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戦争は経験がないのですが

夢の中で「ああ、東京大空襲だ」と思った。もう少しで空襲が始まると、わたしだけわかっている。このあと死ぬのだなあ。娘がどこかに駆けていってしまったけれど、まあどうせみんな死ぬしいいか、別に腕の中で共に息絶えなくともと放っておいた。

戦争、ということばからはさまざまな光景が浮かぶ。瓦礫、爆弾、銃、迷彩柄、ドローン。市民や兵士はもちろん明るい表情ではない。

戦争は、あたりまえにいやなものだ。「戦争反対」は太陽が東から昇るくらい自明のこと。繰り返してはならない過ち。愚かなる行い。戦争が始まるのか、と想像すれば胃のあたりがズンと重たくなり、これからどんなことが起こるのか——暮らしはどうなるのか、仕事は、命は——描いて暗澹たる気持ちになる。

でもあるとき、ふと気づいた。あたりまえのことに。

わたしは、戦争を体験したことがない。

攻撃の音も火薬の匂いも知らないし、ひもじさに目が冴える夜を経験したこともない。眩暈のするような恐怖に怯えたことも。つまり、「いやだ」と叫ぶ根拠を、自分の肌の記憶に持っていないのだ。

それなのに、なぜこれほどまでに戦争を「自分事」のように忌み嫌えるのだろう? 視界の裏に浮かぶこの映像は、どこから? 解釈の余地のない、圧倒的な「悪」だと断言できるのはなぜだろう? 

もちろん学校教育もあるし、知覧の特攻記念館やひめゆりの塔、そして昨秋訪れたベトナムの戦争証跡博物館(*)といった場での体験も大きい。ここ数年はリアルタイムで目にするニュース映像もあるけれど……

ベースにあるのは、コンテンツだ。本、映画、ドキュメンタリー、マンガ。幼いころから、あらゆるコンテンツたちがわたしの中に戦争の記憶を植え付けてくれた。

たとえば小学校の頃、学校や公民館で3回ほど観た映画『マヤの一生』。 「犬を飼うのはぜいたくだから」と大切な家族だった犬のマヤが殴り殺される描写。ショッキングだった。前半のマヤと子どもたちの幸せな暮らしとのギャップに、当時マヤ似の犬を飼っていた女児の心はちりぢりになった。

こちらは児童書

たとえば中学校時代、先輩との初デートで観た『パールハーバー』。となりにいる人への甘酸っぱい気持ちなんてどこへやら、身体が座席に沈んでいったのを覚えている。戦争映画というより恋愛映画であまりハマらなかったものの、重たい空気になった。

「史実を軽んじている」と酷評もされているとか

たとえば、10年前に観た『この世界の片隅に』。 画面のなかで営まれる、慎ましくも尊い日々。それが無慈悲にリアルに侵食されていくさまを見て、足下からざりざりと恐怖が迫ってきた。「こういうこと」なんだ。

どれだけの人が「すずさん」と呼びかけただろう

『アンネの日記』『ベトナム戦記』『火垂るの墓』『戦場のメリークリスマス』『硫黄島からの手紙』『7月4日に生まれて』『プライベート・ライアン』『戦場のピアニスト』『シンドラーのリスト』『COCOON』……

正直、戦争に関する作品に接するとしばらく元気がなくなるので、あまり好んでは触れない。だから数は多くない。それでもじゅうぶんだった。だれかが「これは伝えなければならない」という祈りにも似た情熱でつくった映画やマンガ、小説は、わたしに明確な価値観を育てていったのだと思う。

少なくともわたしが触れたことのある戦争を扱った作品群のなかで、戦争が礼賛されたことはなかったはずだ。人と人が殺し合って最高!だなんて、そんなメッセージを受け取ったことはただの一度もない。

おそらく、つくり手たちが理不尽さや無慈悲さに腹の底から怒ったり傷ついたり、その中を生きる人間の営みに心を動かされたりして紡いだ思いを、ストレートに受け取ってきた。

「知っていること」が「わかったこと」になるのが経験。わたしはそう思っている。

だとしたら、わたしは戦争を「わかり」たくない。 自分の肌で、自分の生活で、愛する人の不在でそれを「わかる」のはお断りだ。ただ「知っている」だけでいい。

さまざまなコンテンツのおかげで、実際には経験していない痛みを切実なものとして受け取ることができた。
平和を願う心は正義感ではない。あの日スクリーンやページの中でぷつりと消えただれかの命が、未来が、希望が、わたしの「いやだ」を支えている。

(*)ホーチミンにあるベトナム戦争に関する博物館。世界中のジャーナリストが撮影した大量の生々しい写真が展示されており、見るのに相当なエネルギーを使う(枯葉剤により死産した胎児のホルマリン漬けなども展示)。韓国など諸外国と同じように日本にも徴兵要請があったが、憲法9条と、それを盾に粘った田中角栄のおかげで免れたという。

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