御朱印帳を忘れた日
###あらすじ
夫を亡くしたすみれは、変わってしまった自分に違和感を抱えながらも、母としての日常を過ごしていた。
ある日、気になる男性・カンタと鎌倉を訪れるが、御朱印帳を忘れてしまう。
何気ないLINEのやり取りを重ね、少しずつ心を通わせていく二人。
けれど、亡き夫への罪悪感や母としての役割と、ひとりの女性として感じる幸せとの間で彼女は迷う。
一方、カンタには彼を想い続ける女性・美穂子がいる。その存在を知ったすみれの心は、大きく揺れ動く。
亡き夫への想い、新しい恋への戸惑い、母として守りたいもの――。
過去を抱えながらも、人は誰かを想い、ちょっと笑ったり不安になったり、日常を重ねながら前へ進んでいく。
御朱印帳の白紙のページに、新しい1枚をひとつひとつ重ねていくように、人生を組み直していく一人の女性を描いた、大人の恋愛小説。
###本文
◇カンタ◇
彼女は御朱印帳を忘れたのを残念がっている。
鎌倉の弁財天に、彼女と来た。
行き先を教えてくれればよかったのにと、彼女は少し不満そうだ。
小さな違和感が、胸をかすめた。
鎌倉には昔からよく来ていた。
どうしようもなく辛かった時でも、弁財天でお参りすると、なんとか心を持ち直すことができた。
彼女も、子どもが小さい頃に来たことがあると言う。
そうか。子どもか……
離婚して以来、会えていないな…
鎌倉の山道を歩きながら、
未来を約束することは出来ないと少し寂しそうな横顔で告げた。
それを、俺は受け止められるのか。
自分の人生はどうしていきたいのか…
彼女が御朱印をもらいに行くあいだ、
境内で、そんなことを考えていた。
「御朱印、書き置きでもらえたよ」
嬉しそうに、彼女は近づいてくる。
その笑顔に、
俺は思考を止めることを選んだ。
◇すみれ◇
今日の鎌倉行き、デートとは言えないのかな。
LINEでやり取りはしていたけれど、
なかなか会おうとは言ってくれなかった。
だから思い切って、私から
「どこか行きたいな」と誘ってみた。
「すみれ、鎌倉行く?」
そう言ってくれた、しかも呼び捨てだ…
弁財天に行くなら、御朱印帳を持ってくればよかったな、と思う。
行き先を鎌倉としか伝えてくれなかったから…と、ちょっとした不満を口に出す間柄では、まだない私達。
でも私、顔に出てたかな…
鎌倉の山道では、いろいろな話をした。お互いの過去についてや、家族の話。カンタは結婚歴があり、子どももいるらしい。会えていないと、寂しそうだった。枯葉が舞い散り彼のコートに落ち、カサカサと音を立てる。
お互いの服が、擦れ合う距離。
それでも、手は繋いでくれない。
やっぱり、女性としては見てくれていないのかもしれない。
「今日は誘ってくれて嬉しかったな。」
「うん。」
「でもなかなか言ってくれないから、私から誘っちゃったよね?」
「そんなことないよ。」
会話が尽きない。
境内にいる鳩を見て、カンタは突然変な事を言った。
「この鳩、やさぐれてるな…」
「え?」
「反社の鳩だ。」
この人、面白いな。恋愛が冷めても、こんな日常の楽しい会話が出来る人なのかしら?
会話は楽しい。
恋愛って感じはしないけれど。
でもその距離感は私には心地よかった。
弁財天の御朱印は、書き置きだけだった。
なんだ、そもそも選べなかったのね……。
選択の余地がないことに、
どこか、ほっとする自分がいる。
書き置きの御朱印をカンタに見せる。
「すみれは、優柔不断なんだね。」
「うん、そうなってしまうんだよね…」
「まあ、そこが気になるんだけど。」
カンタは笑った。
私はちょっとくすぐったい気持ちになる。
「すみれ、こっちでお金洗う?」
カンタは洞窟を指差した。
「あ、確か子どもたちと来たことがある。楽しいよね。」
ザルに500円玉を入れる。カンタは千円。
「え?しわしわになっちゃうじゃん。」
「前は欲張って、5000円にしたことある。」
「金持ちやん!」
気がつくと笑っている。
「お金増えますように。」
これは2人で初めてのお願いかしら?
「もうちょっと登ると、もう一つ神社あるんだけど…行けそう?」
「えー行きたい!」
坂が続いていた。息切れする。
カンタ、手を引っ張ってくれないかな…くれないな。
ようやく神社に着く。
「すみれ、皿を割る?」
「何それ?」
「かわらけって言って、悪い縁飛んでいけ!って感じだな。」
「悪い縁?どうだろ。やってみたい!」
私はとりあえず、なんでもやりたい派だ。
お参りを終えて駅に向かう。その帰り道、どちらからともなく、コーヒー屋に寄って行こうとなった。
今日はよく歩いた。
2月だったけれども歩けば暑くなったり、汗が冷えて寒くなったり。
コートを脱いで、ほっと一息を吐く。
「すみれ、皿割る力なかったな。」
カンタは私の顔を覗き込んで、揶揄ってくる。
「何回も頑張ったよ。そんなんでご利益あるのかな。」
「あるだろ。」
カンタは優しい。
なんだか名残惜しかったけど、
駅で「またね。」と別れた。
恋の予感?
いやでも、カンタは私のことどう思ってるのかしら?
