていたことがあります。
これは、何の役に立つのだろう。
文化人類学を学び、フィールドワークをし、物事をいろいろな角度から眺める。面白いとは思っていました。
でも、それが社会の中で何の役に立つのか、私にはよくわかりませんでした。
もっと、わかりやすく役に立つものを身につけたい。
そんな気持ちもあって、私は大学院を離れ、その後、会計を学び、いまは税理士をしています。
税務は、とても実用的です。
相続税の申告には期限があります。財産を調べ、評価し、税額を計算し、申告書を作る。
知識があれば、正確に、効率よく仕事を進めることができます。
役に立つ、ということがとてもわかりやすい世界です。
税理士事務所で使う専用のファイルや帳票を扱っている会社があります。
先日、その会社のカタログを眺めながら、相続税申告書を綴じるファイルを見ていました。
そこに「業界標準様式」という言葉がありました。
業界標準。
へえ、ほかの税理士事務所では、こういうファイルを使っているのかもしれない。
そう思って眺めているうちに、少し気になりました。
業界標準って、なんだろう。
カタログを眺めているうちに、今度はファイルの厚みが目につきました。
厚いものほど、どこか立派に見えます。
さらに、申告書ファイルを入れるための箱まであります。箱に入れると、さらに高級感が出るらしい。
一方、事務所で保管するためのファイルを見ると、ずっと簡素です。こちらは徹底して事務用品です。
同じ申告書を入れるものなのに、お客様に渡す方だけが、少しずつ立派になっている。
厚くなり、光沢がつき、箱に入る。
これは単なる収納用品ではなく、相続税申告という仕事の「成果」を見せるための道具でもあるのかもしれません。
これは単なる収納用品ではなく、相続税申告という仕事の「成果」を見せるための道具でもあるのかもしれません。
では、この「業界標準」のファイルを、目の前のお客様にもそのまま使うのだろうか。
立派で重たいファイルを受け取って、「これだけの仕事をしてもらった」と感じる方もいるでしょう。
一方で、重たいものはいらない、必要なものだけわかりやすくしてほしい、という方もいるかもしれません。
そう考えると、それまで「業界標準」と書かれていたものが、急に一つの選択肢に見えてきました。
そこで、昔のことを思い出しました。
文化人類学では、自分たちにとって当たり前のことを、当たり前ではないものとして眺めることがあります。
教養学部でも、一つの専門だけで物事を考えるのではなく、ときどき別の領域へ出てみることを教わりました。
学生だったころの私は、そういうことが何の役に立つのか、よくわかりませんでした。
効率よく仕事をするだけなら、業界標準のファイルを選んで、そのまま使えばいい。
けれど、目の前にいる一人のお客様を思い浮かべたとき、
本当にこれでいいのだろうか。
と、一度だけ立ち止まる。
いまになってみると、私はあのころ、そういうふうに立ち止まって考えることを学んでいたのかもしれません。
教養の意味が、相続税申告書のファイルを見ていてわかるとは、学生のころには思いもしませんでした。
