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なぜグランドキャニオンには「柵」がないのか? |子どもを囲う「善意の柵」

岩手のほうに「小沢一郎」という政治家がいて、
それはそれは選挙に強くてですね。

史上最年少で自民党の幹事長にのぼりつめ、
民主党では代表をやり。

いまはもう落選してしまったのですが、
その小沢がかつて「権力の絶頂期」にいたころ、
こんなことを言ってました。

俺さあ、最近、グランドキャニオン行ってきたのよ。
グランドキャニオン。
あれはすごいぜ。断崖絶壁。
一歩足を踏み外したら、大けがするようなとんでもねえ谷よ。
マジで大自然。
でも、なにがすごいかってさ、「これ以上行くと危険だぜ!」みたいな立て看板とか、柵とか、何もないのよね。
だって日本だったら、安全に観光できる場所を細かく決めて、これ以上進んだらヤバいゾーンとの境目に柵とかブッ刺してさあ、「危険!!」みたいな看板まみれにしちゃうでしょ?
ないのよ。アメリカには。
あくまで自己責任、っていうのが、もう国として一貫してんだろうね。落ちたら、落ちたヤツが悪い!って。柵がなくたって、誰も騒がないのよ。あれはビビったわ。

小沢一郎「日本改造計画」を基にバチクソ意訳

そう。日本には自己責任という考え方があまりない。
グランドキャニオンで誰かが足を踏み外して事故ったら、グランドキャニオンを管理する、国や自治体の責任が真っ先に問われる。
そんな国、実は日本だけなんじゃないのか……小沢はそんなことを言いたかったのでしょう。

昔も今も、日本というのはそういうお国柄なもんですから、子どもたちがすごす空間というのも、この何十年かでどんどん様変わりしてしまいました。

具体的には、徹底的な「リスク排除」に傾いています。

たとえば公園では、
少しでも危険と見なされた遊具はボンボコと撤去され、

ここは小学生以上の球技スペース。
ここは小さい子たちのスペース。
この場所を使えるのは○時まで。・・・

などと遊びのルールまでもが細分化されています。
いわば、子どもたちの遊びが、どんどん大人の管理下に置かれていくようになったわけです。

こうした状況がもっと進んでいくと
なにが起きてしまうか?

一言で言えば、
子どもたちはやがて、

リスクなき冒険

しか経験できなくなってしまいます

子どもがたくましく成長するためには、
遊びの中で「冒険」をすることが大切です。

「冒険」とは、けがや失敗のリスクを自ら評価し、
それをなんとかして乗り越えるプロセスのこと。

大人が先回りして全てのリスクを取り除いてしまうと、
そこに残るのは冒険とは名ばかりの冒険。
それが「リスクなき冒険」です。

結果として、未知の困難に立ち向かうパワーはうしなわれ、「自分ならできる!(=この程度のリスクなら取れる!)」という自己効力感を育むチャンスも潰されることになります。

もちろん、公園から危険な遊具を撤去し、遊ぶスペースや遊んでよい時間帯を細かく決めた人たちに、なにか悪意があるわけじゃない。
むしろ善意です。

危険な遊具で遊んでいた子に痛ましい事故があった。
大きな子と小さな子が一緒に遊んでいて大きなけがにつながった。
そういった失敗の積み重ねが大人たちの善意を動かしたんです。

つまり、こうしたリスク排除の流れというのは、
言ってみれば

善意の柵

なのです。

こうして「善意の柵」が増えていくことで、
「リスクなき冒険」が子どもたちの世界を支配するようになると、いったい何がおきるでしょうか?

個人の目線で見れば、
「チャレンジ精神や自己効力感が失われる」と言えますが、
もっと大きな視点、社会全体の視点で眺めてみると、
実はすごく根深い問題が浮かび上がってきます。

それは、

体験格差の拡大

です。

どういうことかと言うと、
かつては地域の空き地や裏山、道路などで、
子どもたちは無料で

小さなリスクを伴うホンモノの冒険

を日常的に体験できていました(映画スタンド・バイ・ミーでも観てみてください。あの少年たちは、あれだけの大冒険をほぼノーコストでやり遂げています)。

しかし、社会全体が不寛容になり、
「善意の柵」が日常からあらゆるリスク(=ホンモノの冒険)を排除してしまった。

その結果どうなったか?

質の高い冒険をするためには、
わざわざ安くないお金を払って、
民間のキャンプ教室やスポーツクラブなどの

プログラム化された良質な冒険

を購入しなければならなくなりました。

つまり、

冒険が「商品化」されてしまった

のです。

お金を出せる家庭の子は冒険でき、
出せない家庭の子は冒険できない。

これが「体験格差」の本質です。
皮肉な話ですよね。

親というのは、基本的にだれもが

正解マシン

です。
つまり、誰かが子育ての正解(あるいはそれに近いもの)を示すと、どの親もそれに向かって走ってしまうというかなしい本能があります。この本能に抗えるヤツはなかなかいない。

ひとたび体験格差がフィーチャーされれば、

我が子にも体験という商品を買わねば!!

と焦って、課金レースに突っ走る。

つまり、体験格差という言葉が踊るほど、
「体験ビジネス」が潤い、結果的に体験格差が
再生産されていく・・・というメカニズムがあるのです。

***

我が家の近所には、

常にケムリがモクモクとたちのぼっている公園

があります。
正確に言うと、

プレイパーク

です。

近所の子どもたちがやってきて、
好き勝手にたき火をしてるんです。

火の上ではイモを焼いたり、
お米を炊いたりしています。

ほかにも、
水をくんできて小川を作っているドロまみれの子もいれば、
パークの斜面に段ボールをしいてすべっている子もいます。

我が子たちと一緒にこのプレイパークに行って、
あのこげくさいケムリを吸い込むと、

子どもが自由に冒険できる場所があってよかったなあ

と、しみじみと実感します。

このプレイパーク、無料なんです。

予約もいらないし、月謝もいらない。
道具さえいらない。かつてここで遊んでいた子たちが残していった道具が、たくさんあるんです。
必要なのは、「冒険をするぞ」という勇気だけ。

つまりここには、柵がないんです。
グランドキャニオンみたいにね。

もちろん、ここで子どもがけがをすることはしょっちゅうです。
実際、我が子の足はすりきずだらけ。大きなアザをつくって帰ってきたことだって何度もあります。

でも本人たちは、次の週もまた平然とここで遊んでいます。
「これくらいなら大丈夫」を、自分の手で確かめたわけですね。

私たちが「体験格差」と対峙するための最良の方法は、私にはよくわかりません。
でも、すくなくともそれは、

「体験を買い与えること」ではない

ことは確かだと思うのです。

「善意の柵」がはりめぐらされていない、原初的な空間へおもむくこと。
「正解マシン」の電源を切って、自分のあたまで考えて子育てすること。

それだけで、冒険はまた、そのへんに転がりはじめるんじゃないかな。


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東大卒2児ママの夫 お気持ちめちゃくちゃ嬉しいです!でも、本当にいいんですか?

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