今日はとても楽しかった。
それだけでいいかなと思った帰り道だった。
鎌倉に行ったあと、ほぼ毎日のようにLINEをする様になった。
「おはよう」や「おやすみ」のたわいもないやりとり。
「すみれ」と名前で呼ばれる幸せ。
日常のちょっとした報告。
無くしてしまってから、ずっと欲しかったものだったのかも。
カンタは私の生活に癒しを与えてくれる存在になっていった。
次のデートは昼下がりのファミレスだった。
誰も私たちの事は気にしてない。
自宅から遠いせいもあり、リラックスしておしゃべりしていた。
カンタは私の話を優しく聞いてくれる。仕事の愚痴さえも笑いに変えてくれる会話。そんな時間が好き。
ふと時計を見たら、3時を過ぎていた。
夕ご飯の支度をしないと、今日は子どもが食べると言っていたはず。
「ごめん。もう、帰る…」
「え、そうなんだ…」
カンタは黙ってしまった。
そのまま、会計のレジに向かう。
背中を追いかける。
まだ友達でいたいけれど…
簡単にできそうな献立…にも頭を巡らせながらも、先に進む覚悟を決めるべきなのかなとも考えあぐねてしまう。
どうしよう…
2人黙ってエレベーターに乗り込む。
カンタはボタンを押して、私に背を向ける。
コートの裾をそっと掴んで、口をつく言葉。
「今日、やっぱり少し遅くなっても大丈夫だよ」
そんなこと言ってしまったら、もう戻れないのに…私の中の本音が顔を出してしまった。
家まで行く道でもやっぱり、手を繋いではくれなかった。
でもそれでよかったのだ。
私は恋愛してよいのか、まだ決められていないのだから。
カンタの部屋に入ったときも、まだ外は明るかった。
「座れば。コーヒー淹れるよ」とカンタがソファをすすめてくれる。
緊張でふざけてしまいそう。
勇気を出して、私は戸惑ってることを伝えた。
「私たち、これでいいのかな…」
カンタはそっと頭を撫でてくれた。
雨の音がする。リズミカルな音を聞くともなしに、聞いていた。
さっきまで、窓越しに光が届いてたのに、どのぐらい時間が経ったのだろう。
終わった後、カンタは言った。
「すみれ、蓋は開けてみないとわからなかったよ。」
「え?」
どういう意味か分からなくて、
私は少し拗ねたけど、笑って取り合ってくれない。
外側から見える私は、真面目な主婦。カンタも女性としては見ていなかったのかもしれない。
実際、自分でもそう思っていた。
その蓋を開けたら、彼にはどう見えたのかとても気になった。
カンタに身を任せた時間、私の頭の中ではメロディが鳴っていた。
自分が思ったより、女として求めていたものは大きかった。それがカンタを満足させたのかも…
いつか答え合わせしたいと、今は心に留めておくけれど。
カンタの本音はまだ聞けない。
こうしてカンタと曖昧な関係のまま、会い続けていた。
今日もカンタの家に行く。
私はコーヒーを淹れて、カンタの隣に座る。よい豆だ、香りが立つ。
向かい合わせよりも、親密にそっと寄り添える感じがする。
ふと、思いついて口にする。
「今度みんなで、遊びに行きたいな」
カンタは曖昧に笑うが、何も言わない。
「ん?どうしたの?みんなでワイワイ楽しくない?」
「すみれはそう思うんだ。別にいいけど。」
すごくわかりやすく、機嫌が悪いように見えた。
「ただ、俺とは予定立てないのにと思っただけ。」
拗ねたように呟いた。
え?私とはタイミング合わないって言ったのはカンタだよね?
と思ったけれど、何も言わなかった。
楽しかった今までの会話、急にモノクロのシーンの様に空気が重くなる。どのくらいの時間、そのまま黙っていただろう。
根負けして、隣りのカンタにそっと寄りかかった。
カンタはごめんね、と手を握りながら言ってくれた。
「すみれを傷つけたいわけじゃないんだ」
カンタは私のこと、好きなんだ…と今更そんなことを思った。
カンタが駅まで送ってくれる。
なんだかちょっとそわそわしてる。
「どうかした?」と聞くと、漫才の番組が気になってるんだって。
なんだ、楽しそうでなによりだわ。
「いつもと逆に私が見送るから、早くお帰り。」
と手を振り、カンタが自転車に乗るのを、眺める。
奴は気が急いたのか、道路を逆走していた。
もう、子どもみたいだわ。
私は1人でクスクス笑ってしまった。
そして、またデートの日。
ショッピングして、試食のコーヒー、アイスを頂いて。それから、公園でおしゃべり。普通のデート。
別れて帰宅する。
家事を片付けながら、
今日は楽しかったな、いっぱい笑って幸せだったなと思った。
そして、ふと気がつく。
私、未亡人だって、忘れてた。
罪悪感?
複雑な申し訳ない気持ちが押し寄せ、カンタとのLINEも少しよそよそしく敬語になってしまった。
平ちゃん、ごめんなさい。
明日はお花を買いに行って、お供えしますと言い訳した。
そして会ってる時は、不穏になったり、思い切り笑ったり。
なぜこんなに感情が揺れるのだろうか…
「こんな付き合い方されたことない」と。カンタに言われた。
「え?」
意味がわからなかった。
カンタは私に何を求めてるのかな…
私は恋愛だけにのめり込む事は出来ない。必死にバランスを取ろうとしているのに、そんな事を言われても…と思う。
私には、捨てられないもの、
変えられないものがある。
母としての役目もそう。
平ちゃんもいつも
「子どもを優先して」て言ってくれた。
自分が病気の時もそうだった。
入院中、娘の誕生日。
「美味しいもの食べといで。」
メッセージをくれたの。
自分は食べられないのにね。
だからその約束はこれからもずっと守るんだと決めている。
でも、カンタは言う。
「すみれのこと、死ぬほどむかつくけど、死ぬほど好き」
その言葉にとまどう反面、私を酔わせるカンタにどうしようもなく引き込まれいく。
私はどうしていけばいいのだろう…
答えは出るわけがないけれど。
いつも通り、帰りはカンタが駅まで送ってくれる。
花びらが舞い散る帰り道。夜風が心地よくて、私たちは穏やかに楽しく話ができた。
私は子どもの話をする。
「ちょっと待ってて」
カンタが自動販売機に向かう。
喉が乾いたのか、飲み物を2本買って、私に1本手渡す。コーラだ。飲めないけど…
「これ、旦那に。供えてあげて。」
「え…」
「すみれは旦那の次に俺を大事にすること。」とカンタが私の目を見て言う。
びっくりして、私のこころの鐘が鳴った。
平ちゃんが亡くなって、喪失感を抱えたこのままの私をまるごと、受け止めてくれるの…と。
カンタも、私の様子に
時が止まったと思ったって。
未来は分からなくても、
今、このひとときを大切したいと心から思った。
夕食の支度をしているとカンタからのLINEの通知にスマホが震える。
なんだろう、と手を洗い、スマホを開く。
自転車に乗ってたらタクシーと接触して、今病院にいると、書いてあった。
え?大丈夫なの?と胸の鼓動が高くなり…収まらない。
心配ないから、大丈夫。と続けて送信がある。
「ママ、お腹空いたー!今日ご飯なあに?」
娘に声をかけられて、我に返る。
「今日はハンバーグ。」
「やったー!」
