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䞉善康信──流人ずなった源頌朝に京郜情報を送り続けた初代問泚所執事

歎史ずいうものは、刀を振り回した者の名前はよく残っおも、その埌ろで曞類を片づけおいた者の苊劎たでは、なかなか䌝わらないものです。

鎌倉幕府初代問泚所執事・䞉善康信。倧河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、小林隆さんが挔じたした。坂東歊者が怒鳎り、揉め、陰謀を䌁み、぀いには裁刀の途䞭で髻たで切っおしたう。そんな歊士たちを盞手に、「それは無理ずいうもの」ずでも蚀いたげな顔で事務を凊理しおいた文官です。

しかし、康信はただの苊劎人ではありたせん。源頌朝公が䌊豆の流人だったころ、月に3床も京郜の情勢を知らせ、源氏远蚎の動きがあれば匟を急行させたした。頌朝公が鎌倉殿になる前から、その目ず耳になっおいた人物なのです。

今回は、刀ではなく情報ず文曞で鎌倉幕府を支え、最埌は82歳の病身を抌しお承久の乱に臚んだ䞉善康信の生涯をたどりたす。

䌊豆の頌朝に京郜情報を届ける

倧河ドラマ「鎌倉殿の13人」
倧河ドラマ「鎌倉殿の13人」

䞉善康信は保延6幎1140の生たれ。倪政官の曞蚘官を䞖襲する䞭䞋玚貎族の出身です。

䞉善氏は算道を家孊ずする䞀族でした。぀たり康信は、蚈算ができ、文曞が読め、朝廷の先䟋や事務手続きにも通じた、圓時ずしおはかなりの高スペック人材です。

歊士が「ずりあえず攻めたしょう」ず蚀い出す鎌倉においお、「その前に文曞を確認したしょう」ず蚀える貎重な存圚でした。

康信の母は、源頌朝公の乳母の効だったずいいたす。この瞁から、康信は䌊豆に流されおいた頌朝公ぞ、京郜の情勢を䌝え続けたした。しかも、たたに手玙を送るずいう皋床ではありたせん。

月に3床です。珟代なら毎月1日、10日、20日あたりに「今週の京郜情勢たずめ」が届くようなものです。ただ䜕者でもない流人に、䞭倮政界の最新情報が定期配信されおいた。頌朝公、意倖ず情報匷者です。

治承4幎1180、以仁王ず源頌政が平家打倒の兵を挙げるず、その什旚を受けた源氏を远蚎する動きが始たりたした。康信はただちに匟・康枅を䌊豆ぞ向かわせたす。『吟劻鏡』には、こうありたす。

散䜍康信が䜿者北條に参着するなり。歊衛閑所に斌いお察面し絊う。䜿者申しお云く、去る月二十六日、高倉宮埡事有るの埌、圌の什旚を請けるの源氏等、皆以お远蚎せらるべきの旚、その沙汰有り。君は正統なり。殊に怖畏有るべきか。早く奥州方に遁れ絊うべきの由存ずる所なりおえり。この康信母は、歊衛の乳母効なり。圌の奜に䟝っお、その志偏に源家に有り。山河を凌ぎ、毎月䞉箇床䞀旬各䞀床䜿者を進し、掛䞭の子现を申す。而るに今源氏を远蚎せらるべき由の事、殊なる重事たるに䟝っお、匟康枅所劎ず称し出仕を止むを盞語らい、着進する所なりず。

『吟劻鏡』治承4幎6月19日条

康信の䜿者が北条ぞ到着し、頌朝公は人のいない堎所で察面した。䜿者は、「先月26日に以仁王の事件が起きお以来、その什旚を受けた源氏をすべお远蚎せよずの沙汰が出おいたす。あなたは源氏の正統ですから、ひずきわ危険です。早く奥州ぞ逃げるべきだず考えたす」ず䌝えた。
康信の母は頌朝公の乳母の効であり、その瞁から康信はひたすら源氏に心を寄せおいた。山河を越えお月に䞉床䜿者を送り、京郜の詳しい情勢を知らせおいた。今回は源氏远蚎ずいう重倧事であるため、匟の康枅に病気ず称しお出仕を䌑たせ、䜿者ずしお急行させたのである。

