死んだ僕らは、カルマを解消しにいく。
この物語は、私が実際に見た夢から生まれました。
死神のような存在と、3人の女性と、幼い男の子。
死んだ4人が、不思議な球体のような乗り物に乗って現実世界へ戻り、それぞれのカルマを解消していく。
夢の続きを、私は覚えていません。
だから、続きを物語にしてみることにしました。
これは、ただの夢だったのか。
それとも、どこかで本当に体験した記憶だったのか。
私にも分かりません。
ここから先は、夢と創作のあいだの物語です。
序章|死んでるから
目を開けると、知らない女が三人いた。
いや。
正確には、女が二人と――私。
それから、小さな男の子が一人。
「ねえ」
若い女が言った。
「ここ、どこ?」
誰も答えなかった。
白い。
壁も、天井もない。
地面らしきものはあるのに、足元を見ても影がない。
空なのか。
部屋なのか。
そもそも、私たちは本当に立っているのか。
それすら、よく分からなかった。
ただ、音だけが奇妙なほど鮮明だった。
誰かの呼吸。
衣擦れ。
男の子が鼻をすする音。
「僕、お母さんのところに帰りたい」
男の子が言った。
五歳か、六歳くらいだろうか。
青いスモックを着て、黄色い帽子を胸に抱えている。
幼稚園児。
なぜか、そう思った。
「お母さん、迎えに来るから」
私はしゃがんで、男の子の目を見た。
「ここで待ってよう」
男の子の目には、まだ泣くのを我慢している子ども特有の膜が張っていた。
強く瞬きをすれば、今にもこぼれそうだった。
そのとき。
「来ないぞ」
声がした。
振り返る。
少し離れたところに、黒い服を着た男が立っていた。
背が高く、ひどく痩せている。
輪郭は人間のようなのに、どこかがおかしい。
暗い場所で見たなら、顔を思い出せなかったかもしれない。
でも、ここは何もかもが白い。
それなのに、男の顔だけが、うまく目に入ってこなかった。
「どういう意味?」
私が聞くと、男は首を傾げた。
「死んでるから」
沈黙。
若い女が吹き出した。
「誰が?」
「全員」
「全員って?」
「お前ら」
また、沈黙。
「……は?」
若い女の声が、白い空間に響いた。
男は面倒くさそうに頭をかいた。
「だから、お前ら四人は死んだ」
「いやいやいや」
若い女が笑う。
「ないない。だって私、普通に喋ってるし」
「死んだら喋れないって誰が決めた?」
「みんな」
男は大きなため息をついた。
「人間は噂が好きだな」
そう言って、私たちの横を通り過ぎる。
若い女はその背中を呆然と見送ってから、私に顔を寄せた。
「あの人、何?」
「分からない」
「死神とか?」
「聞こえてるぞ」
男が振り返らずに言った。
「耳いいんだ」
「死んでるからな」
「死ぬと耳がよくなるの?」
「知らん」
「適当じゃない?」
男は足を止めた。
「ついてこい」
「どこに?」
私が聞く。
「カルマを解消しに行く」
言葉だけが、妙に重く残った。
「カルマ?」
「そう」
「悪いことをした人が受ける罰……みたいな?」
男がゆっくり振り返る。
「誰がそんなこと言った?」
「……みんな」
また、大きなため息。
「だから人間は噂が好きだと言ってる」
年配の女が初めて口を開いた。
「ついていかなかったら、どうなるの?」
男は彼女を見る。
「何も」
「何も?」
「ここにいるだけだ」
白い空間には、風もない。
時間もない。
何も起きない。
その「何も」が永遠に続くのだとしたら。
私は男の子の手を握った。
「行こう」
男の子は不安そうに私を見た。
「お母さんのところに行ける?」
「たぶん」
黒い男が言った。
「最初はな」
男の子の指が、私の手を強く握り返した。
第一章|陽 ― 僕がいるから
私たちの前に現れたのは、巨大な透明の球体だった。
シャボン玉。
最初に思い浮かんだのは、それだった。
ただ、その表面には細い線が無数に走っていて、丸いジャングルジムのようにも見える。
触れてみると、ガラスのように硬いわけではない。
薄い膜のように指先が沈み、すぐに元へ戻った。