娘はもう高校生だが、料理はしないし、口ばかりは生意気な甘えん坊さんだ。
気持ちは漫ろになりながらも、再び夕食の支度をはじめた。
スマホはそれからは鳴らなかった。
◇美穂子◇
彼は嘘つきだ。
「美穂子さんの時間を奪ってるね。」と謝りながら、私を思っているような言い方で、損をしないようにね、と言う。
本当に思っているなら、私を求めてくれるはずだ。
その矛盾を感じながら、
その嘘に騙されたふりをするの。
彼に会いたいから。
誘えば会ってくれる、
でも距離は変わらないまま。
わかっていても、そのまま
LINEの送信を押す。
そして、彼と会いたくて少し背伸びをした店を探した。
約束は今日だ。
たぶん、何処でも彼は会ってはくれるだろう、
だけどこれは保険。
「今日はあなたの好きな焼肉。お店、予約したよ」
スマホ画面の彼のスタンプのOKマークが映し出された。
「かんぱい!」
私はビール。彼はホッピー。
焼肉はさすが良いお肉なのか、美味しい。
彼も喜んでくれたみたいで、いい店だねーとしきりに言う。
無邪気なところが私の心をどうにも、くすぐる。
美味しいものを食べる時、嬉しい報告をする時、彼の笑顔はまるで、少年のようだと思う。
これだから敵わないなと、ため息を吐く。
彼は私の仕事の話も、興味を持って聞いてくれる。時には意見がぶつかることも。でもそれが有意義で楽しい時間だ。
だけど、なんだか縮まらない距離。
帰りがけ、コートを羽織る彼の襟を、さりげなく直す。
私の思いに気がつかないでいてほしいと願いながら、彼の背中を見送る。
本当は彼の隣りで笑っていたいし、彼に触れたいけれど。
仕事が終わり、駅で電車を待っていた。
家に帰りたくないな…年老いた両親…父は怒りっぽくなり、母は何回も同じ話を繰り返す。
認知症も始まってるのかもしれない。
さすがに私の結婚の事は言わなくなったけれど。暗い気持ちになる。
仕事があってよかったとつくづく思う。
「仕事終わって、今帰りよ」
いつもなんとなく時間があると彼にLINEを送ってしまう。
すぐに既読がつき、返信もすぐにきた。
自転車に乗ってたらタクシーと接触して、今病院にいると、書いてある。
おどろきながらも、即レスする。
「大丈夫?病院どこ?仕事終わったから、そちらに向かうわ」
「ありがとう。気持ちだけで嬉しいよ。大丈夫だから、家に帰りな。」
と病院の名前は書いていない。
どうしようか…
とりあえず、彼の顔を見ないと安心出来ない。
彼の家の方面の電車に乗ろうと、私はホームの階段を降りた。
彼のマンションの前で待っていた。
5月の良い季節でよかったが、仕事帰りでやっぱり疲れている。足も痛い。小一時間くらい経っただろうか、彼がこちらに歩いてくる姿が見えた。
家に行くと、連絡は入れていない。
彼は誰かわからない様子で、私を見る。近づくにつれて、私とわかったのだろう、驚いてるようだ。
「美穂子さん、どうした?」
「どうしたもこうしたも、心配で。病院おしえてくれないから、ここで待ってたら、会えるかと。」
見たところ、彼は怪我はひどくないようだ。擦り傷だったんだ、よかった…
彼は少し戸惑っているようだったが、一息ついて言う。
「うち、寄ってく?コーヒー淹れるよ」
私、この言葉待ってたんだ…
エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
彼の後ろ姿にそっと近づき、
「どこ怪我したの?腕?」
さりげなく、左腕に触れた。
「ああ、大丈夫だよ。自転車は壊れたけどね。」
彼は振り返り少し笑った。
「お邪魔します。」
靴を揃えて、部屋に入る。
彼がコーヒーを淹れるために、
ポットに水を入れていた。
手首が痛そうだ。
「私やるわ。粉どこ?」
私は尽くすタイプなのだと自分でも知らなかった。気がつくと、身体が動いてる。
マグカップにコーヒーを注ぐ。
「コーヒー入ったよ。」
彼がテーブルに座り、淹れたてのコーヒーを向かい合わせで飲む。
少しの沈黙…
私から切り出した。
「酷い怪我じゃなくて、ほっとしたわ。顔を見れて安心…」
「心配してくれてありがとう。俺も美穂子さんの顔みたら、気が緩んだわ」
彼は安心したように微笑む。
ふと、時計をみる。
終電ギリギリだ。彼は送って行くよとは言わなかった。
ゆっくりと時間が過ぎてゆく。時計の音が大きく感じた。
翌朝、洗面所に立つ。
昨日は気がつかなかったが、バレッタがおいてあった。
息が止まりそうになる。
彼を問い詰める?そのまま知らないふり?見たくなくて、勝手に適当に引き出しにしまう。
でも気になり、つい切り出してしまった。
「洗面所のバレッタ…がある…」
彼はよくわからない様だ。バレッタって言葉、知らないのかもしれない。
「なんでもない」と強がってみたけど、涙が出てしまう。
彼の困り顔もかわいいなと、私は泣きながらも、冷静な自分もどこかでわかっていた。
◇すみれ◇
いつも揺れてしまう私。
カンタが困っている時にも動けない私。動かない私。
彼女に負けてると思う。
事故の後、すぐにカンタの顔を見にきてくれたと言っていた彼女。
洗面所に置いておいたはずのバレッタがなかった。カンタに「バレッタ知らない?」と聞いたのだ。
「そういえば、あいつも何とか言ってたな」ぶつぶつ言いながら、その辺の引き出しを開けて探す。
「これかな?」
私は黙ってバレッタを受け取る。
そして「あいつって誰?」と口を開いた。
カンタの仕事をたまに手伝い、2人きりで食事したりもするらしい。付き合ってるわけではないという。仕事も出来るし、人として好きなのだと。
人として…それって、私からすると、褒め言葉にしか聞こえない。 事故の後、心配で家に来てくれたから、とりあえず家には上げたよ、とあまり悪びれない様子でカンタは告げた。
主婦の私より、人間的に魅力があり、自由のきく女性。私がかなうわけはない。それは悔しくて、口には出せなかった。
未来がないと最初に話していた。
そんな私が、カンタの行動に制限かけられないと思いつつ、
「悪いこと、してない?」と確かめてしまう。
せめて、そのぐらいは許して欲しい。
私はただの取り柄のない女なのだから。
カンタは困った様に笑う。優しいのか、酷い男なのか。嘘を吐くつもりもないんだろう。正直なのだ。それが私を傷つける。
彼女の職場に来てしまった。
デパートの店舗に勤めてると聞いた。
カンタには何も言っていない。
ブランドの洋服を着こなして、颯爽と顧客対応やマネージメントをしてるのだろうか。
それに比べて今日の私の服装、お店に似つかわしくないカジュアルな格好で来てしまった。
店舗の客としては、違和感があるかもしれない。明るい照明の下では、コートの毛玉や手抜きのメイクも気になる。完全に気後れしてしまう。
カンタの名前を出して、仕事を手伝ってくれて、ありがとうとお礼を言えば、彼女はどんな顔をするのだろうか。あるいは事故の後のカンタの様子を、聞いてみるとか。
店にさえ入る勇気がないのに、言えるわけがない…か。
何かを変えたいわけではない…
ただ確かめたいのかな、彼女の思いの強さを?