康信が勧めたのは、挙兵ではなく奥州ぞの避難でした。「いた立おば勝おたす」などず無責任に煜ったわけではありたせん。「源氏远蚎が始たりたす。あなたがいちばん危ないので逃げおください」ず、きわめお珟実的な譊告を送ったのです。

匟を仮病で䌑たせおたで急行させたずころを芋るず、盞圓に切迫した情報だったのでしょう。匟からすれば、兄にいきなり「今日から病人ずいうこずにする。䌊豆ぞ行け」ず蚀われたわけです。

䞉善家、情報䌝達のためなら勀怠凊理にも迷いがありたせん。もちろん、この情報だけで頌朝公が挙兵を決めたわけではないでしょう。それでも、以仁王の什旚や平家方の動きを芋定めるうえで、康信から届く京郜情報は、倧きな刀断材料になったでしょう。

頌朝公は䌊豆にいながら、京郜を芋おいたした。その目の䞀぀が䞉善康信だったのです。

頌朝の芁請で鎌倉ぞ䞋向する

頌朝公が康信を鎌倉ぞ呌び寄せたのは、元暊元幎11844月のこずでした。九郎殿らが䞀ノ谷で平家を砎り、頌朝公の勢力が倧きく広がっおいたころです。

戊に勝぀だけなら歊士を集めればよいのですが、獲埗した土地を管理し、恩賞を䞎え、朝廷ず亀枉し、埡家人の争いを凊理するには、事務のできる人間が必芁になりたす。囜を取ったら、次に埅っおいるのは曞類です。頌朝公はそこをよく分かっおいたした。

『吟劻鏡』には、康信が鎌倉ぞ到着し、鶎岡八幡宮で頌朝公ず察面した様子が蚘されおいたす。

源民郚倧倫光行・䞭宮倧倫属入道善信俗名康信等、京郜より参着す。光行は、豊前の前叞光季平家に属くの間、これを申し宥めんが為なり。善信は、本よりその志関東に圚り。仍っお連々恩喚有るが故なり。

『吟劻鏡』元暊元幎4月14日条

4月14日、源光行ず䞭宮倧倫属入道善信、俗名䞉善康信らが京郜から到着した。光行は、父の光季が平家に味方したため、その赊免を願うために来た。康信はもずから関東に心を寄せおおり、頌朝公からたびたび招かれおいたため䞋向した。

歊衛頌朝鶎岡に参り絊う。埡䟛を奉らるの埌、廻廊に斌いお属入道善信に察面し絊う。圓所に参䜏せしめ、歊家の政務を補䜐すべきの由、厳密の埡玄諟に及ぶず。時に光行圌の所に掚参するの間、蚀談を止めらるず。善信は甚だ穏䟿の者なり。同道の仁、頗る無法の気有るかの由、内々仰せらるず。

『吟劻鏡』元暊元幎4月15日条

翌15日、頌朝公は鶎岡八幡宮ぞ参詣し、その回廊で康信ず察面した。鎌倉に䜏み、歊家の政務を補䜐しおほしいず求め、康信も固く承諟した。
そこぞ源光行が勝手に入っおきたため、話は䞭断された。頌朝公は内々に、「康信は穏やかでよい人物だが、䞀緒に来た人はちょっずアレだな」ず語った。

倧事な1on1の最䞭に、源光行がのこのこ入っおきたため、頌朝公ず康信の話が止たっおしたいたした。こういう陰口を『吟劻鏡』に氞久保存される源光行も気の毒ですが、頌朝公の評䟡は分かりやすいものです。康信は「甚だ穏䟿の者」、物腰が穏やかで、話の分かる人物だったのでしょう。

倧河ドラマで小林隆さんが挔じた康信も、たさにそのような人物でした。北条矩時公や倧江広元が恐ろしい方向ぞ話を進めるなか、康信だけが「いや、それはちょっず  」ずいう顔をしおいる。

しかし、すぐ刀ぞ手をかける人々を盞手に、最埌たで話し合いを続けられる。それこそが鎌倉で最も垌少な胜力だったのかもしれたせん。

問泚所の初代執事ずなる

鎌倉・埡成小孊校付近に立぀問泚所旧蹟碑
問泚所旧蹟碑神奈川県鎌倉垂

元暊元幎118410月、頌朝公は康信に蚎蚟事務を担圓させたした。これが鎌倉幕府の問泚所です。

「問泚」ずは、蚎蚟の圓事者を呌び出し、それぞれの䞻匵を問いただしお蚘録するこず。頌朝公の時代には最終的な裁決を頌朝公自身が行うこずも倚く、康信は珟代の最高裁刀所長官ずいうより、幕府の蚎蚟実務を取り仕切る責任者ず考えたほうがよいでしょう。

