私が愛した横浜駅は「上書き保存のサグラダ・ファミリア」だった
先日、noteの投稿企画で大変ありがたい賞を頂戴してからというもの、夫は私を「先生」扱いするようになった。
夫はよく言えば素直で、悪く言えば単純でもある。
「この勢いで次回作も受賞を狙いましょう!次のテーマはこちらでどうでしょうか先生!」という調子で、やたらと新たな投稿企画テーマを教えてくれるようになった。そこで私は、
「キミは、文章というものを分かっているのかね?下心を出した瞬間に受賞は遠のくんだよ。文章は、降りてきた瞬間に書き留めるに限る」
と文筆界の重鎮のような口調で夫をたしなめた。
でも夫から教えてもらった投稿企画「#この駅がすき」の概要を読んでいたら、やっぱりすきな駅について書きたくなったので、書いてみることにした。
私も、夫に負けず劣らず単純だった。
そんな私がすきな駅は、横浜駅である。
私は生まれてこの方39年、住民票を横浜市外に移したことがない。「生粋のハマッコです☆」というアピールをしたくなるが、実は横浜市は大変広い。
神奈川県外の皆さんが想像する『横濱』は、きっと元町やみなとみらいといったベイエリア、または「横浜都民」と呼ばれるハイクラス市民が住む青葉区、あるいは慶應義塾大学日吉キャンパスが街のアイデンティティとなっている港北区だろうか。
残念ながら私は、そんなキラキラしたエリアには一度も居を構えたことがない。正直なところ、それらの区とは別世界の片田舎育ちのため、詳しく聞かれない限りは何区に住んでいたか言わないようにしている。
私のような似非ハマッコは、逆にそれゆえ横浜及び横浜駅への執着が強い。「祖父の時代から東京生まれなの」という生粋の江戸っ子より、地方出身の人のほうが麻布や六本木に詳しいのと同じである。
そんな横浜駅は、とある異名を持っている。
「日本のサグラダ・ファミリア」だ。
本家サグラダ・ファミリアの着工は1882年8月19日で、横浜駅の着工は1872年(明治5年)5月7日。
散切り頭から文明開化の音を出していた人たちが、ガウディよりも前に工事を始めていたことから「永遠に駅舎が完成しない駅」として、横浜駅は「日本のサグラダ・ファミリア」と呼ばれるようになったらしい。
むしろ散切り頭の人たちのほうがガウディより工事の先輩なんだから、横浜駅が「日本のサグラダ・ファミリア」なのではなく、サグラダ・ファミリアが「スペインの横浜駅」であると言った方が正しい。
絶え間ない改築の続く横浜駅が自己増殖して日本列島を飲み込む「横浜駅SF」という小説が生まれるほどには、横浜駅工事の終わりなき旅は有名だ。
駅構内でAの工事が終わるとその近くでBの工事が始まり、Bの工事が終わる頃にはAが老朽化して新たにAの工事がはじまる...といった感じで、私は一度たりとも横浜の未来予想図を把握できたことがない。
通路の工事にともない周囲のお店なども大きく移動するため、横浜駅で「過去の思い出の場所が現存すること」はほぼない。
だから今日はうろ覚えすぎる自分の記憶を頼りに、横浜駅の思い出を目いっぱい自分語りしたいと思う。
【駅前留学していた幼少期】
いきなりいけ好かないことを言うが、私は幼少期に留学していた。安心してください、駅前ですよ。
横浜駅前の英会話教室に通っていた私は、当時まだ珍しかった「ハロウィン」という文化にいち早く触れていた。ハロウィンには仮装をするという習慣を知った私は母に協力してもらい、ガチで黒猫の仮装をした。妹に至っては、当時まだ黒かった45リットルゴミ袋を存分に使い、魔女の帽子を作ってもらっていた。
しかし、こんなに気合が入っていたのは我々家族のみで、クラスの友達は皆、ハロウィンとは関係なく家にあったカチューシャや着ぐるみでお茶を濁していた。
「皆、ハロウィンに対する意識が低すぎる」と子どもながらに憤慨したのを覚えている。
【自分の顔をシールにしていた思春期】
高校生になると、学校帰りに友人とプリクラを撮るようになった。
横浜駅から歩いてすぐの五番街にあるプリクラショップ。近隣のダイエーに入っていたクレープ店のチョコバナナクレープを片手に、平成初期独特両手を開いて前に出すという謎ポーズのプリクラを撮り続けていた。
自分の顔をシールにする。
それに、一体何の意味があったのか。
いや、そこに意味など必要ないのかもしれない。
そんなプリクラも、昨年で30周年を迎えたそうだ。時の流れは恐ろしい。
令和8年現在、ボンボンドロップシールの交換ができずに泣いている子どもたちに教えてあげたい。
ボンドロシールが買えないなら、自分の顔をシールにすればいいじゃない!