でも、それによって私とカンタの距離感も変わってしまったらと思うと、怖くて。
もう、カンタがいない時の自分には戻れないから。
自分が幸せである事に気がつかないで、ちょっとした不平不満を呟いていた日常。本当はそのままの平凡な主婦でいたかったと切実におもう。
旦那がいなくなってしまった後、無我夢中で毎日をこなしていた。
そんな日々を過ごしてるうちに、気がついたら今までの価値観が全て変わってしまっていた。
変わってしまった私に誰も気が付かないし、誰にも気付いても欲しくない。
ただそこで途方に暮れた私がいた。
そんな心の隙間にカンタは入ってきたのだ。
カンタは私にとって安らぎとともに、不穏を呼び起こす存在になった。
戻った方が楽かもしれない。母である私、愚痴を言いながらも仕事を漫然とこなす私に。
でももう戻れない。そして蓋を開けて箱の中を覗いてしまった私たちは、お互いに依存してその状態から抜け出せない。
そんなことを考えながら、向かいのカフェでコーヒーを飲んでいた。
店内は落ち着いた薄明かりな雰囲気で、ゆったりとした音楽が流れている。向かいの店舗の光が、こちらからは明るくみえる。
冷めてしまった、コーヒーを飲み干す。酸味がどうにも苦手に感じた。
もう一杯だけ、カフェ・オ・レを注文してこよう。今の私には甘い味が必要だ、そして嘘でもいい、甘い言葉も。
カンタにLINEを送る、
白々しいほど、甘えている言葉の切れ端を。
スマホの待ち受け画面を眺める。
カンタの返信がきた。
「すみれはかわいい」
安心する。
続け様に、「優柔不断なところが」
思わず、息を呑んだ。
最初のデートでも、少し呆れた様に言われたことを思い出した。
温かい飲み物は私の心を癒してはくれるが、答えはくれない。
どうすればいいかはわからないけれど、自分から動いてみる?
私は居心地の良いカフェのソファから立ち上がり、向かいの店舗にむかった。
「いらっしゃいませ」
と声をかけられる。店員は2人いた。若い子と私と同世代ぐらいの女性と。この人だろうか…わからない。
とりあえず、ハンガーに掛けてある洋服に手をかける。
「何かお探しですか?」若い子が接客してくる。
そういえば…息子の結婚に向けて、両家の軽い顔合わせがあるのだった。
若い子に相談してみると、すぐに同世代ぐらいの女性が対応してくれた。
「それほどかしこまったお席でないなら、こちらのワンピースはいかがですか?」
いつもの私よりはお出かけ着だが、着心地良さそうで、シンプルな黒の素敵なワンピースだ。アクセサリーをつければ…華やかになるだろうか、など考えながら、試着する。
これにしようか…
試着室からでると、彼女に声をかけた。
「どうしようかしら…」こんな時でも優柔不断だ。買うつもりなど無かったが、思ったよりもずっと素敵だった。
「お似合いですよ。」
ワンピース、いいけれど…高い?
この女性がカンタの…?部屋に来た?
思考が乱れる。
もう、やけくそになり、「こちらにします」と告げる。
「ありがとうございます。お顔合わせ楽しみですね。」
ワンピースを受け取る彼女の腕に、金のブレスレットとカルティエの時計を見てしまった。あー、やっぱりバリバリ働いてる人は素敵だな。素直にそう思うけれど、胸の奥がチクリと痛む。
きっとこの人なのかもしれない。確かめることは出来ないけれど。
◇美穂子◇
あの人だ…
とすぐにわかった。
自分の店舗のテイストとは全く違う、
ナチュラルな服装だった。たぶんデパートでは買い物し慣れていない様子の女性。
なんとなく探るような雰囲気で、私達店員を見ていた。
そして、彼の家で見たバレッタで髪を纏めていたので、確信した。
息子さんの結婚か…
穏やかそうなよいお母さんなのだろう。
彼はあの人に私が家に泊まった事を話したのだろうか。彼はあの人には癒しを求めているのかもしれない。そして、私には何を求めているのだろう。
私たちはお互い独身、孤独な時間を共有するだけの?
私も結婚をして、こどもを持つ未来はあったのだろうか。そういうご縁には恵まれなかったけれど。
気がついたら、お腹に手を当てていた。
数年前の病気の事を思い出した。
寂しいな…
「美穂子さん、どうかしました?
何度も声かけてるのに…」
「あ、ごめん。ちょっと、人生考えちゃってたわ」
「え?何言ってるんですか?美穂子さん、憧れなんだからやめてくださいよ。今日はご飯いきましょ!」
そうだ、今日は飲みに行こう。ままならない恋も、のしかかる親の介護の問題、モヤモヤすること全部発散してしまおうと決めた。
◇すみれ◇
そのまま電車にのる。
コーヒーの飲み過ぎで、お腹が重いが、心が重いのか、区別さえつかない。窓に映しだされる自分はとても疲れていて、目を逸らしたくなる。
恋愛経験の少ない私は、別れの空気感さえもわからないと、ふと思う。
今の状態はどうなのかがいつも気になり、カンタに不安をぶつけていた。
線路沿い、家が通り過ぎてゆく。
そういえば、昔、線路沿いに住んでた女の子、娘の大好きなお友達がいたことを思い起こす。
当時周りに女の子がいなかったので、おままごとしたり、女の子らしい遊びをしてる娘の笑顔が嬉しかった。
でも親の事情で、遊べなくなってしまった。
母親の私としてはとても残念で、喪失感さえ感じていた。
けれど、娘は最初のほうこそしょんぼりしてたが、そのうちに男の子と滑り台したり、楽しそうに笑うようになっていた。
その笑顔は前とは違う笑顔に思えた。
依存と愛情の区別がつかない。
今の自分はどこに属しているのだろう。彼女への嫉妬、カンタへの不安、
自分の空虚感、それもみな、執着なのだろうか。
滑り台で遊んでいた、あの小さな娘のように笑いたいけれど…
流れる景色を見ながら、そんな考えが浮かんだ。
そうだ、弁財天の御朱印、貰って満足して、まだ帳面にも貼ってもいなかったはず。
家に帰ったら、きれいに貼ることにしよう。
まずは、それからだ。
そして、新しく御朱印を集めていくのだ。
一冊終わる頃には、変わってしまった私を、認めてあげられるように、積み重ねていこう。
自宅の最寄りの駅に降りる。
不意に後ろから肩を叩かれた。
振り向くと旦那の飲み友達の男性だった。
「すみれさん、久しぶり」
様相があまりにも変わっていた。痩せていて、顔色がよくない。肝臓かも?と思う。
が、そんなことは言えない。
飲み屋のマスターだから、お酒はやめられないんだよねーと彼は笑う。「あんまり飲み過ぎて、俺みたいにならないように…と旦那が言うんじゃない?」と私は指を天にむける。
ほどほどにね、と彼と別れた後、旦那も、タバコやめられなかったなと思い出す。
男は弱いのか…病気の自分を認めて向かい合うのは、出来る人もいるだろうけど、それが出来ない人もいる。
仕方ない。
当事者になってみないと、わからない事はあるんだ。
でもカンタは自分でお酒やめたって言ってたなと、比べてるわけでもないけれど、そんな事を考えながら家までの道を歩く。