「乗れ」
黒い男が言う。
「これに?」
「嫌なら歩いて行け」
「どこまで?」
若い女が聞く。
「時間の外まで」
若い女は一瞬だけ黙り、真っ先に球体へ入った。
「私、乗る」
「怖くないの?」
「もう死んでるんでしょ? これ以上どうなるのよ」
確かに。
私も男の子の手を握り、球体へ入った。
最後に、年配の女が無言で乗り込む。
球体が浮かんだ。
音はない。
風もない。
身体が揺れる感覚もない。
けれど、景色だけがものすごい速さで流れていく。
街。
山。
海。
知らない国。
見たことのない服を着た人々。
燃える家。
雨の中で抱き合う恋人。
赤ん坊。
結婚式。
病室。
墓。
笑い声。
怒鳴り声。
誰かを呼ぶ声。
無数の人生が、光の粒のように通り過ぎていった。
男の子は私の腕にしがみついている。
「怖い?」
私が聞くと、小さく首を振った。
けれど、握る力は緩まなかった。
「ねえ」
私は黒い男に聞いた。
「あなた、死神?」
「好きに呼べ」
「名前は?」
「ない」
「不便じゃない?」
「死神を名前で呼ぶほど長居する奴はいない」
若い女が笑った。
「じゃあ、クロでいいじゃん」
男が眉を寄せる。
「犬みたいだから嫌だ」
「じゃあクロね」
「話を聞け」
「私は美月」
若い女が自分の胸を指した。
「二十四歳。たぶん」
「たぶん?」
「死んだときの年齢とか、まだ思い出せないから」
次に、年配の女を見る。
「あなたは?」
「澄江」
「何歳?」
「78」
「覚えてるんだ」
「忘れるほど昔じゃないわ」
美月は少しむっとした顔をしたが、すぐに男の子へ目を向けた。
「君は?」
男の子は私の手を握ったまま答えた。
「分かんない」
「名前は?」
「……陽」
「陽くんね。私は美月」
「みづき?」
「そう。きれいな名前でしょ」
「自分で言うのね」
澄江が呟いた。
「いいじゃん。死んだ後くらい自分を褒めても」
美月が笑う。
「で、あなたは?」
全員の視線が私に集まった。
口を開こうとして、気づく。
名前が出てこない。
自分の顔も。
年齢も。
どこで暮らし、誰を愛し、どうやって死んだのかも。
白い霧がかかっている。
「……分からない」
「何も?」
私は頷いた。
クロだけが、何も言わずに私を見ていた。
その視線に、胸の奥がざわついた。
まるで。
私が忘れている理由を、知っているようだった。
球体が止まった。
最初に聞こえたのは、子どもたちの笑い声だった。
高くて、無邪気で、少し耳に刺さるような声。
白かった世界に、突然、色が戻ってくる。
黄色い帽子。
青いスモック。
赤と白に塗られた鉄棒。
色あせた動物の遊具。
砂埃の匂いまでした。
死んだはずなのに、匂いを感じることが不思議だった。
「あ」
陽が小さく声を漏らした。
さっきまで私の手を握っていた指が、するりと離れる。
「ここ、知ってる」
陽は園庭へ駆け出した。
子どもたちの間をすり抜けていく。
誰も陽に気づかない。
一人の男の子の前で止まり、一緒に走ろうと手を伸ばす。
その手は、男の子の身体を通り抜けた。
陽の笑顔が、一瞬だけ止まる。
けれど、すぐに黄色い滑り台を指した。
「僕、あれ好きだった」
笑っていた。
でも、なぜだろう。
その笑顔は、少しだけ泣いているように見えた。
クロが言った。
「最初はお前だ」
「僕?」
陽の顔が曇る。
「僕、悪いことしたの?」
「してない」
「じゃあ、なんでカルマがあるの?」
クロは答えなかった。
私たちは幼稚園を出た。
陽だけが知っている道を歩く。
小さな公園。
赤い自動販売機。
角に並べられた植木鉢。
陽は時々立ち止まり、懐かしそうに周囲を眺めた。
「ここで転んだ」
膝を指す。
「血、いっぱい出たけど、泣かなかった」
「偉いね」
私が言うと、陽は少し困ったように笑った。
「お母さん、忙しかったから」
胸の奥に、小さな棘が刺さった。
忙しかったから、泣かなかった。
子どもが泣くことに、理由なんていらないはずなのに。
「こっち」
陽が走り出す。
一軒のアパートの前で止まった。
「僕んち」