【常連ぶる常連に辟易した大学時代】
大学生になると、横浜駅の喫茶店でアルバイトを始めた。
今では考えられないが、その喫茶店は全席喫煙席だった。たばこ臭さに慣れるまでは辛かったが、時給が多少良いことに惹かれ、平日の早朝シフトで働いていた。
たぶん私はあの喫茶店で一生分の副流煙を吸ったと思う。
早朝(7:00開店)の客層は9割以上が常連さんだった。我々は常連さんの入店を察知した瞬間から、注文を聞くことなく「いつもの」メニューを準備する。
彼らはレジ前に来たタイミングで商品が揃っていないと不機嫌になるケースが多く、「常連ぶる常連っていやだな」と辟易していた。
最初は戸惑いしかなかったが、慣れてしまえばむしろ気楽なもので、気づけば大学卒業まで長いことお世話になった。
競馬好きで面倒見の良かった店長が、我々バイトをたまに競馬に連れて行ってくれたのもいい思い出だ。
そして数年後、店長がレジ金を着服し、それが普通にばれて懲戒解雇になったことを知った。
あのときの競馬の掛け金、レジ金だったのかな…。
【夫と初デート(?)した華の20代】
時は過ぎ、社会人になった。
通勤先は都内だったが、生活の拠点は変わらず横浜。
ある時、会社から「強い推奨」という名の実質的な強制で渋々受けた簿記二級の試験会場が横浜だった。当時会社の同期だった夫も同じ会場で試験を受けていたので、打ち上げを兼ねて横浜駅の居酒屋で飲んだのが、二人で話した初めての夜だった。
当時ロングのゆるふわパーマだった私はビールを頼み、強面の夫はカシスオレンジを頼んだ。
店員さんは、躊躇なく私の前にカシスオレンジを置き、夫の前にビールを置いた。
無言でお互いの飲み物を交換したことを、今でもなんとなく覚えている。
【まとめ】横浜駅は、女子の恋愛と同じ「上書き保存」
そして、アラフォーとなった今の私にとっての横浜駅は「子どもと電車を見る場所」だ。
電車の乗り入れが増えたので、神奈川にいながら副都心線や京成線の車両を見られるようになった。これは電車好きの子どもにとっては幸運なこと。
でもきっと、あと10年もしたら、この光景は完全に変わっているだろう。
今回、幼少期から横浜駅との思い出を振り返ったが、共通しているのは「そんな場所、今はどこにもない」という悲しい現実。
駅前留学していた英会話教室も、「ずっ友」と落書きしたのに卒業後一度も会っていない友達と撮ったプリクラ店も、レジ金をギャンブルに溶かした店長がいた喫茶店も、夫と付き合うきっかけになった居酒屋も。
そして私は、サグラダ・ファミリアと横浜駅の決定的な違いに気づいた。
サグラダ・ファミリアは「積み上げ」の美学だ。はるかともいえるような時間をかけて、ひとつひとつ部品を積み上げ、大きな芸術作品をつくっていく。
一方横浜駅は、まさに「スクラップアンドビルド」。
常に新陳代謝を繰り返し、過去のものは跡形もなくなってしまう。
一抹の寂しさは感じるけれど、記憶は自分の中に残しておけばいい。
どんどん記憶を塗り替えることができる。過去の自分とはおさらばして、常に今の自分にフォーカスして、新しい思い出を作っていく。
横浜駅は、「女子の恋愛観」そのものだ。
もっといいもの、もっと新しいものへと絶えず上書き保存していく。
過去にとらわれず、前しか見ない。
これが、私が横浜駅がすきな理由。
