見出し画像

【断章】フランス映画のフランス語 ※ネタバレあり

自分の興味がほとんどことばに偏っているので、映画を見ていても、やはり脚本や台詞に引きずりまわされる。これは結局、「書かれることば」「話されることば」という命題につながるものだと思うからなおさら楽しい。後者は、人間の生理に根差しているので、その分、どうしても過敏に反応してしまう。

監督の演出によって、台詞回しというのはかなり変わるというのは実感としてあるのだけれど、とりわけそれを強く感じるのは、フランス映画である。とくにわたしは戦前のものが好きで、中学生ぐらいのときから、毎週土曜になると居間にふとんを敷いて、家族が寝るのを待って夜中から朝まで映画を見続けた。フランス語は、わからなくてもとにかくうっとりとするのだった。ハリウッド映画もそれなりに観たが、圧倒的に視覚の満足に傾いていたと思う。

そこで今日は、フランス語が好きなフランス映画についてちょっと書く。まずは、ジュリアン・デュヴィヴィエの『舞踏会の手帖』(1937)である。

今さら語るまでもなし、の名作なのだが、この映画、私にとってはオールタイムベスト10に入るものなのである。いまだにその理由がうまく言語化できず、いまだに断片のまま、とにかくすべてが好きとしか言いようがない。それにしても、ちょうどこの時代、デュヴィヴィエ、ルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジャン・ルノワールなどといった監督を抱えていたフランス映画は、やはりすごかったと思う。

『舞踏会の手帖』は、未亡人(あえてこう書くのがふさわしい)となった中年のクリスチーヌ(マリー・ベル。とにかく貫禄がすごい。さすがだ、コメディ・フランセーズの若き幹部女優)が、ぽっかりと空いた時間を埋めるために、かつて舞踏会にデビューしたころ、自分に愛を囁いた男たちを訪ね歩くという、オムニバス形式の映画なのだが、年を取った分だけ、感銘が深くなる。130分という長さなのに、一瞬も飽きさせない手腕。むしろ、次はどうなる、のワクワク感を、「静かに」(ここ重要)持続させる。

そして、何より、フランス語が、まぎれもなく、話されるためにある言語であることを痛感する(これは、やや蓮實重彦の受け売りである)。それは、俳優を通して立ち現れる。詩や演劇の伝統が支えている言語。台詞が物語を作っていく。映画なのに、映像を忘れる瞬間がある。たとえば、マリー・ベルの、語らずに幻滅を見せる演技。クリスチーヌへの愛が実らず自殺した息子を持つフランソワーズ・ロゼーは、もはやホラーより怖い。ルイ・ジューヴェの悪人ぶり。ヴェルレーヌを口ずさむようなインテリの悪人をやれる俳優って、日本では森雅之ぐらいだろうか。

ちなみに、ことばから少し離れるならば、もぐりの堕胎医で、美しからぬ年上の情婦と同棲しているピエール・ブランシャールが私は好きである。最初の記憶のなかでは、彼の暮らす部屋の窓の外に広がるクレーンと、そのやかましい金属音のことがすごく印象に残っていたのだけれど、やはり見るたびにそうなる。このエピソードでは、ほぼ一貫して画面が傾いていて、つまりこれ、部屋そのものが傾いているということなのに、私の記憶では、狂気が現実を歪んだものに見せている云々で解釈されてしまう。つまり、そこだけなぜかシュールレアリスムになっていた、と。

でも、本当は、どのエピソードもいいのである。これはすごいことだと思う。見事に穴がない。普通、どっかで手を抜くだろう、とも思うのだが。これ、出演した役者の皆様方、演じ甲斐があっただろうな、と、こちらまで幸福な気持ちになる。神父になっている元音楽家。山のガイドとして生きる元詩人。女中とこれから結婚式をあげるという町長(どうでもいいが、この方の「元会長会会長」という字幕の肩書には笑ってしまう。これ、フランス語だとどう表現されているんだろう)。娘にクリスチーヌと名付ける美容師。そして姿を現さない唯一の想い人。ずっと湖の対岸に住んでいたことも知らず、わかった時にはすでに死んでいる、というお話。

デュヴィヴィエのすごさは、フランソワーズ・ロゼーの怖い挿話を、いきなり初めに持ってきたことに、端的に表れている。ドアを開けた瞬間に顔面にパンチを食らうようなもんだ。普通、あんなすごい話をいきなり持ってきます? 凡百の監督なら、最後とか、中だるみを引き締めるようなポジションに持ってくるはず。