部屋の中に、一人の女がいた。
私たちは壁をすり抜ける。
誰にも見えないらしい。
女はテーブルの上に、小さなケーキを置いた。
そして、ろうそくを一本ずつ立てていく。
六本。
陽が女のそばへ駆け寄った。
「お母さん!」
女は振り向かない。
「お母さん、僕ここだよ」
届かない。
母親は、しばらくケーキを見つめていた。
何度も唇を噛み、ようやくライターに火をつける。
「陽」
初めて、男の子の名前を呼ぶ母親の声を聞いた。
「お誕生日、おめでとう」
声が震えている。
「……ごめんね」
陽の顔から、笑顔が消えた。
「何で謝るの?」
母親には聞こえない。
その瞬間。
部屋の景色が歪んだ。
壁の色が溶け、光がねじれ、過去の断片が現れる。
赤ん坊の泣き声。
散らかった部屋。
洗い物の山。
疲れ切った母親。
「もう嫌……」
若い母親が呟く。
「疲れた……」
幼い陽が、少し開いたドアの隙間から母親を見ていた。
場面が変わる。
陽がコップを落とす。
ガラスが割れる。
「もう! 陽!」
母親の声。
陽の小さな肩が震える。
「ごめんなさい」
陽は何度も謝る。
「ごめんなさい。もうしない」
また、景色が変わる。
夜。
布団の中。
陽が目を閉じている。
隣の部屋から、母親の泣き声が聞こえる。
――僕が悪い子だから。
――僕がいるから、お母さんは泣く。
――僕が生まれてこなかったら。
「やめて!」
陽が叫んだ。
景色が元に戻る。
「僕、悪くない!」
泣きながらクロを見る。
「僕、何も悪いことしてない!」
「知ってる」
「じゃあ、なんで!」
クロは静かに陽を見た。
「カルマは罰じゃない」
「……え?」
「お前が真実だと信じた記憶だ」
陽の涙が、大きな粒になって頬を伝う。
「僕がいるから、お母さんは苦しかった」
「そう思ったんだな」
「だって、お母さん、いつも泣いてた」
そのとき。
母親がケーキの前で呟いた。
「もっと抱きしめればよかった」
陽が振り返る。
「もっと、大好きって言えばよかった」
母親は顔を覆った。
「陽がいてくれて幸せだったって……ちゃんと言えばよかった」
「……お母さん?」
「ごめんね」
母親が泣く。
「あの日、一人にさせてごめんね」
陽の身体から、淡い光が溢れた。
「あの日?」
陽の表情が揺れる。
景色が一瞬だけ変わった。
雨。
道路。
赤い信号。
小さな黄色い傘。
遠くから響くブレーキ音。
次の瞬間には、元の部屋に戻っていた。
私は陽の肩を抱いた。
陽の身体は温かくない。
それなのに、震えだけははっきりと伝わってきた。
「僕……」
小さな手が、母親の頬に触れる。
もちろん、母親には見えない。
それでも。
母親はふと顔を上げた。
「陽?」
カーテンが揺れた。
窓は閉まっている。
陽はクロを見た。
「僕、お母さんを苦しめてなかった?」
クロは答える。
「それを俺に聞くな」
「じゃあ誰に聞くの?」
「自分で決めろ」
陽はしばらく母親を見つめた。
「僕がいなくなったから、お母さんは泣いてる」
「そうだな」
「僕がいたからじゃない」
「そうだな」
陽は母親に向き直った。
「僕、お母さんのこと大好きだった」
小さく息を吸う。
「お母さんも、僕のこと大好きだった」
光が弾けた。
その瞬間。
私の頭の中に、知らない景色が流れ込んだ。
赤ん坊。
腕の中に、小さな赤ん坊がいる。
その子は泣いている。
私も泣いている。
「ごめんなさい」
何度も。
何度も。
ごめんなさい、と。
胸が押し潰されそうになる。
私は誰かから赤ん坊を離そうとしている。
手放したくない。
でも、手放さなければならない。
「……何、今の」
クロが私を見た。
「思い出したか?」
「何を?」
クロは答えなかった。
幕間|会えてないよ
球体へ戻ると、陽は窓の外を見ていた。
先ほどまでの怯えた表情はない。
子どもらしい顔に戻っている。
美月が陽の隣に座った。
「お母さんに会えて、よかった?」
陽は頷いた。
「うん」
少ししてから、付け加える。
「でも、お母さんは僕に会えてないよ」