『吟劻鏡』には、問泚所が蚭けられた日のこずが蚘されおいたす。

諞人蚎論察決の事、俊兌・盛時等を盞具し、䞔぀はこれを召し決し、䞔぀はその詞を泚せしめ、沙汰を申すべきの由、倧倫属入道善信に仰せらるず。仍っお埡亭東面の廂二箇間を点じその所ず為す。問泚所ず号し、額を打぀ず。

『吟劻鏡』元暊元幎10月20日条

人々の蚎蚟ず察決に぀いお、藀原俊兌や䞭原盛時らを率い、圓事者を呌び出しお事情を問い、その発蚀を蚘録しお、裁定案を申し䞊げるよう、頌朝公は善信に呜じた。そこで埡所東面の廂二間をその堎所ず定め、「問泚所」ず名づけお額を掲げた。

埡所の廂二間から始たった、鎌倉幕府の蚎蚟機関です。ずはいえ、ここぞやっお来るのは、おずなしく刀決を埅぀ような人々ではありたせん。

先祖䌝来の土地を奪われた、境界を勝手に動かされた、恩賞が少ない、あい぀の䞻匵は嘘だ――ず怒り狂う坂東歊者たちです。

鎌倉歊士にずっお、土地は呜そのもの。「䞀所懞呜」ずいう蚀葉どおり、所領を守るためなら呜を懞けたす。そんな人々を埡所の䞀宀ぞ集めお、「では順番にお話しください」ず始めるのです。順番に話すはずがありたせん。

問泚所には蚎人が抌しかけ、怒号が飛び亀い、埡所の秩序たで乱すようになりたした。たいぞんだったなどずいう生やさしいものではなかったでしょう。

倧河ドラマでは、八田知家がなぜか胞元を開けおいたした。しかし康信にずっおは、服を着ない歊士より、話を聞かない歊士のほうが厄介だったはずです。

熊谷盎実、裁刀䞭にキレお出家

問泚所を象城する事件が、建久3幎1192に起きた熊谷盎実ず久䞋盎光の境界争いです。

熊谷盎実ずいえば、䞀ノ谷の戊いで平敊盛を蚎ち取った猛将ずしお知られたす。ずころが、戊堎で匷いこずず、法廷で匁が立぀こずは別問題です。

盎実は蚌拠ずなる曞類を持参しおいたしたが、問われたこずぞうたく答えられず、次第に远い詰められおいきたす。そしお、盞手の久䞋盎光に梶原景時が肩入れしおいるのではないかず疑い始めたした。

ここで盎実は、「いったん持ち垰っお敎理したす」ずは蚀いたせん。持参した曞類を投げ捚おお垭を立ち、西䟍ぞ行っお髻を切り、そのたた逐電したした。

裁刀で䞍利になったので、その堎で出家です。珟代なら、口頭匁論の途䞭で資料を床ぞ叩き぀け、頭を䞞めお法廷から消えるようなものです。康信も「その手があったか」ずは思わなかったでしょう。

『吟劻鏡』には、この事件を螏たえお問泚所が埡所の倖ぞ移された経緯が蚘されおいたす。

問泚所を郭倖に建おらる。倧倫属入道善信を以お執事ず為す。今日始めおその沙汰有り。これ故将軍の埡時、営䞭に䞀所を点じ、蚎論人を召し決せらるるの間、諞人矀集し錓隒を成し、無瀌を珟すの條、頗る狌藉の基たり。他所に斌いおこの儀を行わるべきかの由、内々評議有るの凊、熊谷ず久䞋ず境盞論の事察決するの間、盎実西䟍に斌いお鬢髪を陀くの埌、氞く埡所䞭の儀を停止せられ、善信の家を以おその所ず為す。今たた別郭を新造せらるず。

『吟劻鏡』建久10幎4月1日条

問泚所が埡所の倖に建おられ、善信が匕き続き執事ずなった。この日、初めおそこで蚎蚟の審理が行われた。
故将軍頌朝公の時代には、埡所内の䞀角を問泚所ずし、蚎蚟の圓事者を呌び出しお裁いおいた。しかし、倚くの人々が集たっお隒ぎ立お、無瀌な振る舞いをするため、狌藉の原因になっおいた。そこで、別の堎所で裁刀を行うべきではないかず内々に話し合われおいた。

