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黒い画面の前で、どちらが先に来た客なのか分からなくなる〜「AI時代の人材開発・組織開発」(327)

工場の片隅に、まだ動いている古い機械があります。黒い画面に緑の文字が並んでいて、キーを叩くと素っ気ない応答が返ってくる。AS/400と呼ばれるような、四十年近く前に設計された種類のものです。担当していた人はとうに退職して、いまは誰も中身を完全には説明できない。けれど止めると会社の受発注が回らなくなるから、誰も触れない。みんなが「あれをどうにかしないと」と言いながら、どうにもできずに、もう十年が経っている。

そういう現場で、私は何度か「あの黒い画面、いつまで悶々と動いてるんですかね」という言葉を聞きました。悶々と、というのが面白い表現だなと思ったんです。機械は悶々とはしません。悶々としているのは、それを抱えたまま手放せない私たちのほうです。でも口に出すときは、まるで機械のほうが何かを抱えて苦しんでいるかのように言う。異物を見るときの、あの独特の距離の取り方が、この一語ににじんでいる気がしました。

正直、私もずっとその機械を「異物」の側に置いていました。新しい技術が標準で、古いシステムが片付けるべき残骸。そういう構図で見ていたんですよね。クラウドに乗せ替えて、AIエージェントを連携させて、あの黒い画面を博物館に送り出す。それが進歩だと、疑いもしませんでした。

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ところがある時、その機械の前で四十年仕事をしてきた人と話して、構図が静かに反転したんです。

その日は本来、別の設備更新の話を聞きに、ある部品加工の工場を訪ねただけでした。案内が一区切りついたあと、休憩室でお茶をいただきながら雑談になって、その流れであの黒い画面の話が出たんです。私が何気なく「そろそろクラウドに移す時期じゃないですか」と水を向けたら、その人は少し困ったような顔をして「これがなくなったら、うちは何を信じて動けばいいんですかね」と返してきました。世間話のつもりで放った一言に、思っていたより重い答えが返ってきて、正直たじろいだのを覚えています。

その人にとって、先に来たのは機械のほうでした。自分が入社する前から、その黒い画面は会社の心臓として動いていた。彼はその機械の作法を覚え、その機械の都合に自分の働き方を合わせ、その機械と一緒に会社を支えてきた。彼の側に立つと、後から割り込んできたクラウドやAIのほうが、明らかに異物なんです。何十年も忠実に、一度も嘘の数字を返さずに動いてきた相棒を「もう古い」と言って追い出そうとする、礼儀知らずの新参者。それが私たちの顔だった。

このとき気づいたのは、「異物かどうか」は物の側にある属性ではない、ということでした。古い機械が本質的に異物なのではないし、新しいAIが本質的に正統なのでもない。どちらが先に来て、どちらが後から入ってきたか——私はその時間の前後を、無意識のうちに正統性の基準にしていました。先に居たほうが主で、後から来たほうが客。だから立つ場所を入れ替えると、主と客がそっくり入れ替わる。自分と異物を分けていた線が、そのまま反転する。

不思議なのは、線そのものは一本も動いていないことです。動いたのは私の立ち位置だけ。なのに、線のどちら側が「自分」でどちら側が「異物」かが、まるごとひっくり返る。境目というのは、地面に引かれた固定の溝ではなくて、私がどこに立つかで意味が裏返る、関係そのものなんだなと。

念のため言っておくと、立ち位置が反転して見えたからといって、あの黒い画面を置き換えるべきかどうかという現実の判断が消えるわけではありません。セキュリティのリスクや、後任がいなくなったときの保守コストは、視点とは別の軸に厳然とあります。視点の反転は「どちらが正統か」の話であって、「置き換えるべきか」の話とは別物なんです。

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ここで少し遠いところに話を飛ばします。

私たちは普段、自分の身体の輪郭をはっきり感じていて、皮膚の内側が自分、外側が世界だと思っています。でも生物学に少し触れると、その輪郭はずいぶん怪しくなる。腸の中には膨大な数の細菌が住んでいて、私たちの消化や免疫や、気分にまで関わっている。彼らは私の遺伝子を一つも共有していない、定義上は完全な他者です。でも彼らがいなくなると私は生きていけない。では、彼らは「私」なのか「異物」なのか。