時間の冷酷さとか、幻滅を、ロマンチックに描くという昔の映画はすげえ。甘い、苦い、甘い、苦い……と感想が無限ループになる。さすが小説を生んだ国。そして演劇の国。それを支えるフランス語。思えば、この映画を初めて見たとき、マリー・ベルやフランソワーズ・ロゼー、ルイ・ジューヴェのことが知りたくて知りたくて、コンセルヴァトワールとか、コメディ・フランセーズとか、一所懸命名前を覚えた懐かしい記憶があります。フランスという国は、私にとって、映画を抜きにしてはあり得ないのです。

そしてもうひとつ、マルセル・カルネ『悪魔が夜来る』(1942)。しつこいけれど、フランス語というものは、やっぱり話すためにある言語だなあとつくづく思う。この映画におけるジャック・プレヴェールの脚本、台詞が美しいことこの上ない。演劇の台詞(古典)というものをひたすら堪能する。

しかも助監督はミケランジェロ・アントニオーニ。マルセル・カルネはジャック・フェデーの助監督だったし、いやあ、すごいですよね、このあたり。こんな映画、よくもまあナチス占領下で作ったと思う。それを知った上で見ると、まったくレジスタンスそのものという感じがする。時は中世。吟遊詩人に化けた悪魔の使いのジルとドミニクがとある城へと入っていく。ここではアンヌ姫と騎士ルノーの婚約披露の宴が催されており、この悪魔の手先どもはそれぞれを誘惑してその幸せを壊すのが目的である。

ドミニクを演じるのはアルレッティなのだが、もうね、何なんですかこの人の声の美しさは。ゾクゾクします。私が初めてこの人を知ったのは『天井桟敷の人々』なのだが、そのとき聴いた声の記憶が鮮やかに蘇る。フランス語は官能を刺激し、記憶に刻印される。登場時には男装、時にはきらびやかなドレスを身に纏うアルレッティ、本当に、悪魔にふさわしいお方であります。ルノーだけでなくアンヌの父親も手玉に取るその色香、フランスという国の奥深さをつくづく感じる。女性の美しさの見せ方の幅が広い。男であるジル(アラン・キュニー)が禁を破ってアンヌを愛してしまうのとは対照的に、最後の最後までお見事、正真正銘の「悪魔」であるドミニク、この対照性、配役はものすごく成功している。

婚約の宴の場面、さまざまな芸人がお祝いとして芸を披露していくのですが、そこに、順番がまわってきた三人の小人が頭巾をかぶって連れて来られる。それをめくると、ぞっとするような、醜く変形した顔が現れる。アンヌは思わず顔を背ける。三人は、この後も物語の要所要所で登場しますが、こういったいわば「異形の者」の存在は、何故「物語」には不可欠なんだろうか。しかも、古くから、万国共通で。だからね、こういうものを変に隠蔽するのは、よくないと思う。 人間も物語も、本質的にはおぞましいものなんだから。

さて、この映画がよく出来てるなあと思ったのは、ジルとアンヌが本気で愛し合うようになり、ドミニクとルノーとアンヌ父の三角関係が膠着状態に陥ったところで、悪魔(つまりボスだな)が絶妙なタイミングで登場すること。これを演じるのはジュール・ベリー。道に迷った裕福そうな旅人を装って城に入りこんで来たこの悪魔が、最高なのである。

この人(と言ってよいのだろうか?)、もうとにかく陽気・気さく・親切。それなのに、台詞のトーン、しぐさ、表情、動き、どれをとっても奇妙に人を反発させるものを持っている。見ているだけで不快になる。彼がはしゃげばはしゃぐほど、まわりはどんどん陰鬱にならざるをえないような。あからさまに残酷なのではない。これが演技力というものだろうか。

さて、ちょっとアンヌ姫のことを。演じるのはマリー・デア。アンヌは、もう、(この当時の)フランスそのものというか、魂なんだよね。全編を通して彼女によって繰り返される台詞、「私は誰のものでもない」「私は自由だ」。これをプレヴェールが書いたのだろうか、と思うと胸打たれる。悪魔は、それこそ「悪魔のささやき」をもって、あの手この手でアンヌとジルの愛を破壊しようとするのですが、アンヌは屈しない。フランス語は、本当に奥が深い。

最後に。美術も一見の価値あり。戦時下、かつ占領下でこの豪華さはないよなあ、といささかビビりながらも、同じ時期、はるか海の向こうで「欲シガリマセン勝ツマデハ」とかいう文句を操っていた国が、自分の生まれた国なんだよなあと、ぼんやりと思ったことである。国が亡びるときというのは、まずことばからなのか。つまり、ナチスに占領されても、フランス語は決して敗けなかった、ということになる。

いいなと思ったら応援しよう!