その埌、熊谷盎実ず久䞋盎光の境界争いを審理しおいた際、盎実が西䟍で髪を切る事件が起きた。このため埡所内での裁刀を取りやめ、善信の屋敷を問泚所ずした。そしお今回、新たに別の建物が造られたのである。

問泚所を埡所の倖ぞ移す話は頌朝公の存呜䞭から出おいたしたが、新庁舎が完成したのは、その死埌でした。それたで康信は、自宅を問泚所ずしお提䟛しおいたす。

職堎が荒れるので自宅ぞ移したら、今床は自宅に蚎蚟人が抌しかけおくる。たったく解決しおいたせん。

珟圚、鎌倉垂埡成町の埡成小孊校付近に「問泚所旧蹟」の石碑が立っおいたす。静かな䜏宅地ですが、か぀おは所領をめぐっお激昂する歊士たちが集たっおいた堎所です。康信にずっおは職堎跡ずいうより、胃痛の史跡かもしれたせん。

承久の乱では、京郜ぞの即時出撃を進蚀

鶎岡八幡宮
鶎岡八幡宮

康信は問泚所執事ずしお蚎蚟実務を取り仕切る䞀方、京郜の故実や朝廷の事情に詳しい文官ずしお、頌朝公の政治を支えたした。頌朝公が奥州合戊や䞊掛で鎌倉を留守にしたずきには、留守䞭の政務も担圓しおいたす。

建久10幎1199、頌朝公が亡くなるず、康信は倧江広元、北条時政、北条矩時、䞉浊矩柄、安達盛長らずずもに、源頌家公の政治を補䜐する13人の䞀人に名を連ねたした。

康信はこのずき60歳です。圓時ずしおは十分に宿老ですが、ここからさらに22幎働きたす。鎌倉幕府、定幎がありたせん。

そしお承久3幎1221、埌鳥矜院が北条矩時公远蚎の院宣を発し、承久の乱が起こりたした。朝廷ぞ匓を匕くなど、東囜歊士にずっおも前代未聞です。鎌倉は動揺し、箱根・足柄で敵を迎え撃぀案も出たした。

このずき倧江広元は、守りに入れば東囜歊士の心が揺らぐずしお、ただちに京郜ぞ軍勢を送るよう䞻匵したした。康信も病身を抌しお評議ぞ出垭し、広元の即時出兵論を支持したす。たずえ倧将軍䞀人だけでも、たず出発させるべきだずいう匷硬な意芋でした。

い぀も穏䟿な康信が、ここでは迷っおいたせん。京郜の政治を知り、40幎近く幕府の実務を担っおきたからこそ、情勢が固たるたで埅っおいおは遅いず分かっおいたのでしょう。

尌埡台様北条政子の挔説によっお埡家人たちが結束するず、北条泰時公らが東海道、東山道、北陞道から京郜ぞ進撃したした。幕府軍は朝廷方を砎り、鎌倉幕府は最倧の危機を乗り越えたす。

康信が亡くなったのは、その幎の8月9日。享幎82。死のわずか3日前、8月6日には問泚所執事を子の康俊ぞ譲っおいたす。

月に3床、䌊豆の流人ぞ京郜の情報を届けおいた青幎は、その流人が぀くった歊家政暩を守り抜き、承久の乱の勝利を芋届けお䞖を去ったのです。

康信の子孫は、その埌も問泚所執事や匕付衆、宀町幕府の奉行人ずしお、歊家政暩の蚎蚟実務を担いたした。戊囜時代に倧友宗麟ぞ仕えた問蚻所統景も、䞉善氏の流れをくむ歊将ずされおいたす。

䞉善康信の生涯を芋るず、やはり芞は身を助けるものです。もっずも、その芞が「荒くれ者の蚀い分を聞き、怒鳎られおも曞類をたずめ、裁刀䞭に出家されおも翌日の仕事ぞ来るこず」だったのですから、少々぀らい。『鎌倉殿の13人』で、康信がい぀も困った顔をしおいたのも無理はありたせん。

そしお、幕府を滅がしたわたしから申し䞊げるのもなんですが――こういう人が圹所からいなくなるず、囜はだいたい傟きたす。

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