【断章】文学における「罪」あるいは「業」についてのメモ
※2024年7月、はてなブログに書いたものです。
宗教というものは、とかく日本では軽んじられたり敬遠されたりしがちだけれど、ちょっとだけ文学をやってきた身としては、そのバックボーンにある宗教の大きさをいやでも感じないわけにはいかない。他の芸術においても、そうである。たとえばわたしにとって思い出深い『フォレスト•ガンプ』においてさえも、主人公にキリストの投影を見ることは容易である。ヒロインのジェニーは、マグダラのマリアでなくて何であろう。このことに関しては、以前もどこかで書いた。
ところで、その宗教なのだが、おおまかに言ってキリスト教文化圏において、根底に横たわるものが「罪」ならば、日本(いちおう、神道ではなく仏教としておく) においてその概念は「業」である。そして不思議と、前者に「業」は感じないし、後者に「罪」の意識はほとんどないと言ってよい。その名もズバリドストエフスキーの『罪と罰』、あれはどこまでも主人公であるラスコーリニコフの意志、彼の犯した一代かぎりの「罪」であって、何か得体の知れない力に引きずられて、どうにも出口がなくなっていくような印象はない。
わたしはいま、はからずも「一代かぎり」と言った。そうなのだ。「業」の裏にあるものは、たぶん、何度も繰り返される輪廻の思想なのである。それが神道と融合し、民間信仰とも相俟って、日本のあらゆる文化の地層に根を張っている。
わたしは日本文学の世界に身を置いてきて、この、「業」が感じられる作家、作品が好きだった。林芙美子。中上健次。坂口安吾。川端康成。それから、破滅型と呼ばれる作家たち。他にもいろいろあるけれど、どうにもならぬ運命や愛欲の果てに、悲劇が生まれる。どん詰まりの人生。そんな文学を愛した。そこには、救済の祈りがある。
しかし同じようにわたしは、「罪」の外国文学を愛する。前述のドストエフスキーは言わずもがな、フォークナー、ヴェルレーヌなど。そこにもやはり、祈りがある。
祈り。文学とは、結局、祈りのことではないのか。わたしも、祈っている。誰かひとりに届くように書いている。届かなくてもいい、でも届きますように。わたしは詩を書く。詩は、死である。究極的に、死の匂いがする詩しか、わたしは好きじゃない。そんなわがままも、文学では許される。はずだ。
ところで、「業」の最たるものって、血縁、つまり家族の問題じゃないかしら?三浦哲郎の作品などは、その典型。人間がいるかぎり、業は続くし、その人間同士がくっついて、孕み、新たな業を生成する。その人間が生きる世界も、また業が深い。絶え間なく降り積もる。だから文学も、結局は、業の残物なんじゃないだろうか。そして批評は、たぶん、徹底して、業を見つめる仕事だと思う。