免疫という仕組みが面白いのは、それが「自分でないもの」を一律に攻撃するのではなく、「攻撃すべき他者」と「共に在るべき他者」を絶えず見分け続けている点です。免疫は自他の境界を一度引いて終わりにするのではなく、毎瞬その境界を引き直している。ただし、その引き直しは常にうまくいくとは限りません。花粉のような無害なものを敵と誤認して延々と攻撃し続ければアレルギーになるし、そもそも自分の細胞を他者と見誤れば自己免疫疾患として牙を自分自身に向けてしまう。境界を動かし続けること自体が正しいのではなく、動かし方を誤ることもまた、この仕組みが抱えている現実なんです。もちろん、その見分け方は単純な時間の先着順ではありません。胎児期から発達期にかけて何を「自己」として学習し耐性を獲得するか、というもっと入り組んだプロセスが絡んでいます。ここで借りているのは免疫を科学的に等値する話ではなく、境界が固定ではなく動くという構造だけです。つまり、何を異物とするかを動的に決め続けることそのものが、生きているということの中身だったりする。固定された自分の輪郭を守るのが免疫なのではなくて、輪郭を更新し続ける運動が免疫なんです。

あの黒い画面の前で起きていたのも、同じ種類のことだったのかもしれません。あの機械を異物として排除するのか、共に在るものとして抱えるのか。それは機械の性質が決めることではなく、私たちが境界をどこに引き直すかで決まる。そして引き直すたびに、自分の輪郭そのものが変わっていく。

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この問いがいま私の中で熱を持っているのは、AIエージェント同士が連携し始めている、という今の状況のせいです。

少し前まで、道具は明らかに私の外側にありました。ハンマーも、計算機も、あの黒い画面ですら、使い終われば手を離せる他者でした。ところがエージェントに仕事を渡し、その出力を受け取り、また渡す——という往復を続けていると、どこまでが自分の思考の延長で、どこからが他者の判断なのかが、だんだん曖昧になってくる。私の問いがエージェントを動かし、エージェントの返答が私の次の問いを変える。境目は、もう私の皮膚の上にはありません。

そうなると、「これは私が考えた」「これはAIが考えた」という線引き自体が、立ち位置次第で反転する種類のものになります。AIの側から見れば、後から介入して出力を書き換える私のほうが、自律的な処理に割り込んでくる異物かもしれない。馬鹿げた想像に聞こえるでしょうか。でも四十年機械の前にいた人が、新しいAIを異物と感じたのと、構造はまったく同じなんです。先に居たほうが、後から来たものを異物と呼ぶ。ただそれだけのことが、人と機械の間でも、人とAIの間でも、同じように働いている。

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私はまだ、この反転にうまく気づけません。立ち位置が入れ替わったあとで、少し経ってから、ああ、さっきまで自分が異物の側だったのかと気づくのが精一杯です。反転している最中、線が裏返っているその瞬間に、それを感じ取る感覚を、私はまだ持っていない。

たぶん、それを掴むには、自分の輪郭を一度固定するのをやめないといけないんだと思うんですよね。「ここからが自分、ここからが異物」という線を握りしめている限り、線が反転したことには気づけない。握っているものが裏返ったとき、人はそれを「裏切られた」と感じてしまうから。線を握るのをやめて、線が動くことのほうを当たり前として眺める——そういう立ち方ができたとき、初めて反転をリアルタイムで感じられるのかもしれません。

あの黒い画面は、いまも工場の片隅で緑の文字を灯し続けています。四十年前に生まれ、四十年分の境界を背負ったまま、今日も誰かがキーを叩くのを待っている。自分が異物なのか相棒なのか、その答えを機械自身は求めていません。線を引き直しているのは、いつだって画面の前に立つ人間のほうです。

あなたの職場にも、きっと同じような画面があるはずです。名前も形も違うけれど、誰も触れずに、誰も手放せずにいる何かが。それを異物と呼んでいるのは、本当に、その何かのほうでしょうか。

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