大久保──民泊に侵蝕される移民街
大久保地区の歴史は、江戸幕府の防衛の要として始まった。徳川家康が江戸に入府した際、西からの敵に備えるため、伊賀組などの鉄砲百人組をこの地に配置した。これが現在の「百人町」の地名の由来である。

当時は武家屋敷が立ち並ぶ一方、隊士たちが内職として始めたツツジの栽培が有名になり、江戸時代中期から明治にかけては江戸近郊の一大観光地として知られていた。

明治以降は、周辺に陸軍の施設ができたことで、軍人や官僚、そして多くの文化人が移り住む閑静な山の手の住宅街へと変貌する。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が晩年を過ごした地であり、島崎藤村や国木田独歩、林芙美子といった名だたる文豪が居を構えた文学の街でもあった。
だが、東京大空襲によってほぼ全域が灰燼に帰し、住民が街を離れた後は、朝鮮戦争に従事する米軍兵の盛り場となった。加えて、韓国系企業のロッテが工場を構えたことで、韓国人が聚落を形成し、百人町及び大久保一帯は国内屈指のコリア・タウンとして広く知れ渡るようになった。近年では中国や東南アジア、ムスリム系の商店も軒を連ねるほか、各種専門学校や予備校なども混在する雑多な地区となって、現在に至っている。
多様な移民街の百人町
大久保地区は、大きく分けて西側の百人町と東側の大久保とに分かれる。
JR山手線新大久保駅から大久保通りを西向きに歩を進める。西側の百人町は、中国や東南アジアなどの移民による商店が多い地区である。

通りから路地に入っても、東南アジアやムスリム系の商店が続いており、通称「イスラム横丁」と呼ばれている。
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