御朱印帳、どこに置いたかな。
家に着いてひと通り探してみる。
平ちゃんと病気平癒のお守りを返した時に使った、カバンの奥から出てきた。
上野の不忍池、ハスの枯葉ばかりで、すごく気味が悪くて、2人で苦笑したんだっけ。
その時の私は守られていることさえ、気が付かなかったのだ。
平ちゃんは私の土台だった。
もう以前のように、守ってくれる人はいない。
カンタは私を揺らす人なのだ。それは心地よいときもあれば、しんどいときもある。
それを続けるのならば、私は自分を支えていかなければならない。
その始まりの儀式のように、御朱印帳を取り出す。
平ちゃんと行った神社の御朱印をめくる。
あまり遠くへは行けなかったけど、
一つ一つ思い出がよみがってくる。
この日は珍しくオシャレなイタリアンに行ったんだ。
「すみれ、飲みなよ。」
自分は運転だからと、私にだけスパークリングを勧めてくれた。
あ、この日は帰りに甘酒飲んだんだ。
なんとなく、空虚さが襲ってくる。
平ちゃんを思い出すと、こうなるのだ。
何も知らなかった私と、知ってしまった私とのギャップが私を孤独にさせる。
それをかき消したくて、冷蔵庫にいきビールを取り出す。
「ビール、ビール」
元気を出したくて、独り言を言う。
平ちゃんが入院中は大好きなビールをやめて、願掛けしてたんだった。
亡くなってから、飲んでも味がしなかった。
でも今は、ビールを仕事終わりに飲む事は、私に小さな幸せを与えてくれる。
それだけでも1番辛い時期は過ぎたのかもと思えた。
プルタブを開ける音、いつもの私の時間。
そしてテーブルに座り直して、御朱印帳を開く。
ようやく白紙のページだ。
まだなににも、染められていない。
鎌倉の弁財天の御朱印に糊をつけて、皺の無いように丁寧に貼り付けた。
物差しで何度も擦り、空気を抜いていく。
私の蓋も開けたり閉めたり、コントロール出来ればいい。そうすれば、深く呼吸ができて生きやすくなるのかもしれない。
子どもたちが帰ってくるまでは、私は1人の女でいてもいいだろう。カンタの返事はきているだろうかと、LINEの画面を開く。
ただ、今は自分の孤独を遠くに押しやるように、心の蓋を開く。
カンタの優しい言葉に、思わず微笑みを漏らした。
もう一口、ビールを流し入れた。
◇カンタ◇
すみれに旅行に誘われた。
子どもが部活の合宿で留守にするから、一泊くらい出来ると言っていた。
「行き先は箱根でどう?」
もちろん、俺に異論はない。どこでもよかった。
それにしても、すみれは掴みどころがない。急に甘えてきたり、と思えばそっけなくしてきたり、振り回されてる気がする。
しかも最初の頃こそ、亡くなった夫のことを話さなかったが、俺が別に話してもいいよと言ったら、タガが外れた様に名前を呼んで夫の話をする様になった。
本当にいいのだ。
だけど、この女は時々驚くほど無邪気だ。俺がどう思うか考えてるか、いないのか。悪い意味で素直すぎる少女の様だ。
「女子校育ち?」と聞いてみたが、
「え?共学だけど…」
話が通じなくて苦笑するしかなかった。
新宿駅で待ち合わせて、ロマンスカーに乗る。すみれがお弁当を作ってきてくれた。
「大したものじゃないけど…」
おにぎり、卵焼き、鶏ももの甘辛味。
そんな平凡なメニューが一番いい。
美味い…と言うと、
「これぞ、安定の家の味」
とすみれは笑った。
ロマンスカーの横並びのシート、すみれが嬉しそうに、おにぎりを勧める。もう一つ、手に取った。
◇すみれ◇
今日と明日はカンタと一緒にいられる。いつもは時間に追われ、どうしても自分の役目や世間体が気になっているが、この二日間は何も考えないと決めたのだ。
箱根はフリーパスを購入した。ロープウェイ、遊覧船、バス乗り放題。
パンフレットとにらめっこしながら、行き先を考える。
やっぱり神社には行きたいな…
御朱印帳も持ってきてある。
「御朱印思い出になるから、集めるのが好き。カンタは、最初のデートでももらってなかったね。」
「そうだっけ?」
カンタは覚えてないのか…
この人は何を大事にしてきたのだろう、ふと思った。
隣のカンタとの距離感は心地よく、窓の外は曇り空だった。
「こんな天気も好きなんだ。」カンタに寄りかかった。
遊覧船を降りて、芦ノ湖の側の自然道を並んで歩いていた。
こういう道を歩くのは、好きだ。
木の香り、マイナスイオン。カンタもどこまでも歩きたいと言う。
嬉しい発見。知らなかったわ。
共通の趣味があったら、素敵。キャンプ行ったりしたいね、と会話も盛り上がる。
箱根神社の鳥居に到着した。
「大きいねー」見上げてから、お辞儀する。
参道にはお店が並んでいる。オシャレなパン屋、腸詰屋etc。
何かお土産欲しいな…記念になるもの
を。
寄木細工のお店があり、2人で入ってみた。
「いらっしゃいませ」
寄木イヤリング、ネックレス、などなど色々ある。しかもお手頃価格だ。
一つのネックレスが目に止まる。四角くてかわいい、
なんかほっこりする。
こういう時、私は優柔不断だ。悩みながら、店員さんと話していると、いつのまにかカンタが外に出ていた。
もうちょっと悩みたかった。でも外にいるカンタも気になる。
「えい!」と決断し、ネックレスとコースターをチョイスし、慌てて会計を済ませて店をでた。
カンタと一緒に選びたかった…
キーホルダーとネックレス、お揃いにしたかったな、と思った。
カンタは、待ちきれなかったのかな。一言言ってくれればいいのに…。
軽い口調で、文句を言った。
「一緒に選んでほしかったのに。」
「…すみれは優柔不断だから…待てないよ…」
それはそうなんだけど、何かお揃いの物が欲しかったのに…とは言えなくなってしまった。
長い階段を登って、境内を目指す。
「これはなかなか…キツイ。」
カンタは一歩先にいく。
足取りは軽い。普段からウォーキングをしてるらしい。
カンタの背中を見る。
カンタは私が結婚することは出来ないということを、どう考えてるのだろう。
いつも側にいられる女性と、真剣に関係を紡いだ方がいいのではないか。
あのカルティエの時計の女性が、頭に浮かびそうになる。
振り返れ!と念を送ってみた。
「すみれ、運動不足だなあ」
カンタは振り返り、笑う。
「いや、これからだし!」
ダッシュポーズで駆け上がってゆくポーズをとるが、悲しいかな、身体がついていけない。思わずつられて笑う。すると彼女の面影も自然と消えてゆく。
朱塗りの社殿に着いた。人が多くて賑やかだ。パワースポットだと思うと、全身でご利益を受け取りたい。大きく息を吸う。
まずはお参りしないと、御朱印もいただけない。
いつも願う事は同じ。天国の平ちゃんが穏やかに過ごしてますように。
私と子どもたちが平穏に過ごせるように。
そして、新しいお願い事。隣にいるカンタとよい関係で過ごしていけますように。
カンタは何を願ってるのかしら?