美月の笑顔が止まった。
「そうだね」
「僕だけ会えて、ずるいかな」
「ずるくないよ」
美月はすぐに答えた。
けれど、声が少し掠れていた。
「ずるくない」
自分に言い聞かせているようだった。
「会いたかった人がいるの?」
陽が聞く。
美月は窓の外を見る。
「さあ」
「いる顔してる」
「陽くん、意外と鋭いね」
「顔に書いてある」
澄江が鼻で笑った。
美月が振り返る。
「それ、さっきも言われた気がする」
「分かりやすい顔なのよ」
「澄江さんは、会いたい人いないの?」
「いないわ」
答えるのが、少しだけ早かった。
球体の表面を、さまざまな人生が流れていく。
誰かと出会う場面。
別れる場面。
抱きしめ合う場面。
背を向ける場面。
私は、自分の手を見た。
赤ん坊を抱いていた感覚が、まだ腕に残っている。
あれは誰の記憶だったのだろう。
陽を見た瞬間から、私はあの子を放っておけなかった。
母親のもとへ連れていきたいと、強く思った。
それはただ、陽が幼いからだろうか。
それとも。
私は以前にも、あの小さな手を握ったことがあったのだろうか。
第二章|美月 ― あなたのためだから
「次は美月だ」
クロが言った。
「私、カルマとかないと思うんだよね」
美月は球体の床に寝転び、両手を頭の後ろで組んだ。
「陽みたいな重い人生じゃなかったし」
「人生の重さを量る機械はない」
「また名言っぽいこと言ってる」
「喋るな。酔うぞ」
「この乗り物、酔うの?」
「知らん」
「適当すぎない?」
クロは答えず、前を向いた。
球体が止まった。
私たちが降りたのは、夕方の駅だった。
仕事帰りの人が足早に通り過ぎていく。
ホームには冷たい風が吹いていた。
電車の到着を知らせる音楽。
機械的なアナウンス。
線路の向こうに沈みかけた太陽。
そのすべてが、美月から少しずつ笑顔を奪っていった。
ベンチに、一人の男が座っていた。
三十歳くらいだろうか。
黒いコートを着て、俯いている。
「……行こう」
美月が言った。
「ここじゃない」
クロは動かない。
「ねえ。行こうって」
男がポケットから何かを取り出した。
指輪だった。
小さな銀色の輪。
ホームの光を受け、かすかに光った。
美月の唇が震える。
「知ってる人?」
私が聞いた。
「知らない」
「嘘ね」
澄江が初めてはっきりと美月を見た。
「何よ」
「顔に書いてあるわ」
「死んでも顔に出るんだ」
クロが呟く。
「うるさい!」
美月の声と同時に、景色が歪んだ。
白い病室。
カーテン越しの日差し。
美月がベッドに座っている。
身体は今より痩せ、顔色が悪い。
医師が何かを話している。
声は聞こえない。
けれど、美月の表情だけで分かった。
残された時間は、長くなかった。
景色が変わる。
喫茶店。
窓の外は雨。
美月は、先ほどの男の前で笑っていた。
無理に口角を上げた、不自然な笑顔。
「好きな人できた」
男の顔が固まる。
「だから別れよ」
「嘘だ」
「本当」
「美月」
「もう好きじゃない」
男の手が、美月の腕を掴む。
「病気のことと関係あるのか」
「ない」
「俺に何もさせないつもり?」
「何もしてほしくない」
「俺がしたいんだよ」
美月の目が揺れた。
けれど、すぐに冷たい顔を作る。
「しつこい」
男の手を振り払う。
「一緒にいると疲れる」
男が何かを言おうとする。
美月は立ち上がった。
「じゃあね」
店を出る。
雨の中を歩く。
一度も振り返らない。
角を曲がり、男の姿が見えなくなった瞬間。
美月はその場に崩れ落ちた。
傘が転がる。
雨が髪と服を濡らしていく。
「……見たくない」
今の美月が呟いた。
「もういい」
「何が?」
クロが聞く。
「私が悪かった。それでいい」
「何が悪かった?」
「あの人を傷つけた」
「なぜ?」
「私が死ぬから!」
美月の声が、ホームに響いた。
けれど、生きている人たちは誰も振り向かない。
「私のために人生を使ってほしくなかった!」
涙が落ちる。
「若かったんだよ」
男を指す。
「やりたいこと、いっぱいあったの」
