小さな罪で大きく罰せられること(ストルィコフスキ『還らぬ時』他)
エヴァ・ホフマン『シュテットル――ポーランド・ユダヤ人の世界』小原雅俊訳、みすず書房、2019年。
ユリアン・ストルィコフスキ『還らぬ時』坂倉千鶴訳、恒文社、1997年。(残念ながら抄訳)
シュテットルとは「小さな町」という意のイディッシュ。ホロコーストにより消滅したが、ポーランドのユダヤ人共同体の「原風景」として回顧される過去だ。何世紀にもわたる多文化共存の実験場であり、第二次大戦時は隣人同士の裏切りや凄惨な暴力の現場ともなった。
『シュテットル』の著者はユダヤ系米国人のジャーナリストであるが、自分のルーツを求めてポーランドを訪れる。本書の舞台であるブランスクでは、人口の過半数を占めるに至ったユダヤ人が一人もいなくなった。だが、今日のポーランド人住民は、大戦中(と大戦直後)に起きたことを思い出したくない。忘れてしまいたい。だから、まるで最初からユダヤ人などいなかったかのように暮らしてる。ポーランドの記憶の政治がここにあって、ポーランド人とユダヤ人の生き残りの間で集合的記憶が食い違う。
かつてのポーランド(今日のリトアニアからウクライナ西部を含む)は世界最大のユダヤ人人口を抱えた地域で、ここから米国やイスラエルに多く移民した。小説などでも東欧系ユダヤ人がよく登場するのはそのせいらしい。今日のポーランドはカトリック国のイメージが強いが、かつては同化圧力が緩い多民族国家で、ユダヤ人にも住みやすい場所だった。
シュテットルでも広範な自治が認められていて、ラビに率いられた長老会みたいな政治組織があった。中央政府との関係でも、後のユダヤ人ロビーの原型みたいなものが見られる。しかし、近代化とナショナリズムの時代には、この地域が反ユダヤ主義の温床にもなっていく。
自分が読んだユダヤ・フィクションに登場するユダヤ人の多くは、この地方出身である。マラマッドの『修理屋』の舞台になったのもここ(主人公はキエフ近郊のシュテットル出身)。シェイボンの『ユダヤ人警察同盟』には、架空のアラスカへのユダヤ人移住者共同体が出てくる。ハシディムがカルト宗教とマフィアが混ざったような連中として描かれてるけど、元は耐え切れない苦しみと痛みを抱える者たちの宗教共同体で、やっぱりこの地域に18世紀に起こった神秘主義的運動から生じてきた。ポトクの The Chosen に出てくる世俗的ユダヤ人たちと対立する超保守派の人びとも、虐殺を避けて米国に逃げてきたハシディムだった。
小説『還らぬ時』は、オーストリア・ハンガリー帝国統治下のガリツィア地方(ポーランドから西ウクライナ一帯)が舞台である。訳者解説によると、やはり「ガリツィア神話」みたいなものがあって、ユダヤ人たちが懐古の情をもってふりかえる生活がそこにあった。ユリアン・ストルィコフスキは1905年にここのユダヤ人共同体に生まれ、目の前でこの生活が破壊されるのを見た。元はシオニストであったが、1934年に共産党に入党し、ポーランド侵攻の際にはソ連に亡命している。
幼い頃のストルィコフスキは、ポーランド文化に素朴な憧れを抱く少年であったらしい。ユダヤ共同体にどっぷり浸かりつつ、外の世界に惹かれていた。しかし、ユダヤ人共同体の消滅に衝撃を受け、これを忘却から救うために書き始めた。『還らぬ時』は「ガリツィア三部作」と呼ばれるものの一つで、「ガリツィア神話」を構成した諸作品のひとつらしい。