彼の横顔をちょっと覗いてみた。
「バチ当たりだろ?」
心の声?平ちゃんの声?
私は神妙にして、静かに手を合わせ直した。
「御朱印いただいてくるね。」
カンタに告げてから、列に並ぶ。
久しぶりに御朱印帳を開く。
だいぶ埋まってきた。一冊終わるにはまだまだだけれど。
平ちゃんと行った神社は、元号が平成!
時の流れを感じずにはいられない。そして最初のデートの書置きの弁財天の御朱印。一年も経っていないのに、だいぶ前の事の様に思う。
お守りもいろいろあるなあ。見ていると寄木のお守りを見つけた。
和合守(なかよしまもり)だ。
ペアだ…
ベタすぎるかしらと思いつつ、手に取った。
「御朱印、もらえたよ。」
カンタを見つけて、小走りで駆け寄って行く。
ロープウェイを乗り継いで、ホテルに向かう。カンタは高いところが苦手みたいだ。
「すみれ、怖くないの?」と聞かれても…
「えっ?別に…」
と言うしかない。
その顔を見てたら、笑いがこみあげるけど、我慢しないとね、
カンタは真剣だから。
駅からの徒歩も、迷いながらもあーでもない、こーでもないと、楽しい。不思議だ。2人でいるだけなのに。
荷物がないっていうのは、こんなにも気楽に楽しめるんだ。大事な大事な荷物なんだけれど…
ホテルに到着。チェックインを済ませて、部屋に入る。
なんか、ドキドキしてしまう。
「お風呂、いっぱい入ろうねー。」
照れ隠しに明るく言った。
◇カンタ◇
大浴場の前で
「じゃあ、45分後くらいで」とすみれと別れた。
今日は朝早くから、よく歩いたなと思う。
脱衣所のカゴの中のスマホの通知音が鳴る。
美穂子からだ。
とりあえず、放っておこう。
温泉が嫌いな日本人はいないだろうが、この年になると効能が染みる。
風呂が楽しみだ。
すみれの無防備で思った事をすぐ口に出す性格。悪く思ってしまう時もあるが、俺も今日は余裕があるのか、気にならずに2人で過ごす時間が楽しい。
45分後、6時ちょっと前か。すみれはたぶん、遅れるだろうな…
大浴場の前の休憩所で、まだ濡れた髪のすみれがちょこんと、座っていた。
「時間足りなくて、髪を乾かしきれなかったよ。」
すみれが髪に手をやりながら、軽い口調で文句を言う。
俺を待っていてくれたと思うと、妙にくすぐったい気持ちになってしまった。
「だから遅れると思ったんだ。」
「意地でも間に合わせたよー。」
「そこ、頑張るところか?ちゃんと拭かないと、風邪ひくぞ。」
知らない間に自分が笑っている事に気がつく。
◇すみれ◇
「バイキングって食べ過ぎちゃうねー。もうお腹いっぱい。」
自分のお腹をさすり、カンタのお腹にもちょっと触れてイタズラする。
ホテルの中を歩くのも、2人だと楽しい。私たち、方向音痴?室内でもあっちだ、こっちだと、迷ってる。
すると、ライトアップされてる中庭を見つけた。行ってみたいな…
「すみれ、あそこに寄ってこう。」
カンタが中庭をあごで指す。
外は夜だとちょっと冷える。肩を竦ませる。ライトアップされたベンチがあり、並んで座った。
今かな…
丹前のポケットには、箱根神社で買った、和合守が入ってる。
「写真、撮ろう。」
カンタは意外に写真が好きなんだ、とちょっと意外に思った。
「はい、チーズ」
「次は、変な顔して!」
「えー?」
私は笑いが止まらない。
すると、カンタは急に真顔になって、
「さっき、風呂上がりにすみれが俺を待ってるのを見て、すごく嬉しかった。」
え、普通の事だよ…と思ったけど、カンタはそんな風に感じてたんだ。
素直に話してくれたことに驚く。
あらためてカンタの顔を見上げる。
今なら、私もさりげなく渡せるかも。
「これ、神社で買ったんだ。片方持っていて。」
和合守の一つをカンタに手渡した。
カンタは「ありがとう。」と受け取った。
私たちはしばらく黙って手を繋いでいた。
部屋に戻った。
ベッドに転がりながら、テレビをつけてゆっくりする。
そしておしゃべりする。平ちゃんはあまり話すタイプじゃなかった。
カンタはよく喋る。どちらがいいというわけでもなく、ただ違うと思った。
カンタは、私の何気ない一言を気にすることがあるみたいだ。
平ちゃんは私の話なんて、全く聞かなかったと話すと、
「すみれがなんか言っても、俺も旦那みたいに無視するわ。」
と言い出す。
「えー、やめてよ。」
と笑って答えた。
でも絶対、そうはしないだろうなと思った。平ちゃんには平ちゃんの、カンタにはカンタのその人らしさがあるから。
でもその2人が私の悪口言ってたらなんて想像したら…は不謹慎かしら?