「私の病院に来て、私の手を握って、私が死ぬのを待つ人生なんて……そんなの嫌だった」
「それを決めるのは誰だ?」
クロが聞く。
「……え?」
「そいつの人生だろ」
「だって、私がいたら――」
「幸せになれない?」
「そうよ」
「そいつがそう言ったのか?」
美月が黙る。
駅のベンチに座る男は、指輪を握りしめたまま動かない。
電車が一本、ホームへ入ってくる。
風が吹き抜ける。
男の髪が揺れる。
けれど、乗ろうとはしなかった。
「毎年来てる」
クロが言った。
「え?」
「お前が死んだ日、この駅に」
美月の顔が歪む。
「どうして」
「さあな」
「忘れればいいのに」
「それも、そいつが決めることだ」
美月が男の前へ歩いていく。
「ごめん」
男には聞こえない。
「ごめんね」
美月は男の隣に座った。
肩を寄せようとしても、触れることはできない。
「私、あなたのためだと思ってた」
男は指輪を見つめている。
「愛し方、間違えたのかな」
クロは答える。
「知らん」
「そこは何か言ってよ」
クロは少し考えた。
「愛に正解があるなら、人間はこんなに何度も生まれてこない」
美月が目を見開く。
「ただ」
クロは続ける。
「お前は一人で決めすぎた」
美月は泣きながら笑った。
「……それ、生きてるときに言ってよ」
「言ったとして、お前は聞いたのか?」
「聞かないかも」
「だろうな」
男が立ち上がった。
指輪をポケットへ戻す。
美月も立つ。
「私、あなたを愛してた」
男の背中に向かって言う。
「だから離れた」
少し間を置く。
「でも、それで愛したことになるとは限らなかったね」
光が美月を包む。
男が足を止めた。
ふと、振り返る。
もちろん、美月の姿は見えない。
それでも、男は小さく笑った。
「……知ってたよ」
美月の目から、さらに涙が溢れた。
光が弾ける。
また。
私の中に、知らない記憶が流れ込む。
誰かの手を離す私。
相手は泣いている。
私は言う。
――あなたのためだから。
違う。
その人のためだけではなかった。
これ以上、責められたくなかった。
愛せなかった自分を、見たくなかった。
私は逃げた。
胸が鋭く痛んだ。
なぜ私は、美月の言葉にこんなにも腹が立つのだろう。
「あなたのため」
その言葉を、私は何度使ってきたのだろう。
幕間|好きなら言えばよかったのに
球体の中で、美月はしばらく黙っていた。
陽が美月の隣に座る。
「会えてよかった?」
美月は笑う。
「うん」
「でも、あの人は美月に会えてないよ」
「陽くん、それ今言う?」
「ごめんなさい」
「冗談。謝らなくていいよ」
美月は陽の頭を撫でようとして、手を止めた。
死者同士なら触れられる。
陽の柔らかい髪が、指の間を通った。
「会えてなくても、届くことはあるのかもね」
澄江が窓の外を見たまま言った。
「馬鹿ね」
美月の眉が動く。
「何が?」
「好きなら、好きと言えばよかったのよ」
「簡単に言わないでよ」
「簡単でしょう。口に出すだけなんだから」
美月が立ち上がる。
「じゃあ澄江さんは言ったの?」
澄江が黙る。
「大事な人に、ちゃんと愛してるって言った?」
「……」
「会いたいって言った?」
澄江の横顔が硬くなる。
「言ったことないんでしょ」
「あなたに関係ないわ」
「あるよ。次、澄江さんでしょ」
球体の中の空気が、冷たくなった気がした。
クロが前を向いたまま言う。
「着くぞ」
澄江は美月を見なかった。
第三章|澄江 ― 言えるわけないじゃない
到着したのは、古い一軒家だった。
夕方。
西日が窓から差し込み、部屋の埃を照らしている。
段ボール箱がいくつも積まれていた。
五十代の女が、一人で荷物を整理している。
「娘よ」
澄江が言った。
それだけだった。
娘は黙々と衣類を畳み、使わなくなった食器を新聞紙に包んでいる。
片づける手つきは早い。
けれど、時々動きが止まる。
古いマグカップ。
色あせたハンカチ。
書きかけの買い物メモ。
それらを手に取り、何かを考える。
そして、また箱へ入れる。
「亡くなって、どれくらい?」
