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後楽園は性に合わない/磯野真穂・宮野真生子『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)

 後楽園の話をしているとき、Kが急に「後楽園は性に合わない」と言った。なにか人の動きが設計されている感じがすると。私はそれを聞いて、それはモールの発想そのものではないかと思った。つまり、人の動きを含んだ上で設計された施設ということだ。

 人が動く動線はもちろん、視線、欲望、そうしたすべてを計算に入れた上で設計されている。そういう意味ではあまりに人工的な場所だ。それに対して、例えば神保町を歩いて古本屋や中華料理屋に入る体験は、そこまで人工的には感じられない。自分で歩いて、何かを見つけ、そこに入っていく。そのプロセスは主体的で人間的な感じがする。

 でも、大きな視点で見れば、その二つは同じなのではないか。そこには相対的な差しかないのではないか、というのが私の意見だ。都市は私たちに合理性や生産性を常に求めている。どの電車に乗って、どこからどこへと通うのか、それは都市がある強いてくる動きだ。私たちは基本的にこれをなぞることになる。

 もちろんそれを外すことは可能だが、それを完全に無視することは難しい。私たちと都市との戦いは常に都市が勝つようにできている。かつてジム・キャリーの『トゥルーマン・ショー』という映画があった。そこでは世界のすべてが、どこかのテレビプロデューサーが仕組んだヤラセテレビ番組だった。

 初めて後楽園のスパ・ラクーアという温泉施設に行ってみた。なんとなく、温泉に入れば疲れが取れるだろうと期待したからだ。後楽園駅には昼くらいから楽天のユニフォームを着たファンたちが集まっていた。今日はなぜか、楽天対西武という、どちらも東京ドームをホームとしていないチーム同士の戦いがある。聞けば楽天ファンの友人が観戦に来ると言う。スパ・ラクーアは清潔でよく管理されていた。浴場に入ると運動部か何かだろうか、体格のいい男たちが並んでサウナに何度も出たり入ったりしていた。色々な湯に浸かり、副交感神経が活性化された。

 カンヌ国際映画祭の最優秀女優賞を獲得したと帯に書いてある、濱口竜介監督によって映画化もされたため、書店でとても大きく展開されている『急に具合が悪くなる』を読んでみた。奥付を見ると、2019年刊行で既に21刷。圧倒的なロングセラーだ。本書は人類学者の磯野真穂と、哲学者の宮野真生子の往復書簡なのだが、宮野はガンを患っており、互いの手紙では、そのことを中心にしながら、さまざまなことを語り合う。病院のことや、患者と医者のこと、病のこと、家族のこと、そうしたことを語っていくうちに、少しずつ宮野の病が進行してゆく。

 この往復書簡で論じられていることは多岐にわたるが、その一つは人間とどう付き合っていくかという問題だ。人を信頼するとはどういうことなのだろうか。例えば、「第9便」に出てくる、人に「患者」とか「元気な人」とレッテルを貼ってしまうことが、とても重要なテーマだ。

 私たちは普段から、人の一面ばかりを見てしまいがちだ。あの人は「患者」だとか、なんらかの「マイノリティ」だとか、どういう職業だとか、レッテルは様々あるがそれらに共通しているのは、相手の全体を見ることができなくなるということ、目の前にいる相手の「動き」に意識がいかなくなるということ。

 本書内では、ティム・インゴルドの『ラインズ』という本が援用されてて、以下のようにまとめられている。

 関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。

188ページ

 これは磯野による言葉だが、関係性を作り上げることは、「運動」「描き続け」「通り抜け」「見つけ出し」「踏み出してゆく」という一貫して動的なイメージとして語られる。その反対に、否定されるのは「握手をして立ち止まること」「受け止めること」とされ、これは「静的」なイメージ、人と人の関係を固定的に捉えるものとされる。

 確かに私たちは、病気の人、何か特徴を持っている人を、その特徴だけの存在として見做しがちである。例えばマイノリティだったとして、私たちはそのマイノリティ性を理由に、彼らを「弱者」であるとラベリングし、その人を救おうとしたりする。しかしそのマイノリティ性は、その人のあくまで一部でしかない。その人の中にはもっと複雑で動的なものが、常に湧き起こる。

 マルクス主義者がマルジェラの洋服を着てもなんの不思議もない。病気の人が声を出して笑ったとしても全く驚くことではない。苦しい日々がそれでも楽しいということはあり得る。そうした人間の矛盾に目を遣ること、意識を配ること、逃さないことこそが、おそらくは磯野の言う「関係性を作り上げる」ことなのだろう。

 一方で、そうした生の動き捉え損ない、関係性を固定的なものとして捉えてしまった瞬間、私たちはその矛盾に対して不寛容になる。それは一人の人間という総体を認められなくなるということだ。そしたら「多様性」という言葉はただの絵に書いた餅のように空々しいものになる。

 このように本書で二人は、例えば「患者」と「元気な人」、「患者」と「医者」、マジョリティとマイノリティなど、ある種の権力関係を帯びがちなレッテルを、次々に脱構築しているとも言える。二人の書簡は、「当事者」と「聞き手」というような自分達の関係性さえも破壊しながら、しかし同時に、彼らは生と死という目の前で起こる出来事に対峙し続ける。

 その二人の言葉は時に非常に冷静で知的で合理的でさえあえるが、その一方で、彼らの言葉は情熱的で互いを誇り合い、そしてあまりに、敢えてこう言う言葉を使えば「エモい」。彼らの知的な操作に絡みつくように登場する「エモい」言葉たちが、私を困惑させる。私は正直その温度感に乗れない部分もあった。しかし同時に、死と対峙するというのは、どうしても他人事のような距離感では無理なことであり、この往還こそがリアルなのだとも思う。私たちは知的でありながら、感情的であるということもある。

 ティム・インゴルドの本を私はまだ読んだことがないが、磯野のまとめによると、インゴルドは著書の中で「輸送」と「徒歩旅行」を対比している。「輸送」とはあらかじめどこからどこへとものを運ぶという目的が決められた移動であり、「徒歩旅行」はそれとは逆で、目的が決められていないがゆえに、人はさまざまな風景と出会い、その偶然性に人は身を晒す。人と人との関係はこの「徒歩旅行」のようなものではないか。「患者」と「医師」「カウンセラー」などの契約によって結ばれた関係性はどうしても「輸送」的になりがちだ。

 やや二項対立的に言うならば、今の日本社会そのものが「輸送」的になっているだろう。合理的に行われる再開発が、人の感覚を無視しているために、街が魅力を失っていくと、最近森まゆみが言っていたことにもつながるかもしれない。

 このように、本書は、概念と実体験を行き来し、常にその両方が問い直される。そこに、どこまでも広がりゆく知的な面白さがあるし、前述のように非常に冷静なようでありながら、実際には非常に感情的な面もある。普通の往復書簡にはない、ある意味であまりにリアルなドキュメンタリーを観たときのような、なんとも言えない気まずさが本書にはある。

 私は正直読むのが辛いページも少なくなかったが、それでもここから目を背けてはいけないのだろうと思って読んだ。まだ観ていないが、きっと濱口竜介監督による映画化もまた、このような気まずさから目を背けないものになっていて、それがゆえに世界的に高く評価されているのだと思う。 


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