いいよね?お二人さん。
◇カンタ◇
「おはよう。お風呂行こ。」
すみれに起こされる。…昨夜の余韻が、まだ残っていた。
けれど、すみれは完全に風呂モードだ。
「温泉は朝ごはんの前が最高だよね。露天風呂楽しみ。」
「すみれには敵わないな」
と苦笑しながら、身体を起こした。
窓から外を眺める。雲が重くたちこめていた。今にも降りそうだ…
そして朝もバイキング。
やはり食べ過ぎた。部屋に戻るのも苦しい。
「うちら学ばないね。」
「何が?」
「腹八分に出来ない。でも、平ちゃんもそうだったからな。」
すみれがため息を吐いた。
「旦那と仲良くなれそうだ。」
思わず2人で笑った。
チェックアウトして、外に出る。
細かい雨が降っていた。
傘は1本しかなかったから、2人で入った。
「チャペルのまえに鐘があるよ。」
敷地内の結婚式用だろう。すみれが近づいていくので、付いていく。
雨の中の、チャペルの鐘…
誰にも祝福されない自分たちの様だと思った。
すみれは
「鳴らそう、鳴らそう。」とはしゃいでいる。
ああ、それでいいのか、すみれが笑っていて、自分もそれで満たされる。
肩を濡らしながら身を寄せ合って、鐘を一回だけ思い切り鳴らした。
「カンタは私の心の鐘を鳴らしたんだよ。わかってる?」
「そうだった。」
「…ありがとう。」
すみれは照れながら、けれど少し真面目な顔でお礼を言ってくれた。
◇すみれ◇
ロープウェイとバスを乗り継ぎ箱根湯本まで来た。黒たまごも食べて、雨の大涌谷を覗いた。
まあ、箱根を満喫できたと思う。
カンタと2人で、いっぱい笑って過ごせたし。
湯本のお土産物屋が列を連ねるアーケード。小雨が降っているので、屋根があるのはありがたい。
カンタは買い食いが意外と好き。
これも発見だった。
蒲鉾やお饅頭などなど買って、半分こにする。いろいろな種類が食べられて、嬉しい。
「お土産も買わないと…」
子どもはともかく、職場や義実家には買わなければ、と物色し始めた。
気がつくと、カンタが外に出ていた。
寄木の店の件を思い出して、慌ててLINEを送る。
「もうちょいだから、待っていて。」
「はーい」
一安心。会計に並ぶ。
そうだ、子どもたちに干物買っていこう。
出口で待っていてくれたカンタに、「お待たせ。」と声をかけた。
「子どもたちに干物も買いたいの。もうちょっとさきに行ってみよう。」
「わかった。」カンタは頷いた。
しばらく歩くとお団子屋さんがある。
「カンタ、お団子半分ずつにしよ。」
話しかけても、
「いや、いいわ。」
ん?どうしたのだろう、さっきまでは、色々食べたがってたのにな。
お腹いっぱいなのかな?
少し歩くと干物屋があった。
子どもたち喜ぶかな。
「ちょっと見てくるね」とカンタに言い残して、お店に入っていった。
◇カンタ◇
すみれの気持ちはもう家に帰ってるんだろうな、と思った。
子どもたち、義実家、職場。
考えることは色々あるのだろう。
俺は?
なんて言って、困らせたいわけではない。
だけど、笑えない自分がいた。
干物屋の店には入らず、出入口の脇に立っていると、スマホの通知音が鳴る。また美穂子からだ。
一応返信しとこうか。
「今、箱根。もうすぐ帰る。」
いいねのスタンプが送られてくる。
「温泉饅頭欲しいなあ。」
了解のスタンプを送る。
会う約束は、俺も美穂子からもしなかった。
すみれが手招きする。
無視したかったが、結局根負けして店に入った。
「お土産、お魚トクトクセットが、これなんだよ。どうしよう。」
すみれが小さめではあるが、発泡スチロールの箱を指差す。
「これ、私担いで帰るの?」
すみれは本気で困っていた。
思わず、吹き出してしまった。
◇すみれ◇
結局、干物トクトクセットを担いで、ロマンスカーに乗り込んだ。
「ロマンスカー?こんな箱担いで、ロマンスなんかないじゃん。」
私がぶつぶつ言いながら、網棚に発泡スチロール箱を乗せる。カンタも後ろから手を添え手伝ってくれた。
「ありがとう。旅行楽しかったね。」
座席に落ち着き、カンタに話しかける。
ロマンスカーがゆっくり動き出した。
「カンタはお土産買えたの?」
自分の事に夢中になって、頭から抜け落ちていた。
「うん、箱根に行ってると言ったら、温泉饅頭買ってきてって言われた。」
「そっか。」としか言えなかった。
カルティエの彼女かな…
黙って窓の外を眺める。
湯本を歩いていた時より、雨脚が強くなっていた。
ふと、気になってことを思い出した。
「お土産見てたとき、なんか機嫌悪かった?」
カンタは少し考える様子で、軽く頷いた。
「なんか、すみれは早く帰りたいのかなと思って…」
「うん…あんまり遅くなるとごはん作れないし…」
話しながら気がつく。
あ、頭の中は家の事、私が母としてやらなければならない事、になってたんだ。
「カンタ、ごめんね。」
「いや、すみれにはすみれの生活があるのはわかってる。
俺には俺の生活もね。」
私たちはお互いの生活には、踏み込めないのだと、悲しいけど、ちょっとわかってしまった。
でもね、旅行がすごく楽しかったのは、本当のこと。
私たちはどこに着地していくのかな。
考えても仕方ないことだとわかっていても、そうせずにはいられない。
ため息を吐いて、隣のカンタの横顔を見上げた。
外の景色が、山から住宅地に変わってゆく。
この辺り、新婚の時に住んでた場所だ。あの頃、当たり前だけど若かったな。
平ちゃんの友達が偶然か必然か、近所に集まって住んでいた時期があったのだ。毎週焼肉、鍋、理由もなく集まり、飲んでいた。楽しかった、
今でも年に数回集まり、その頃の思い出話を擦って擦って、盛り上がってる。
もちろん、平ちゃんも参加。コンパクトな遺影、モバイル平ちゃん。
その頃の自分は、30年後に違う男の人が隣にいるなんて、思うわけもなく…
「この辺に昔住んでたの。楽しかったよ。」カンタに話しかけた。
「そうだ、私が渡した御守り持ってる?」
「おお、何処かな…」
カンタがポケットを探る。
「あった!」
カンタは手のひらに御守りを出した。
「よし!がったい!」
私はカンタの手のひらの上で、自分の御守りを合わせた。
「これでこそ、和合守だよ。」
「おもちゃかい!」
カンタがツッコミを入れる。
「それ、気持ちいいわ。」
私たちは笑っていた。
カンタも
「旅行楽しかった、また行こう。」
と言ってくれた。
「うん。また行こうね。」
もうすぐ新宿だ。
網棚を見上げる。
あの、発泡スチロールを担いで帰るのか…自分ながら、スマートにはなれない私に、呆れてしまう。
だって、主婦だから…ね。
帰りはやっぱり荷物が増える。
◇カンタ◇
新宿ですみれと別れた。
家に戻ろうと電車に乗る。LINEの通知音が鳴る。美穂子だ。
美穂子はいつもタイミングがいい。
「戻った?お饅頭は?」
迷ったが、渡してしまおう。早い方がいいだろう。
待ち合わせのファミレスでは、美穂子が先に来ていた。いつも彼女はそうだ。
「美穂子さん、お待たせ。」