かつてそこには何か美しいものがあった。それが無残に引き裂かれ、失われた。いや、失われた後になってはじめて、それが美しいものであったと気づいたのかもしれない。だから、不幸な記憶であっても忘れたくない。ストルィコフスキは、「なぜ書くのか」という問いに対する答えをそこに見出す。それは共産主義者になった彼が、「ユダヤ人であること」の意味をとり戻すことでもあった。
遅まきながら、わたしはワルシャワ・ゲットー蜂起の壊滅について知ったのです。虐殺の後ふたたび我が民となったユダヤの民が、日に日に地上から姿を消してゆくことを知りました。共産主義者のユダヤ人はもはやユダヤ人であることをやめる。しかし、わたしは再びユダヤ人であると感じました。[……]蜂起に加わったユダヤ人とユダヤ民族すべてのために墓標を建ててやらなければ。微力ながら、このわたしにできるかぎり……救いうるものなら、この手で忘却から救ってやらなければ。
物語は、第一次世界大戦開戦当日の一昼夜の出来事である。ポーランド人とユダヤ人が混在し、ポーランド語やイディッシュ、ドイツ語、ハンガリー語、ウクライナ語、果てはエスペラント語までが入りまじる町が舞台だ。息子を兵隊にとられ、嫁と孫娘と旅籠(アウステリア)を切り盛りするタク爺さん。だが、ロシア軍がそこまで迫っており、またポグロムの気配が漂う。またユダヤの民に不幸が降って来た。またわしらは逃げ出さないとならない。いったいいつになったら、われわれは安住できる「故郷」をもてるのか。
70歳になるタク爺さんは、自らは戦争の経験はない。しかし、悪いことが起こるという予感はつねにある。二百年ほど前にコサック兵がポーランドを北上したときには、女はみんな凌辱され、男の半数が虐殺されたと伝えられている。だが、これはユダヤ人の宿命ではないか。神に約束された地に帰還するまでは、ユダヤ人が安住の地を得られないのは当然ではないか。普段は何も気にせずに暮らしてるような人々が、いざとなるとそれを思い出させられる。いかに落ち着いたように見えても、自分たちは旅人の身であることを。
開戦当日、あたかも「ノアの箱舟」のように、タク爺さんの旅籠にユダヤ人たちが集まってくる。ユダヤ人たちも多様である。フリーメーソンのような職人組合の世俗的進歩主義者のようなものたちから、ハシドと呼ばれる超保守派集団までいる。そして最初の犠牲が出る。写真屋の美しく不幸な娘アーシャだ(アーシャは継母に疎まれており、父も娘より後妻を気にかけてる)。町から逃げる途中、恋人のブムと森にしけこんだときに、弾に当たった。
逃げ出した人たちも逃げきれず、結局はまたタク爺さんの旅籠に戻ってくる。アーシャの遺体も旅籠に担ぎ込まれる。ブムは自分を責めるが、ひとびとはアーシャとブムの軽率を責める。二人の恋は、しばらく前から町のスキャンダルになっていた。劇の舞台で引き離される恋人たちを演じた二人であるが、ブムは感極まってアーシャに接吻の雨を降らせてしまう。聴衆の眼前で行なわれたこの罪に町は激怒し、ブムは退学処分になる。そのブムを赦したのはポーランド人の男爵夫人であったが、ユダヤ人たちは神の眼前で犯された罪を忘れていない。
だが、タク爺さんは、この若いカップルに同情する。恋に身を焦がすのは罪なのか? この罪のために彼らは神に罰せられたのか? 実は、タク爺さんも肉欲の罪を犯している。旅館の牛飼い女のイェヴドーハ(ウクライナ人らしい)を愛人にしている。だが、わしらの不幸は、わしらの罪のせいなのか。ユダヤの民が苦しめられるのは、わしらは神の眼前で罪を犯しているからなのか。だから、神がわしらを見捨てられたのか?
