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アダム・ウォン監督『私たちの話し方』(2024 / 香港)

耳のきこえない3人を巡る物語。

これから文章を書く上で、「耳のきこえない人」を「ろう者」と言ってしまっていいのか問題が、まずある。
手話やその文化に誇りを持っている人は「ろう」という人が多い。
一方、そのことで、逆に分断を生んでしまっていることに憂慮している人は、あまり「ろう」という言葉を好んで使わない人もいる。
つまるところ、複雑なのだ。

(これは、在日コリアンにも似ている。【在日朝鮮人】というと「北か?」とか、いやいや「民族名だ!」とか、、、【在日韓国人】というと、「南か?」とか、、、だったら【在日韓国・朝鮮人】と呼ぶと、「・」は38度線か?とか、国名と民族名を並置するのはケシカランとか、、、
では、無難に【在日コリアン】と言えば、英語は欧米の帝国主義だとか、、、結局、なんと呼べばいいか、わからなくなる。よく、金石範さんが書いているけれど。)

「聴覚障害者」という言い方も、「ろう」の人からしたら、「障害者ではない」とお𠮟りを受けたり。
「障碍者」と書けば、「むしろ、それは差別性の隠蔽だ」とか。

そういう、「アイデンティティ」を巡る分断の、もっとも対立項になりやすいのが、
【「手話」VS「口話」】だったり、
【「人工内耳」の是非】だったり。

(※手話の中でも(他の国のことは知らないけれど、日本の場合)、独自の文法体形(言語体系)をもった「日本手話」があり、「日本語」の文法に手話を当てはめた「日本語対応手話」というものもある。「ろう文化」では、「日本手話」こそが重視される。それは、ろう文化の誇りの中心であると同時に、(書きづらいのだけれど)それが「選民主義(日本語対応手話を見下すような気配)」のようなものを生んでいる部分もある。「日本手話」と「口話」の間に、「日本語対応手話」というグラデーションがあるというか。上で「ろう文化が分断を生んでいる部分もある」と書いたのは、そういうことで。)

だから、「人工内耳」は、ある意味では、タブーのようなところがある。
この映画では、その問題を取り上げていたので、
これは是非にと観に行った。



【イップ・ジーソン(ネオ・ヤウ)】は、耳のきこえない「ろう」であることに誇りを持っている。手話を使い、補聴器も付けてはいない。

【アラン・ン(マルコ・ン)】は、人工内耳(手術によって、受信コイルを皮下に挿入)によって、聴者とも口話でコミュニケーションできる。イップ・ジーソンとは幼馴染であり、手話も使える。

【ソフィー・フォン(ジョン・シュッイン)】は、人工内耳により、口話で聴者ともコミュニケーションができるけれど、手話は使えない。


日本でもそうだったけれど、香港でも、世界でも、
かつて「手話」がろう学校でさえ禁止された歴史がある。
読唇術をもとにする「口話」が推奨された。

つまるところ、「聴者」というマジョリティに合わせるために、
「そっちの方が生きやすいだろう」と、聴者の価値観によって「口話」を押し付けたような部分がある。

これも、言い方がとても難しく、
そこには「善意」と「支配(悪意)」が絶妙に絡み合っていて、
すべて善意だったとは言い難いのは事実だけれど、
じゃあ、「すべて悪意(支配)だったか?」というと、、、
わたしはそうでもないんじゃないかとは思っている。

この映画でも、ソフィー・フォンの母は、娘に口話を強制した。手話を禁止して。それは母なりの「親ごころ」でもあったのだから。「少しでも苦労が減るように」「生きやすくするために」と。
ただ、それが本当に「当人のためだったのか?」というのが、難しいところで。

いや、「子どものためではなかった」と、こういうタイプの映画では言いがちだし、
この映画にもそのニュアンスは明確にある。
ただ、この映画の一番よいのは、そっち「一色」にもしていないところ。

「宙づりにしている」という戦略というより、
どちらかと言えば、「ろう文化」を大事にしているのが基本。
それが、人権の問題だけじゃなくて、
実際に、ソフィー・フォンのこころを救う。
手話が。
こころのコミュニケーションの手段として。
自分のアイデンティティの回復として。

ただ、アラン・ンのように、「きこえない世界」と「きこえる世界」の間にいる人をも否定はしていない。
過剰に擁護しなくても、「アラン・ンは救われている」という前提なのかもしれない。

ただ、映画では描かれていないけれど、
「中途失聴者」「難聴者」など、
「聴者」と「ろう者」の間で、
「手話を選ばなかった」「口話を強制された」とかとも、また違う位相の苦労をしている人たちもいる。
この人たちの苦労は、本当に見えづらい。
まぁ、そこまで含めて描こうとしたら、複雑になりすぎてしまうのだろうけれど。

だから、この映画は、上記のシンプルな構造でよかったのだと思う。

また、それによって、
「きこえない世界」の問題だけではなく、
より広い「マジョリティ」と「マイノリティ」の問題の提示にもなっていたと思う。

イップ・ジーソンのように【信念を貫く】ことの美徳と、
実際のその価値が描かれ、
でも、同時に、それを貫く生きづらさはハンパなものじゃない。

対して、アラン・ンやソフィー・フォンは、
聴者の世界と「うまくやる」ことで、大きな利益も得ている反面、
自身を「利用」されてしまってもいる。
ソフィー・フォンは、その立場に耐えられなくなるのだけれど、、、。

映画を観おわって気になりつづけるのは、
映画の中心であるイップ・ジーソンとソフィー・フォンではなく、
むしろ、多くは描かれなかったアラン・ンの内面について。

実は、彼が抱えている孤独って、他の2人に劣らないものなんじゃないか?って。
(※彼の孤独が発露される部分が一ヶ所あるけれど、絶妙に「恋愛感情」と重ねられている場面だから、、、)

まぁ、「いい思いしているだけの人」の可能性もあるから、本当にわからないんですけどね。


とにかく、3人の演技が本当にすばらしく、
特に、イップ・ジーソン役のネオ・ヤウさんは、ろう者にしか見えなかった。
彼は、聴者で、1年以上かけて猛特訓の末、手話を習得したらしい。
わたしが聴者だから、「そう見えるだけ」かと思っていたら、
パンフレットで廣川麻子さんが【全く予備知識を持たずに本作を見た筆者は、「本物」のろう者、難聴者が出演しているのだと思った。】と書いているから、相当なものなのだろう。

アラン・ン役のマルコ・ンさんは、実際に「中等度難聴で自身も口話と手話を使い分ける」(パンフレットより)らしい。ただ、演技未経験。こちらは演技の猛特訓をしたそうで。
また、映画内で、「アランはジーソンから手話を教わったという設定なので、マルコが普段使っている手話とは異なり、ジーソンに近いタイプの手話をしてもらいました。」(アダム・ウォン監督インタビュー/パンフレットより)とのこと。ある種、手話をヘタにしているというか。絶妙に。

ソフィー・フォン役のジョン・シュッインさんは聴者なのだけれど、もともと手話を自分で学んでいて、その世界に理解があったそう。だから、「あえてヘタに」というか「できない人」を演じてもらったという。それも、すごい。

正直、演技未経験で、実際の難聴者のマルコ・ンさんが、いちばん「役者っぽく見えた」(←いい意味でも、わるい意味でもなく)のが、とても不思議。
「役」と「実際」と「演技」って、本当に興味深い。


結局、3人の演技の説得力ということに尽きるような気がする。

とてもいい作品を、ありがとうございました。


※追記のようなものを書きました。


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