「全然…箱根どうだった?」
「うん、雨が降ってた。」
「あ、残念だね、でもこっちも雨…」
美穂子は話を続けている。
「忘れないうちに、これ。」
カバンの中を探って、温泉饅頭をわたす。
「ありがとう、この黒糖がいいのよ。
親も喜ぶわ。」
和合守かカバンの内ポケットに入ってるのが、目に入る。
「がったい!」すみれの笑い顔がうかぶ。
すみれは家に着いただろうか。
発泡スチロールとともに、と思うと、ちょっとおかしかった。
気持ちがすみれと一緒にいた箱根に戻っていた。我に返り、目の前にあるタブレット端末を手に取った。
「とりあえず、注文しようか。」
美穂子に話しかけた。
◇美穂子◇
彼は上の空のように見えた。
旅行、誰と行ったのか聞いても、自分が辛くなるだけだろう。
温泉饅頭を受け取り、お礼を言って彼を見るとカバンの中を覗いて、なんだか笑っているように見えた。
ああ…楽しかったんだろうなと胸が痛くなる。
でも、すぐに私を見て、注文を促してくれた。
「私、とりあえずビールにするわ。」
彼と会うのは嬉しいけれど、少し辛い。
「ドリンクバー、あなたの分取ってくる。アイスコーヒーでいいよね。」
「ありがとう。」
席を立ち、彼の好みの飲み物を取りにいった。
離れた場所で、ため息をひとつ吐いた。
ライトに照らされ、ガラスのコップがちょっと綺麗に光っていた。
私、ちゃんと笑えてるかな…
◇すみれ◇
「ただいま。」
鍵を開けて玄関に入る。
あ、まだ誰も帰ってないのか…
ちょっとホッとする。
悪いことをしてるわけではないけど、一息ついて母の顔に戻って、子ども達を出迎えたいのだ。
荷物を片付けて、洗濯機を回す。
あ、干物干物。やっぱり脇に抱えたり、前で持ったり大変だった。
箱を開けて、今日食べる分だけ室温に戻し、残りは冷凍庫に入れる。
発泡スチロールの箱を片付ける。
ちょっと前は恋を続けていくのが、不安で今よりもっと罪悪感もあったけれど…
蓋を開けたり閉めたりするように、私の心を恋人モード、母親モードにできるといいなと思っていた。今はバランスをどうとれているのか、自分ではわからない。
でも、魚が入った発泡スチロール箱で、そんなこと思うなんてね…
自分の生活感に苦笑する。
ほんとは宝石箱を想像したいんだけどね。
ちょっとした付け合わせのサラダを作りながら、そんなことを思った。
カンタにも干物焼いてあげたいな、喜んでくれるかしら?それとも
「焼くだけだろ!」ってツッコミ入れられちゃうかな。
思わず笑いながら、グリルのスイッチを入れた。
数日後にカンタからLINEが入った。
「旅行、お疲れ様。干物美味かった?」
まず、干物かい!と1人ツッコミする。
「焼くだけだから、バッチリ!」
「よかったな。発泡スチロール、担いだ甲斐があったな。」
「笑、まあね。」
軽いLINEのやり取りを終えて、御朱印帳を眺めてみる。
よく集めたな…
今回の箱根は二つだけしか御朱印いただけなかったけれど、思い出はいっぱい出来た。
箱根神社がちょうど最後のページだった。
大きくため息を吐く。
そして帳面をひっくり返す。
1ページ目は白紙。
まるで人生の後半戦みたいだなと思った。今までの表面は過去。
それはそのままにあるのだ。
私はこれから、どんな風に生きていくのかな?
ビールを飲んで、愚痴を言って、それでも笑って、そんな毎日を重ねていこうか。
私の願いはいつも同じ。
家族、子どもたちの平穏。
それを平ちゃんが穏やかに見守っていてね。
そして、彼と良い関係を続けていけますように。
◇美穂子◇
最近、仕事が忙しい。
バーゲン時期は体力勝負だ。その後はすぐに秋冬の新作が入ってくる。
忙しさを理由に、しばらく彼には連絡せずにいる。
LINEが鳴る。後輩からの誘いだ。
「美穂子さん、今日大丈夫ですか?
バイヤーも来ますよ!」
了解のスタンプを返す。
後輩や取引先の男性と飲みに行ったり、プライベートもバタバタと忙しくしている。
彼と会うと、たぶんペースを持ってかれてしまう。それはまだちょっと苦しい。
秋の新作、どんなものが入ってくるかな…
今度は自分のための、素敵なワンピースでも一着買おうと決めた。
◇すみれ◇
「ママ、支度出来た?」
「うん、あとちょっと。」
今日は、息子の結婚する相手家族との顔合わせの日だ。
息子は就職と同時に家を出て、彼女と暮らし始めている。今は同棲が先なのがトレンドみたいだ。直接お店に行くらしい。
以前、デパートで買ったあの黒のワンピース、初めて袖を通した。
「やっぱり、素敵…」
あの時買ってよかった。
アクセサリーはどうしよう…
最近、婚約指輪をリフォームして、ダイヤモンドのネックレスがある。
それをつけてみようか。
「どうかな?平ちゃん。」
仏壇に手を合わせる。写真のモバイル平ちゃんをカバンに入れる。
カンタにLINEを入れる。
「顔合わせ、ドキドキする。行ってくるね。」
頑張れのスタンプが送られてくる。
うん!
「よし、ゆいな、支度できたよ。」
「モバイルパパ持った?」
娘が部屋から出てくる。
可愛いワンピース、よく似合ってる。
ね、平ちゃん。
私たち、やっぱり親バカだね。
「大丈夫!持ってる、持ってる。」
玄関の鍵を閉めながら、答えた。
「今日は皆さま、えっと…お集まりいただきありがとうございました。」
息子が辿々しい挨拶をする。
しかも、咲ちゃんに促してもらってからだ。やっぱり息子は変わらない、ちょっと世慣れてない理系男子だ。
今思えば、大した事ではないけれど、子育て当時はため息を吐く事多かったな。
でも、それをしっかり支えてくれる彼女と出会えた。ありがたい。
咲ちゃんを逃すなと、常に息子に釘を刺してきた。
そんな息子の挨拶でも、拍手してくれる咲ちゃんのご家族。素敵なご家族だった。
「次会うのは結婚式?それだとさみしいから、また企画してね。」
咲ちゃんのお母様が2人に言う。
私もうんうんと頷いた。そんな和やかなお顔合わせだった。
忘れちゃいけない、モバイル平ちゃんも参加させてもらったから、
「今日よかったよね。」
と心の声にて、そっとカバンにしまっておく。
「おおっ。」
返事はきっとこうだろう。
平ちゃんは息子が大好きだったから、きっと喜んでるだろうな。
夜の銀座を歩くのは久しぶりだ。
やっぱりすごく華やかな街。
店の灯りが特別に感じられる。
お店を出て駅までの道を歩いていた。
私の前には咲ちゃんのご両親と妹さんが並んで歩いている。
普段から仲が良いのだろう、妹さん、ご夫婦もずっとおしゃべりしていて、微笑ましい。
そして、後ろには息子と咲ちゃん。
こちらも仲良しでなんだか、ごちゃごちゃおしゃべり楽しそうな2人。
私は娘と歩く。
ゆいなは黙って、私の腕に自分の腕を絡めてくる。
そんなこと久しぶり。
きっと私が何か言うと、娘は離れてしまうだろう。
私は黙って娘の温もりを感じ、嬉しさを噛み締める。
今あるものの幸せを静かに静かに感じられた夜。
慣れないヒールがちょっと痛かった。