私が聞く。
「三か月」
澄江は短く答えた。
「娘さん、一人で片づけてるの?」
「夫がいるわ。今日は仕事よ」
「仲よかった?」
澄江は答えなかった。
娘は押し入れの奥から、一冊のノートを見つけた。
黒い表紙。
特別な飾りもない。
ページを開く。
『今日は帰りが遅かった。ちゃんと食べているのかしら』
次のページ。
『電話をしたい。でも仕事の邪魔になるかもしれない』
次。
『誕生日。メールだけ送った。返事が来た。嬉しい』
次。
『会いたい』
娘の手が止まった。
「……何これ」
さらにページをめくる。
どのページにも、娘のことが書かれていた。
『咳をしていた。風邪ではないといいけれど』
『孫が小学校に入った。写真を見せてもらった』
『一緒にお祝いをしたかった』
『今さら、どんな顔で会えばいいのか分からない』
娘の呼吸が乱れる。
「お母さん……」
澄江が背を向けた。
「帰るわ」
「まだだ」
クロが言う。
「もういい」
「よくない」
「私は何も――」
「お母さん!」
娘が叫んだ。
澄江が振り返る。
「言ってよ……」
娘はノートを抱きしめた。
「会いたかったなら、言ってよ」
「……」
「私、嫌われてると思ってた」
澄江の唇が震える。
娘はノートのページを乱暴にめくる。
「何でこんなところに書くの?」
涙が紙に落ちる。
「私に言わなきゃ、分からないじゃない」
澄江は娘の前に立った。
「言えるわけないじゃない」
誰にも聞こえない声。
「私だって」
初めて。
澄江が泣いた。
「言われたことなんて、なかったのよ」
景色が歪む。
幼い澄江がいた。
薄暗い台所。
母親が背を向けて料理をしている。
「お母さん」
幼い澄江が呼ぶ。
返事はない。
「今日、学校で賞をもらったの」
母親は鍋をかき混ぜながら言う。
「そこに置いて」
「見てくれないの?」
「忙しいの」
景色が変わる。
高熱を出した澄江が布団に寝ている。
母親は額に手を当て、濡れた布を替える。
けれど、「大丈夫?」とも「つらいね」とも言わない。
また景色が変わる。
澄江が家を出る日。
母親は荷物を持つのを手伝う。
「身体に気をつけなさい」
それだけ。
抱きしめない。
寂しいとも言わない。
澄江はずっと、母親に愛されていないと思っていた。
「お母さんも、言えなかっただけかもしれないね」
私が言う。
澄江が私を睨む。
「分かったようなこと言わないで」
胸の奥がざわついた。
その目を、私は知っている。
誰かに同じ目で見られたことがある。
あるいは。
私が誰かを、そういう目で見たのかもしれない。
クロが言った。
「言われなかったことと、言わないことは同じじゃない」
「分かってるわよ!」
澄江が叫ぶ。
「今なら分かるわよ!」
娘はノートを抱きしめて泣いている。
「私だって、お母さんに会いたかった」
澄江の表情が崩れる。
「でも、私ばっかり連絡するのが嫌だった」
娘は子どものように泣いた。
「もう必要ないって思われてる気がして」
「違う」
澄江が言う。
「違うのよ」
「お母さんの顔を見ると、いつも怒ってるみたいで」
「怒ってないわ」
「何を考えてるか、分からなかった」
「あなたに迷惑をかけたくなかっただけ」
「それを言ってよ!」
娘の叫びと、澄江の声が重なった。
二人とも、同じことを言っている。
相手を思って、言わなかった。
傷つくのが怖くて、聞かなかった。
愛されていないと思いながら。
愛していることを隠した。
澄江は、娘の前に立つ。
「愛してたわよ」
娘は泣いている。
「ずっと」
澄江の手が、娘を抱く。
「あなたが生まれた日から、ずっと」
触れられないはずなのに。
娘は、何かに包まれたように肩の力を抜いた。
「言えなくて、ごめんなさい」
光が溢れる。
澄江の身体を包み込む。
娘はノートを胸に抱いたまま、小さく呟いた。
「私も、会いたかったよ」
光が弾けた。
そして。
私は思い出した。
母。
冷たい目。
何も言わない口。
背を向ける私。
――絶対に許さない。
そう言った。
誰に?
母に?