実際のところ、叩いて埃の出ない人は多くない。ほとんどのユダヤ人は普段は戒律を破りながら生きている。「審判の日」の前になって、ようやく不安を感じはじめる。「畏れの日」になると、パン屋のヴォールは、ハシドの賢者のところに通うが、彼以外の誰もが相応の罪を犯している。だから神の怒りを畏れずにはいられない。
タク爺さんは世俗化していないユダヤ教徒であるが、神を疑ってもいる。神に苦情がある。
主よ、汝が世界を造り給うたのは、人間を悩まさんがためではないですか。善きことが多すぎぬようにと、歳月を切りとられたのではありませぬか。父親は長生きし、息子は短命であれとな。生の血と乳である幾百、幾千の若者が死に絶えてゆく時が到来するまで、両親はわが子の弔いをしてやる時が到来するまで。家内の死を以て、汝は充分にこのわしを[姦淫の罪によって]罰せられたのではありませんか。そうですとも、承知しておりますとも、だがそれでも、わしもブムのように壁に頭をなんどもぶっつけたのじゃ! コサックの奴らはわしの罪のために女たちを手ごめにするじゃろうて! だが、白い雪のようなアーシャはなぜ死ななければならなかったのじゃ? 罪に不相応な罰じゃ。
その一方で、タク爺さんにとっては、戒律を厳格に守るハシドのような人々もまた、滑稽で悲劇的な存在である。天使と会話してばかりで世事には上の空の賢者を担いで、右往左往している。他人の罪には厳格だが、他人の痛みには鈍感である。アーシャの遺体が置かれた旅籠で、平気で歌を歌い踊りを踊る彼らを、タク爺さんは困惑して見ている。この賢者のように、神もわしらのことには上の空なんではないか。
タク爺さんはあの世を信じている。しかし、この世は?
こいつは、ここにあるのは地獄じゃ。天空までも突風うなる海原で、一本の髪の毛に辛うじて人間がぶら下がっているのだとしたら、これが世界なものか。この世をご覧になれば、神さまだとてお嘆きになり、きっとこうおっしゃるに違いない。「おぉ、なぜわたくしはこのような世界を造ってしまったのであろうか」とね。[……] 世界とは、苦い薬でなければならないのか。主は、名医とは呼べぬ。人間たちに甘い薬を与えてもよさそうなものではないか。
だが、タク爺さんは信仰を捨ててない。旧友であるポーランド人神父に匿ってやろうという申し出を受けるが(そうすればポグロムを避けられる)、爺さんはそれを断り、ユダヤ人たちと共にいることを選ぶ。神父は、タク爺さんがユダヤの神に満足していないことを知っている。だからキリスト教に改宗させようとする。彼に不幸が降ってかかるのはユダヤ人であるからだ。
あなた方ユダヤ人とは、いつもこんな具合です。良かれと思ってしたことが、いつも逆の結果になってしまう。何かしら、呪われてでもいるように。
ユダヤ人をやめて、キリスト教の神に帰依すれば救われる。しかも、この場合は文字通りにだ。
しかし、ブムが捕らえられ絞首刑になったと神父から聞いた爺さんは、ロシア軍統制下にある警察署長に談判に行くことを決意する。ユダヤ人共同体の代表者たちは、すでに人質として捕らえられている。タク爺さんは生きては帰ってこれないかもしれない。だが、彼は行かなければならない。ユダヤ人と苦を共にしなければならない。
彼は若者たちのためにも行く。二人はもう死んでいるから、そんなことをしたって帰ってこない。だが、辛い人生でささやかな楽しみを求めた罪を、命で支払わされたことには抗議しなければならない。それがまた、ユダヤ人全体の神に対する訴えでもあるかのように。
大して気を配ってはくれないが、なんでも抱きかかえて可愛がってくれる母なる自然と比べて、天上の父なる神はやたらに厳しい。過保護なほどえこひいきしてくれる一方で、約束を違うとひどく罰せられる。高い要求に応えられないと、自分の子らを見捨てかねない。ユダヤ教の神というのは、確かに宗教史上のみならず精神史上の大きな革新であった。
ひとが神を信じるのは、堪えられない現実を前にして安心を得たいがためかもしれない。しかし、だからといって、何事にも動じず安心立命の境地に立てるわけではないし、そうなってしまうと信仰の意義はなかば失われてしまうのかもしれない。沈黙する神にぶつかって、ひとは自分自身に帰ることを余儀なくされる。そこに自己との対話が生じ、自己意識が芽生える。
ユダヤ人に優れた学者や作家が多いのは、幼い頃からの文字教育と職業選択の制限のせいであろうが、それだけではなさそうだなと自分は感じている。それが何であるか特定できてないんだが、「何かしら、呪われてでもいる」ことにも関係してそうだ。今日では、ユダヤ人であらずとも、自分の故郷において旅人のように感じさせられている者が増えた。そういう時代に、ユダヤ人的思考がある種の普遍的なテンプレートを提供してくれるかもしれない。
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