それとも。
許したら、愛されたかった自分を認めなければならない。
だから私は、怒りを握りしめたのだろうか。
母にではなく。
母を求め続けた自分を、許せなかったのだろうか。
第四章|私 ― 愛されていない
球体へ戻った。
誰も喋らなかった。
陽は穏やかな顔をしている。
美月は泣き腫らした目で、どこか遠くを見ていた。
澄江は腕を組み、目を閉じている。
けれど、以前のような硬さはなかった。
「次は?」
私は聞いた。
クロが私を見る。
「お前だ」
「私の行き先は?」
「もう着いてる」
球体が止まった。
見慣れない部屋。
一人の女がいた。
パソコンに向かっている。
そばにはカードと、星が描かれた紙。
窓辺に置かれた小さな植物。
飲みかけのコーヒー。
壁には、月の満ち欠けが描かれたカレンダーが掛かっている。
女は画面の向こうにいる誰かの話を聞いていた。
「大丈夫」
優しい声。
「あなたは、ちゃんと愛されてるよ」
胸が痛んだ。
なぜだろう。
この声を知っている。
この部屋を知っている。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。
「……誰?」
クロは答えない。
女には家族がいた。
写真立ての中で、子どもたちが笑っている。
別の写真には、家族で出かけたらしい風景。
女は笑っていた。
時々、怒った。
時々、泣いた。
うまくいかない日もあった。
誰にも会いたくない日も。
自分だけが取り残されているように感じる夜もあった。
それでも朝になれば起きて。
誰かの話を聞き。
誰かを癒し。
誰かに愛され。
生きていた。
「この人を知ってる」
私は言った。
でも。
知らない。
「私?」
「違う」
クロが言う。
「お前の次だ」
「次?」
「次の人生」
息が止まる。
陽が私の手を握った。
その瞬間。
すべてを思い出した。
陽。
腕の中の赤ん坊。
私は、あの子の母親だった。
けれど、私はあの子を育てることができなかった。
戦争。
貧しさ。
家族の反対。
詳しいことは、断片でしか分からない。
私は泣きながら、赤ん坊を誰かに預けた。
「ごめんなさい」
あのときの子が、陽だった。
別の人生では、私は陽の子どもだった。
陽は、不器用な父親だった。
愛していると言えず、働くことでしか家族を守れなかった。
私たちは何度も、親と子を繰り返した。
美月。
私は彼女に置いていかれたことがあった。
愛されていなかったのだと思った。
けれど、別の人生では。
私が美月を置いていった。
「あなたのため」と言って。
自分の怖さから逃げるために。
澄江。
私の母。
私は最後まで、母を許さなかった。
けれど、別の人生では。
私が澄江の母だった。
愛していると言えなかった。
傷つけるつもりなどなかった。
ただ、自分も愛され方を知らなかった。
母になり。
子になり。
恋人になり。
時には友人になり。
置いていき。
置いていかれ。
求め。
拒み。
私たちは何度も出会っていた。
「私のカルマは?」
声が震える。
クロは、現代を生きる女を指した。
「まだ分からないか?」
女が笑っている。
画面の向こうにいる誰かに言っている。
あなたは愛されている。
大丈夫。
一人じゃない。
その言葉を、自分自身には向けられないまま。
「お前は何度も愛された」
クロが言った。
「でも、そのたびに違う意味をつけた」
母が泣けば。
私のせい。
母が黙れば。
私は愛されていない。
愛する人が去れば。
私は捨てられた。
誰かが私を必要とすれば。
期待に応えなければ、愛はなくなる。
誰かに優しくされれば。
いつか裏切られる。
だから。
先に離れた。
先に諦めた。
先に「いらない」と言った。
傷つかないために。
「じゃあ……」
涙が溢れた。
「私のカルマは?」
クロが笑った。
初めて。
ほんの少しだけ。
「自分だけは、愛されていないと思ったことだ」
何かが切れた。
違う。
ほどけた。
陽が私の手を握る。
美月が反対の手を握った。
澄江の手が、私の背中に触れる。
私は3人を見た。
私が傷つけた人。
私を傷つけた人。
愛していた人。
愛してくれていた人。
誰が加害者で。
誰が被害者なのか。
もう、分からなかった。
私たちは立場を変えながら。
何度も同じ傷を見ていた。
愛されなかった記憶。
愛せなかった後悔。
伝えなかった言葉。
受け取れなかった愛。
「カルマを解消するって」
私はクロを見る。
「過去をなかったことにすること?」
「違う」
「相手を許すこと?」
「それだけでもない」
「じゃあ、何?」
クロは少し考えた。
「同じ記憶を見ても、もう同じ意味を選ばないことだ」
母が泣いていた。
私のせいだと思った。
でも、母にも母の悲しみがあった。
誰かが去った。
愛されていないと思った。
でも、去った人にも恐れがあった。
言葉をもらえなかった。
必要とされていないと思った。
でも、言えないほど深い愛もあった。
出来事は変わらない。
起きたことも、消えない。
でも。
その出来事にどんな意味を与えるかは、変えることができる。
私はずっと探していた。
愛された証拠を。
言葉に。
態度に。
誰かの選択に。
分かりやすい形に。
私が望む形で愛されなければ、愛ではないと思っていた。
でも。
私は何度も愛されていた。
ただ。
愛だと気づかなかった。
「私は、愛されてた?」
クロは答えない。
「また自分で決めるの?」
「もう分かってるだろ」
私は陽を見る。
美月を見る。
澄江を見る。
3人も私を見ている。
「うん」
声が震える。
「私は、愛されてた」
光が溢れた。
身体の輪郭が消えていく。
怖くはなかった。
溶けてしまうのではない。
戻っていくのだと思った。
本当は、ずっと一つだった場所へ。
意識が遠のく直前。
私はクロに聞いた。
「あなたは、どうして私たちを助けるの?」
「助けてない」
「じゃあ、何してるの?」
クロは大きなため息をついた。
「忘れ物を取りに連れてきただけだ」
「私たち、何を忘れてたの?」
クロは答えなかった。
けれど。
なぜか、もう分かっていた。
終章|夢の続きを忘れた朝
目が覚めた。
頬が濡れていた。
「……何の夢?」
部屋は暗い。
カーテンの隙間から、わずかに青い光が差している。
時計を見る。
まだ夜明け前だった。
胸が苦しい。
けれど、嫌な苦しさではない。
長い間、硬く閉じていた扉が急に開いたような。
息の仕方を、身体が思い出したような。
そんな感覚だった。
死神がいた。
女が三人。
男の子が一人。
丸いジャングルジムみたいな。
シャボン玉みたいな乗り物。
みんなで、どこかへ行った。
何かをしていた。
大切なことだった。
でも。
思い出せない。
夢の記憶が、指の間からこぼれる砂のように消えていく。
私は慌ててスマートフォンを手に取った。
目が光に慣れず、画面が眩しい。
メモを開く。
忘れないうちに、指を動かした。
『死神』
『女3人』
『男の子1人』
『死んだ後』
『現実世界』
『カルマを解消』
『幼稚園』
『お母さん』
『丸いジャングルジム?』
『シャボン玉?』
そこまで書いて、手が止まった。
まだ何かあった。
誰かが泣いていた。
誰かが笑っていた。
大切な言葉を聞いた気がする。
でも、掴もうとすると消えてしまう。
なぜだろう。
涙が止まらなかった。
悲しいわけじゃない。
胸の奥が、ひどく温かい。
私は最後に、一行だけ書き足した。
『スピ小説を書けそう』
そして、スマートフォンを閉じた。
枕に頭を戻す。
夢のことは、もうほとんど思い出せなかった。
それでも。
目を閉じる直前。
誰かに手を握られた気がした。
小さな手。
温かな手。
しわのある手。
そして。
どこか遠くで。
男が大きなため息をついた。
「……そこまで思い出して、忘れるのか」
もちろん。
その声を、私は覚えていない。
――終――
あとがき|夢と創作のあいだで
この物語の始まりは、私が実際に見た夢です。
夢の中には、死神のような存在がいました。
3人の女性と、幼稚園くらいの男の子。
私たちはすでに死んでいて、丸いジャングルジムのような、シャボン玉のような不思議な乗り物に4人で乗っていました。
そして現実世界へ戻り、それぞれのカルマを解消していく。
最初に向かったのは、男の子が通っていた幼稚園と、お母さんのところでした。
私が実際に覚えているのは、ここまでです。
物語に登場する陽、美月、澄江。
そして、それぞれが抱えていたカルマや4人の繋がりは、夢から目覚めたあとに物語として生まれました。
ただ。
書き終わった今も、少し不思議な感覚があります。
私は普段から、魂やカルマ、過去世について触れる仕事をしています。
だから、ただ自分の知識や経験から作った物語なのかもしれません。
それとも。
夢の中で見た物語の続きを、私は「創作」という形で思い出しただけなのか。
それは、私にも分かりません。
夢を見た時間帯や、目覚めたあとの感覚から、もしかするとアストラル界のような場所へ行っていたのかもしれない。
そんなことも、少しだけ思っています。
カルマは、罰ではない。
私たちは、自分が体験した出来事に意味をつけ、その意味を「真実」だと思いながら生きています。
「私のせい」
「愛されていない」
「必要とされていない」
「私さえ我慢すればいい」
「相手のためだから」
もしかするとそれは、魂が長い時間、大切に握りしめてきた記憶なのかもしれません。
起きた出来事は変えられなくても。
その出来事に与えた意味は、変えられるのかもしれない。
そして。
本当はずっとそこにあった愛に、あとから気づくこともできるのかもしれません。
もし、この物語のどこかで胸が動いたのなら。
あなたの魂にも、思い出しかけている何かがあるのかもしれません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
月野めい
